長岡亮介のよもやま話396「完成された映像に潜む虚偽、傷だらけの生演奏にだけある感動、薄べったい評論家に騙されない知恵」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 最近、我が国で高解像度放送、いわゆる4K放送というのが始まってから、やたらに自然物が多くなったという印象を私は持っているのです。高いところから風景を眺めるという「絶景ビュー」っていうのを、茶の間に届けるというのが大切な仕事のように思っている人たちがいらっしゃるということですが、本当に美しい景色を見たときの感動というのは、高いところから、空から飛んでみてすごいなと思うというよりは、汗水を垂らして、その山頂に着いたときに目の前に開ける絶景の素晴らしさ。それは景色そのものの素晴らしさというよりは、そこに向かって一歩一歩上ってきた汗を垂らした努力、それが生み出す感動なのではないかと私は思うのですけれど、最近どうもそういう傾向ではありませんね。

 一方、そういうことを率先してやる冒険家たちの物語も、少なくありません。しかし、その冒険家たちの映像を撮っている人たちがどれほど周りで苦労しているか、ということを考えると、その冒険家たち以上に英雄的なのは、その映像ために機材を運び、そして、何往復もして、その最適な撮影場所を探す。そういう準備をしている裏方の方ではないかと思うことがあり、よほどその探検家よりも、あるいはアスリートよりも、素晴らしいアスリートであると、感心することの方が多くなりました。私は少しへそ曲がりなのかもしれませんが、私自身がテレビの放送というのに携わっていた経験があるので、テレビ放送というのは、いかに映像を作るかという世界であるということを肌身にしみて感じておりますので、やはり生中継とは全く別の世界があるということですね。

 生中継と言われているものにも、生中継を可能にするための物すごく大変な周到な準備が必要であるわけで、例えばオーケストラの生中継にしても、カメラが非常に巧みにスイッチする。そういう姿を見ますと、多くのディレクターあるいはカメラのスイッチャーの人が、出来上がったシナリオに従って、手順よくそれをこなしているという技に、驚かされることの方が多いですね。

 映像というのは所詮作られたものでしかないということを、私は私の短い人生の経験で、つくづく感じました。特にインタビューに関しては、インタビューすることによって、その人は長くインタビューされて、自分の言いたいことがずいぶん伝わったと思っているに違いありませんけれども、実はインタビューしている側は、その人が自分にとって都合のいいセリフを言ってくれるのを待って、そのセリフを引き出すために、様々なトリックを仕掛けて、そのインタビューの発言を引き出している、と言うべきなんですね。これは一般の講演とは全く違う世界なんだということを、人々はちょっと知った方が良いかと思います。

 しかしながら、私が今回お話したいのは、テレビ番組の裏にある世界というのではありません。そうではなくて、その出来上がった映像の世界の完成度の素晴らしさに惹きつけられる。その魅力を堪能するということも大切なのですが、そのような出来上がった映像を、作る前の生映像の面白さ、演奏で言えば、生演奏の楽しさ、それにもっと人々の注目がいくといいなと思います。生演奏というのは、たとえその演奏家が技術的に高いものがないとしても、本当に素晴らしく、心を打つものであります。その人が一生懸命弾く。その一生懸命さが伝わってくるんですね。それは綺麗に鍵盤を譜面通りに弾くピアノ演奏とは全然違う。弦楽器なんかは、あるいは管楽器でも音がはずれることはいくらでもありますし、そういう失敗を全部含めて、生演奏というものは素晴らしい。そういう生演奏の素晴らしさっていうのがだんだんお茶の間から失われて、作られた映像、作られた作品が、表に出てくる。

 言ってみれば、虛議の世界が本物の世界と混同される世の中になっているということに、私は皆さんの注意が少し向かうといいなと思います。やはり、楽器一つ取ってみても、その時々に応じて、演奏の仕方は変わらざるを得ないんですね。そして、その変わること、その変わる際に不思議と聴衆がそこに参加しているんですね。どんな聴衆がいるかによって、演奏家は演奏が変わる。誠に不思議なことです。私自身は、何回も講義をしてまいりましたが、講義を聞いている学生諸君の関心のあり方によって、講義が全く違ったものになる。そういうことを何度も経験しています。それを「長岡は授業の予習をしてこない」と言う人たちがいますが、そうではないんですね。人々の反応によって授業が変わってくる。そういう授業の変わり方の妙味がわかるようになってくると、本当に数学がわかるようになってきた。ということになると思います。

 完成度の高い演技を見て、これは素晴らしい演技であると言うのは、その辺の評論家が言いそうなことで、これは芸術とは本当は縁もゆかりもない世界です。評論家というのは、そのために雑文を書いている人たちのことであると言っていいくらいで、私の評論家に対する低い評価は、数多くの天才画家たちが、いかに多くの悲惨な批評家によって、悲惨な人生を送ってきたか、ということを知っているからでありますが、ろくでもない批評家たちの方が遥かに多いわけです。

 私が評論家というものの素晴らしさに、目が覚めたのは、小林英雄という方の評論に触れたときであります。評論は創作以上に創作的であると、心の底から感じたことがあります。そのような創作に匹敵するような評論、それが大切なのですが、自分が安全な場所にいて、偉そうに評論する。まるでスポーツ評論のような、こんなくだらない世界は本当はなくなってほしいと思っていますが、残念ながら我が国の人々は、次第次第にそういうものに飲み込まれつつあるように思います。

 剣道の世界では、相手に対して1本を取った、勝ったときに、そのときに「やった!」というような仕草をした途端に失格になるという、恐ろしい流儀をご存知でしょうか。剣道というのは人を殺すスポーツでありますから、当然の事ながら1本を取ったときに、それが「やった!」というような勝利の雄叫びになるはずがない。それは、ある種の悲しみ、深い悲しみを伴ったものであるということ。それを剣道の今の流儀は教えています。

 それが最近では、柔道はなんとしたことでしょう。一本取ったかどうか、それもわからないまま、それが審判にどう判定されるかをキョロキョロ見る選手の惨めな姿を見るたんびに、これは武道家ではないなとつくづく思います。「これほどまでに柔道が堕落してしまったこんにちの状況は日本のせいはなくて、世界の陸連のせいである」と講道館の人は言うかもしれませんが、やはり「日本がそういう世界の波に飲み込まれているということ自身が、日本の武道を守ってきた人たちの誇りが失われたことだ」と思い、悲しく思います。

 私は皆さんに、出来上がった映像の世界に対して、それについて偉そうなことを言う評論家の意見に左右されるものではなく、自分の見たまま、感じたままに、いいな、くだらないな、つまらないな、素晴らしいな、感動した、そういうふうに言えるような、芸術との出会い、あるいは美との出会い、武闘との出会い、そういうものに遭遇していただきたいと心から願っております。

コメント

タイトルとURLをコピーしました