長岡亮介のよもやま話390「Maria Douenas の溢れる魅力について」

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 今日は私自身の無知の悲しさについて、お話したいと思います。無知というのはどれほど惨めで暗いことであるか、ということを実体験に基づいてお話しようということです。私はつい先ごろ、「素晴らしいヴァイオリニストに遭遇した。名前を知らなかったけれども、素晴らしい演奏で心から感動した。まだ無名のヴァイオリニストである」というようなことを、このよもやま話でお話してしまったと思うのですが、その後その人の名前で検索してみると、いくらでも素晴らしい演奏が出てきて、本当にその人は素晴らしい人だ。ヴァイオリニストとして天才的であるということを超えて、本当に貴重な稀有なタレントである、ということを確信するに至りました。

 その方の名前はMaría Dueñas(マリア・ドゥエニャス)というスペインの人であるということもわかりましたけれども、その方がスペイン語でインタビューを受けている番組を見て、それは演奏ではなくてスペイン語で喋っているだけですから、私には本当に片言が聞き取れるというだけで、全く内容わからないんですが、もうすごく素敵な美しい人で、王女様、お姫様みたいな方なんですね。どんな人でも、ローマの休日に出てきたオードリーヘップバーンのお姫様のような姿を見たら憧れると思いますが、まさにオードリーヘップバーンのようなお姫様、彼女が単に容姿が美しいというだけではなくて、ものすごく豊かな音楽性にあふれ、そしてそのような豊かな音楽性を持っているということは、類まれな才能の他に人に真似できない厳しい練習の日々を送ったに違いない。単に才能に溺れて、その才能のなすがままに生きてきたと言うんではなくて、その才能を開花させるために払ってきた努力も、人並みでないに違いないと思うのです。今は開花した才能を見いだした人々の努力に、深く敬意を表したいと思います。

 いろんな楽器の演奏に関しては、ピアノで言えば“ショパンコンクール”、ヴァイオリンで言えば“メニューイン国際コンクール”、そういった、いわば若手の登竜門が用意されている。これは、音楽家を養成する上でとても大切なことであると思いますけれども、そうでなければ、眠っていて発掘されない才能を奨学金付きで育てようという姿勢が、国際的な芸術の舞台にある。バレーに関してもそうですね。“ローザンヌ国際バレエコンクール”がそうです。そこで優勝する、あるいは1位、2位、3位を取る。優秀な成績を取るということは奨学金付きで留学することができる。そういうチャンスをもらえるっていうことですね。こういう若い才能を埋もれさせることなく、さらに開花させるために、勉強の機会を与える。これは芸術の世界ではごく常識になったことをであります。そういうコンペティションを精力的に開催している人々の努力、これには敬意を払いたいところです。なんと私が素晴らしいと言っていたMaría Dueñas(マリア・ドゥエニャス)は2021年の“メニューインコンクールコンペティション”で第1位を取った人だったんですね。2020年のときも、バーチャルに開催された大会において1位を取っている。そういう素晴らしい実績を備えている。それだけではなくて、その骨太の演奏の中に、彼女らしい、非常に何て表現していいかわかりませんが、したたかな楽曲の解釈が入っていて、それが素晴らしいと私は思うんですね。

 たまたま知った情報ですと、日本の競艇で大儲けした人が作った財団が、ヨーロッパで多くの人が名器として評価しているヴァイオリンの楽器を購入しまして、それを国際的な舞台で活躍する若手に貸与するというプロジェクトをしているそうで、それを誇りにしてらっしゃるようなんですが、考えてみれば、日本の円の力でもって、国際的なオークションの世界で手に入れた名器と言われる楽器、それも無名の楽器ではなくて、ストラディバリウスという誰もが知っている有名な楽器をオークションで落として、そしてそのオークションで落とした楽器を、これから有名になるであろうという若手に貸与するというプロジェクトをしているという話を聞いて、とても情けなくなりました。結局日本がやっていることはそんなことでしかないのか。日本の無名の若者を育てるということであれば、それは素晴らしいプロジェクトであると思うし、また、国際的に有名でない楽器の中で、多くの人が知らないかもしれないけれども、これは隠れた名器であるというのを発掘しているというならば、それもそれで素晴らしいことですね。

 しかし、誰もが知っている、あまりにも有名な通俗的な意味で有名な、ストアでバリュストラディバリウスを何台も買って、国際的にこれから有名になるであろうヴァイオリニストに貸し出している。それをお金の力でやっている。ちょっと私はそれを聞いて悲しくなりました。それも、こともあろうに、「ストラディバリウスコンサート」というようなストラディバリウスを揃えたコンサートを開く。この発想自身が、私は実にさもしいと思うのです。本当はそういう有名でない楽器の中で、名器と言われるものがいっぱいある。そういうことに注目するだけの耳の力、鑑賞眼、そして音楽の解釈の力、そういうのを持っている人が素晴らしいと思うと私は考えるんですが、日本では非常に権威主義的で、有名な、国際的に著名な名前のついたものであれば、みんな素晴らしいものだと思う。それは必ずしも当たっていないですね。ストラディバリウスという名前がついてない名器も国際的にはいっぱいある。そういうことも我が国ではあまり知られていない。我が国では芸術の世界のような、本来権威に最もなじまない世界にまで、評論家の権威というものが我が物顔にのし歩いていて、本当の人々の芸術的な感動を妨げている。そういう気がいたします。

 私は先ほど紹介したMaría Dueñ、発音は日本人には難しい。Maríaというふうに読みましょう。そうすれば、日本人でも間違えることがありません。彼女が演奏が素晴らしいというだけではなくて、容姿も素晴らしい。ということでもって、天は二物、三物、四物、五物を与えるんだということを改めて感じましたけれども、そういう方たちには当然のことながら、天は厳しい使命をも与えているに違いない。彼女は人より何倍も努力して、その使命に応えようとしているんだと私は想像するんですね。そういう才能にあふれた人のことを、やはり本当に尊敬するような国民になりたい。

 ハンディキャップを負っている人たちに対して優しくあるということは、最近の日本では流行であります。それは、ハンディキャップを負っているからといって、そのハンディキャップゆえに人を差別する。これは情けないことでありますね。ハンディキャップを負いながら頑張っている人を応援する。それは私達のみんなが持っている義務だと思います。しかし、ハンディキャップを負っているが故に素晴らしいということは、めったにないわけでありまして、ハンディキャップを乗り越えて頑張っているところが素晴らしい。そうは思いますけれども、ハンディキャップを負うのではなく、むしろ反対に、本当にモーツアルトのような天分に恵まれて、その天分に応えようと努力している華やかな人の輝きにも、私達は目を向ける謙虚さを常に持っていたい。

 ハンディキャップを持っている人たちに私達が優しくあるというのは、何かしら私達は、自分はハンディキャップを負ってないということでもって、上から目線になっているような気がするんですね。ハンディキャップを負っている人だって、その人たちはその面でハンディキャップを負っているわけで、他の面では、私達以上に、健常人と言われる人以上に才能に恵まれていることはいくらでもある。パラリンピックを見ているとつくづく思いますが、ハンディキャップを負っているのは、健常人と言われているむしろ私達の方であると。ですから、私達はハンディキャップを負っているということに対して同情することをないがしろにしろというわけではありませんけれど、そのこと以上に、ハンディキャップとは正反対に、Gifted、才能に溢れている、神様からのプレゼントにあふれている人、Giftedな人々の才能に称賛を送ることに対して、私達は躊躇してはならないと思うのです。

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