長岡亮介のよもやま話391「東大の学費値上げのニュースに触れて、まず皆さんに知っておいてほしいと思うこと」

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 従来この欄では、あまり時事性の高いネタは取り上げてきませんでした。時事性の高いネタというのは、時事性によって価値がある。それゆえ、時事性を失ったときには価値を失いかねない。そういう思いがあり、時間とともに、できるだけ風化しない情報を残していきたい。そういう考えから、時事性の高いネタというのは取り上げてこなかったんですが、言うまでもなく、私達が現代社会に生きていて、現代社会時事刻々と変わる話題、これは私達にとっても、本当は最も深刻な問題でありますから、日々状況を考えて情報を発信するということが大切である。そのことには変わりないわけです。私はここで時事性の高いネタを取り上げますけれども、あえてそれを時間に関して普遍的に、あるいは時代関数的にお話をしたいと思います。

 最近報道される情報の中で、あきれ返ったものの一つとして、「東京大学が授業料を値上げする」というニュースが伝わってきました。元々東京大学の授業料はえらく高いわけです。これは文部省が定めた標準額だと思いますが、年に53万円、もっと正確に言うと535,800円、えらい高いんですよね。何でそれがえらい高いかというと、皆さんは昔のことをご存知ないかもしれませんが、私が学生時代、昭和の40年代あるいは1960年代後半、前半も含めてその時代には、授業料は年額12,000円でした。年額12,000円というと、月額1,000円ということになりますから、当時の私立の中学や高等学校の授業料と比べても、遥かに安い値段でありました。それがどんどんどんどん引きずり上げられて、今から30年ほど前でしょうか、年間50万円を超える授業料が常識になった。とんでもない時代が来たなっていうふうに、私は当時思っていたのですが、しかし世論では大きな反発もなく、それが受け入れられたようです。

 そして、今東京大学で検討されているのは約10万円を値上げして、642,960円なるという話なんですが、「そもそも」という論点が日本の議論には欠けていて、例えばアメリカの大学の授業料と比較して、日本の大学の授業料は安すぎると、こういう話があるんですね。英国United Kingdomの授業料と比べてもそうだと。当たり前なんです。それはUSAあるいはUKの大学は、ほとんどが私立大学なんですね。私立大学でも、オクスフォードとかケンブリッジとか、そういうところの名門なりますと、修道院が経営しているわけであります。莫大な財産を持っていて、その財産をファンドにして、経営が行われている。それであっても、一般の学生の授業料は、日本と比べてかなり高いと言わなければいけません。アメリカの大学は、私立大学制がもっと進んでいますから、私立大学が経営者の考え方に従って、授業料を値上げしていくということは、当然のことであります。

 私がかつて今から30年ほど前でしょうか、アメリカの大学の管理職の人が集まるセミナーに招かれていったときに、そこの基調講演を行ったアメリカの有名な大学の副学長、アメリカやイギリスUKの大学では、学長という人よりはいわゆる副学長というのは力を持っているってことがよくあって、学長というのは名誉職、副学長が実際上の学長っていうことがよくある。Vice-Chancellor、 あるいはVice-presidentと言いますが、ある有名な大学のVice-presidentだったと思いますが、その人のプレゼンテーション、当時はまだコンピュータを使ったプレゼンテーションではなくて、Transparency(トランスパレンシー)っていう透明な紙に書いたプレゼンテーションでありましたが、その冒頭のセリフを見て、本当に私も腰を抜かしました。それは、「Education is」から始まっているんです。そして、その後に重ねられたトランスパレンシーに、「Business.」と書いてあったんですね。「教育は商売だ。この観点がなかったことが、大学がずっとGraveyard墓場のように、移転が難しい、あるいは移すことが難しい、変化が難しいというふうに言われてきたことの大きな原因だ。もう大学はGraveyard墓場ではなくて、ビジネスのターゲットになるべきである。そしてビジネスにおいて、利益を最大にするためにどういう戦略がとられるべきか、それを前例とか、あるいは慣習とか、そういうものにとらわれることなく、トップマネージメント、経営陣のトップが責任を持って決めていく。そういう体制をとって機動的に変化していかなければならない。」そういうような講演でありました。

 私は、それはそれとして、アメリカの大学ならではのことだと、理解したわけでありますね。アメリカの大学というのは、かなり広告宣伝に関しても、はしたないわけでありまして、日本大学もその点では決して負けないかもしれません。例えば、有名なスポーツ選手を入学生に入れて、フットボールとかバスケットボールで活躍する。そういうところで名前を売る。こういうことが大学経営の一つの柱になったりしている。それが日本では有名な、アメリカでもそこそこ有名な経営のうまい大学、少しはしたない大学と私は言うべきだと思いますが、日本の行政、経産省なんかともツルンで日本の留学生がよく行く大学の中にもそういうのがあります。

 でも、多くの大学が私立大学であるからして、当然のことながら、良質の教育をするために立派な教授を迎え、立派な研究環境を用意し、そして、大学の知名度を上げる。そのことによって優秀な学生を集め、そのことによって大学としてのプレステージを上げていく。大学の基本戦略でありますね。ですから、アメリカは、入学の段階からして、「この学生は、大学にとってどんな役割を果たすか。あるいは果たせるか」ということを見て、それで判定しているんですね。日本のような学力で合否を判定することはしていない。学力に関しては、それこそ大学入試センター試験のような、民間機関がありまして、その民間機関の学力試験を受ける。そして、三つの科目に関して、3A、AAAということですね。そういうのを取る。たった3科目ですよ。たった3科目の中に、例えば言語の分野があるんですが、英文学の話もありますが、フランス語やドイツ語もあるでしょうし、びっくりしたのはその中にはCとかC++とか、そういったcomputer languageまで入っている。こんなものの中から3教科とってA+を揃える。簡単なことですよね。数学の場合でもそうです。いくつかの数学のSubjectがあって、日本からの水準で言えば、高校1年生ぐらいだったら取れた当たり前でしょう、というような程度の試験です。ですから学力テストって言っても、日本の大学入試センター、あるいはかつての共通試験以下のレベル、つまり「必須最小限のことは勉強してきましたか。」そういう学力試験にすぎない。だから学力試験は重視されていない、とはっきり言わなければいけない。じゃあ何が重視されているかというと、高校時代あるいは中学時代からどのようなアクティビティ・活動をしてきたか、これが高く評価されるんですね。ボランティア活動をしてきた。あるいは、生徒会で重要な役割を演じてきた。文化祭で面白いものを企画して、それを成功させた。ボランティア活動から文化祭までいろいろな活動がありますが、その中でリーダーシップをとって、上手にそれを運営した。そういうことが高く評価される。

 日本では、AO入試とかっていう形ばかり真似をした制度が導入されていますけれども、本当のこと言って、AO入試が機能している大学はまずないんではないかと思います。アメリカのAdmissions Officeというのは、入学専用の事務室なんですね。入学専用の先生っていうのがいて、その先生たちは入試担当なんですね。入試担当で何をするか。きめ細かく学生の能力、資質は判定する。その能力や資質の中に、その学生が4年後卒業したときに、その大学の卒業生として社会的に恥じないリーダーシップを発揮して、社会の中で活躍していくことができるかどうか、そういう能力を判定するというんですね。学力じゃないんです。AO入試とかって言って、形ばかりの入学試験をやって、形ばかりの口頭諮問、面接をやって判定する。そんな馬鹿なものではない。もっと本当に根掘り葉掘り、その学生の資質を判定する。そのことによって、私立大学がやがて4年後に卒業生として送り出す学生が、その大学の卒業生としてふさわしい人になるかどうかっていうことを判定するミッション・責任を帯びている。それがAdmissions Officeのスタッフなんですね。一年中年がら年中、入学試験をやっているっていうと気の毒な職業だと思うかもしれませんけれど、アメリカでは、入学生を判定するということは、卒業生を判定するということに繋がることであり、それが社会の大学に対する評価に直結するということでもって、非常に重視されている。Admissions Office付きの教授っていうのが存在する。その人たちは研究教育というのは二の次、とりあえず、人を見る。その人の人柄を判定する。そのために、たっぷりと時間をかけ、いろいろな書類を見て、推薦書を読み、それで判定するということです。日本のような形ばかりのAO入試、そんなものではない。

 アメリカは、大学の受験が学力試験でないがゆえに、学力試験を上回るより厳しい入学資格を問うているわけですね。それは一言で言えばアメリカの大学の場合で言えば、人物っていうことになるでしょう。英国UKでは、少し雰囲気が違いますけれども、しかしそこでも、推薦状というのは決定的に重要な役割を果たします。アメリカよりは多少学力試験に関しても、重みがついているように思いますけど、しかしながらUKの場合も、やはり大学入試をするのは、私立の例えば、ケンブリッジ大学やっているわけじゃないですけど、ケンブリッジにある大学入試センターみたいなもの、あるいはオックスフォードにあるものが全国的に試験を実施しており、自分たちの入学試験こそが学力判定にふさわしいんだということを、競争しているんですね。面白い社会ですね。日本では大学入試センターA、入試センターB、入試センターC、入試センターD、それが民間企業によって運営されているということを聞いたら、まず多くの人がびっくりするのではないでしょうか。それは、日本では大学入試に関して先進他国と大きな違いがあったからです。とりわけ欧米、欧米といっても特にイギリスやアメリカとは歴史的に大きな違いがある。

 私が最初に申し上げたいのは、欧米の中で「アメリカやイギリスでは私立であるということが当たり前である」ということです。それは、イギリスで有名なパブリックスクールって言われる私立の有名高校に関してもそうで、パブリックって名前がつくから公立校だと思っている人がいますが、そうではなくて私立なんです。どういう意味でパブリックかってこれを話すと長くなるので省きますけれど、そのパブリックスクールっていうのは、私立でしかも授業料がものすごく高い。信じられないほど高い。日本における私立で最も授業料が高いところと比べても、ざっくり見て、約10倍くらい違うんじゃないでしょうか。そのくらい授業料が高い。アメリカでもそうです。良い高等学校、良い中学校に入るためには、普通の公立の中学なんかに入るのとは比較にならないだけのお金がかかる。しかし、比較にならないくらい質の良い授業が提供されるわけでありますね。アメリカの私立高校では、ラテン語やギリシャ語が教えられるということが、今でも一般的でありますけども、おそらく公立の中学や高校でそれが教えられることはあり得ないでしょう。数学や物理なんかに関しても、私立の、日本で言えば中高一貫校における教育は確かにお金がかかる。そういう教育であるわけです。立派な教員を揃え、立派なカレッジ、立派な建物。その中で寄宿舎生活・ボーディングスクールのような形式をとる。ですから、授業料が高くなっても当然とみんなが思ってくれると思うんです。そして、みんなが行きたがる。なぜならば、そういうところでできた良い友達が生涯の友となり、そして自分たちを引っ張るライバルになるということを知っているからですね。未だに、ウィンチェスターとかのパブリックスクールは、日本でもとても良い有名であります。

 そして、注目すべきことはそのような法外な授業料を取る学校の授業料が、全員に対して同じように課されるかというと、全くそうではなくて、実は奨学金で無料で入れる学生がいるわけですね。日本ではイートンスクールが非常に有名ではないかと思いますが、イートンの優秀な学生はほとんど無料の奨学生と言ってもいいと思います。その奨学金がついて卒業できるわけですね。そして、学校側は奨学金を出すことの引き換えに、良い卒業生を出すという名誉を、その金で買うということであります。

 授業料を高くするという立場、それはある面ではありうる。それは、まず基本的に私立大学であり、その大学の経営に責任を持つ人が、具体的にノミネートされる。この人が経営に責任を持っている。お金の問題に関しては、この人が最終権限を持ち、無駄遣いに関しても、全てこの人が責任を持っているんですよということがはっきりするということですね。日本のように、誰が経理責任者であるか、それがはっきりしないというようなところでは、授業料の値上げということに関して、私は非常に否定的です。アメリカの大学あるいはUKの大学では、Vice Presidentが、予算権に関しても本当に大きな権限を持っています。ですから、予算が正しく使われなければ、直ちにその人はクビになるわけです。それだけ厳しい責任を負っているということですね。日本の大学が、もし予算に関して、それを分配するのに、権限を集中させ、その人が権限が集中していることによって、自分の責任も問われるという体制になっているならば、私は、日本の大学の私立大学化っていうこともありうるかな。ありうる選択肢ではある。そういうふうに思います。

 他方、私はアメリカUSAとイギリスUKの話を中心に話してきましたが、欧米といったときの欧州では全く大学制度が異なるということを、ほとんどの人が知らないと思うんです。欧州の大学においては、基本的に大学の授業料は全額無料なんですね。いわゆる国立大学においては、授業料は無料。なぜ授業料が無料にできるか。それは、大学に入った人間が、それなりの厳しい勉学生活を通じて、得た学問的見識でもって社会に貢献することができると期待されているからです。しかしながら、ここで注意したいのは、国立大学は授業料が無料である。だからといって私立大学がないのかというとそうではないんですね。授業料が極めて高い私立大学が国立大学と併存している。それはなぜか。それは教育のクオリティにおいて、国立大学と私立大学との間に競争があるからです。

 日本はどうか。日本は国立大学・私立大学という区別はありますが、それは入学金とか授業料の区別だけであって、卒業生に関する区別はないんですね。国立大学卒。私立大学卒、その区別がない。国立大学でも東京大学卒と、名前を出しませんが〇〇県立〇〇大学卒という公立大学と区別がありません。みんな4大卒と就職活動の際には、自分の学歴に書くわけです。大学名は書いてはいけないことになっています。こんな馬鹿な国があるかと思いますけれども、国立大学と私立大学というこの区別は、学費の問題を除いては、もはやなくなっているという現実があって、本当に大学にとって重要な大学の教員の質、1人当たりの学生についての教授の数、あるいは教授が研究や授業の準備のために費やす時間の量、それがどれほど違うのかということについてのきちっとした統計は、私の知る限り、あまり明確には出ていないように思います。特に新設される私立大学に関しては、そのあたりの管理は私の言葉で言えばズブズブで、ほとんど研究教育と言いながら、研究でも教育でもないというようなことが、授業の名において行われている。そして、卒業資格を売る。

 日本の中には不思議なことに4大卒でないと取れない資格があるんですね。有名なものは、教員採用試験を受ける受験資格ですね。教員採用のための基本資格として、「4年制大学においてしかるべき単位をとること」こんなことが定められている。私はこんなものこそAdmissions Officeで、「この人は教員にふさわしい教養を持っているか、あるいは教員にふさわしいだけの教養を持っているとは思えないというか」、教育委員会のAdmissions Office担当の委員が時間をかけてきちっと判定すべきだと思うんですね。ちょっとくらい模擬授業やって授業がうまかったとか下手だったとか、そんなもので判定しているようでは話にならないと思います。

 企業は少なくとも就職の際に面接をして、そのときに企業の志望者が本当に企業にとって有力な人となるかどうかということを判定します。その判定に関わる係が人事部とか人事課と言われています。普通に考えればせっかく企業に入って活動しようとしているのに、人事部とか人事課なんてつまらないなと思うかもしれませんが、企業にとって、人を選ぶということが、企業のこれからの生命線を握っているんだということを考えるならば、企業のトップマネジメントにとって、人事部や人事課に優秀な人を配するということが、戦略的に最も重要なことである。これは誰が考えても当たり前のことですよね。

 もし就職の面接の資料に卒業大学の名前を書くことができないならば、大学名でなくても、その人の持っている基礎教養がどの程度であるかを判定することができる人が、人事部の採用担当係にいなければ話にならないんですよね。残念ながら今の日本の企業は、そのような力さえ失っていると言わざるを得ません。4大卒というふうに大学卒業資格を全部水平化した中で、企業は大学名を聞くわけにはいかないので、そこで民間会社を利用して、学生の大学時代の活動状況を聞き出す調査会社を雇っている情けない有様です。大学にしろ、企業にしろ、入学のところでしっかりと選考しなければ、結局のところ、最終的な企業や大学の組織としての力が、本当に問われたときに、やばいことになるということは、当たり前の話であるわけです。

 アメリカやUKの大学では、大学入学試験は共通試験のような簡単なものだったと言いましたけれども、それは大学の受験資格であって、大学院graduate schoolの入学試験では厳しい学力テストが問われるわけです。日本の大学院の試験なんかよりは遥かに厳しいと言っていいものが課されているわけですね。そういうことを日本の一般の人々は知らないで、東京大学の授業料が、50数万円から60数万円に10万円ほど値上げする。そういうことで、大騒ぎしているのではないでしょうか。私は、これ自身が東京大学が率先してこれをやり出すということに大学下克上の時代が本格化したという思いと、大学の管理職でない一般教員、一般の教授たちが、大学の経営陣、総長を始めとする経営トップの人たちと縁が切れた世界で、大学運営が行われている。そうであるならば、例えば総長を選ぶときに、その人が経営に関してどのような理念を持っているのか、ということでもって、そして経営に関してどういう責任を取るか、経営をどのように評価するか、そういう評価機構をどのように作るか、そういう所信表明演説を持って、総長選が戦われるべきだと思うんですが、今の東京大学はどうなんでしょうね。

 私は昔は東大の総長選には関心がありましたが、最近はすっかり関心を失ってしまいました。誰が選ばれても同じような、そういう東京大学の未来しか見えない。そういうふうになってしまったからでありますけれど、それがいつ頃からであるのか、ある時を境目としてということでありますけれども、私自身は、やはり私自身が東京大学をやめようとした当時、1968年69年当時の東京大学が大きな曲がり角を、本当にキキキーっと車だったら音を出すようにして曲がったんだと、そういうふうに思っております。「それは少し古すぎる。もっと新しい段階で、新しい機構改革があったんだ。そのことを評価すべきである」というお考えも十分に理解しているつもりであります。

 今回は、時事ネタということで、大学の授業料をちょびっとばかり値上げする。こんなことを、こともあろうに東京大学が先陣を切ったということ。これに、東京大学の国立大学全体に対するリーダーシップというものが表れているんだと、そういうふうに理解している人がいるに違いないと私は思いまして、「こんな馬鹿な話が通る日本という世の中は、国立大学と私立大学の区別、これをどのようにするのか」という根本的な議論さえしないままに、このようにズルズルと大学の数だけ増やしてきた。こういう文教行政を全く不問にし、国立大学の授業料の値上げということだけを取って、貧しい人が大学に行けなくなるという議論が払底しているようでありますが、それはとんでもない話でありまして、国立大学授業料10万円を上げたならば、10万円上げることによって、7人に1人くらいは授業料無料でそういう奨学金を作ることができるということでありますから、教授たちの給料を上げるなどというのはとんでもない。教授たちの研究費を上げるということもとんでもない。教授たちの研究費に関しては、私に言わせれば、今までと同様に、競争的資金とやらにぜひ頼って、金儲けになる研究項目・研究題目、いわゆるお題目を作文する、そういう能力が教授たちに問われているんだと、私自身はとても冷ややかにこの動きを見ているということをお話し、皆さんに大学の授業料の値上げ問題というのが、単に「国立大学の授業料の値上げで、貧しい人が困る」という問題に直結するわけでは決してないということ。むしろこれは「東京大学が授業料を値下げしてでも優秀な学生を取りたいっていうことの下心である」ということを、私はそこに見て取ることができると思っておる、ということです。

 時事性のあるネタが難しいのは、そのネタをどのように評価するかということが、時代とともにやがてわかってくる、誰の目にも明らかになるのではなくて、誰の目にも明らかになる前に、これがどのような歴史的意味を持つかということを考慮しなければならないという点にあるわけですね。多くの日本の時事問題が、そのような歴史的な責任を負うことなく、ペラペラペラペラと軽い喋り方をしているに過ぎないことを私は悲しく思うのですが、日本の大学というのが明治維新政府以来創立されたと言ってもいい、官吏を作るための、政府を作るための、あるいは文明開化の政策を推し進めるための官立大学の歴史、それが終わりを告げようとしているという時代である。そういう時代認識を持つことがまずは大切であるとお話して、今回の私のお話を閉めたいと思います。

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