長岡亮介のよもやま話389「リスクを回避することの無責任に気づかない現代人の最近の風潮」

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 今日は少し話題を変えて、他人のことを心から心配しているふりをすることの無責任について考えてみたいと思います。

 私はある辛い検査を受けるために、いつも睡眠薬に相当する鎮静剤を点滴で投与していただき、その検査の間半分寝ていて、その苦痛に気づかないというふうにしていただいているわけですが、昨日は私がスケジュール的に厳しいということもあって、「先生にご迷惑にならないように麻酔はかけなくても良い。そうしないと、麻酔から覚めるまでしばらく寝ていることを強要されるんですが、その時間をとっている余裕がないので、いつもの麻酔は使わなくても良い」と、申しました。私が麻酔に対して非常に強くて、普通の人が完全に眠りこけてしまう量を打っても完全に意識があるということを、何回も経験しておられる先生は、「この方はこの程度の麻酔では何ともないから、麻酔をしてあげてください」とおっしゃってくださったんですが、看護師がなんと「しかし、この人は1人で歩いて帰ると言っているので、それでは新幹線のホームで倒れたりしたら、私達の責任になってしまう。最悪、先生の責任になってしまう。こんなことは危険すぎるからやめた方がいい。麻酔なしでやりましょう」って言いました。私は麻酔なしでいいと言ったんですが、実際にその検査が始まると、私はあんまりにも辛い検査に耐えかねて、本当にゴホゴホむせながら辛い検査を受けていたら、それを見て見ぬふりをできない先生は、「少しいつものように麻酔を投与してください」っておっしゃったのですが、看護師が「しかしこの人は1人で帰るって言っていますよ」とおっしゃったときに、その先生が「私がついていきますから」とおっしゃってくださり、無事に麻酔を投与していただいて、それで眠りこけはしませんでしたけれども、多少苦痛の少ない検査、あるいは術式にしていただくことができました。

 しかし、そのときに看護師さんが言っていたセリフが実に印象的でありまして、それは「こういう時代ですから、万一のことがあると責任の問題になります。その責任が最終的に先生の責任になったら大変なことなので」ということで、ドクターを守らなければいけない。そのドクターを守るために、患者の苦痛はどうでもいい、あるいは患者がどんなに時間がなくても、寝ている時間がなくても、寝ていさせなければいけない。要するに手術のマニュアルに従った助言を繰り返す。しかも、「最近勉強会で、ある具体的な名前を出すのは避けますけれども、非常に弱い睡眠薬が24時間効くと聞いて、私はもうそこから怖くなりました」と言っているんですが、その人はおそらく薬が効くという意味が理解できていない。薬が体全体から代謝して無くなるまでに24時間かかるかもしれませんが、薬がある一定の濃度を保っているときにしか薬は実は効いていないということがわかってない。薬理に関する微分方程式という非常に簡単な数学があるんですけど、その微分方程式的な世界像が、全く理解できていない。薬を代謝しきるまでの時間と薬が効いている時間、その差の概念的な区別がついていない。数学ができないために、これほど大きな判断ミスをするのかということ以上に、私がショックを受けたのは、「ともかくこういう時代ですから、万一のことがあると責任問題になります」というセリフでした。どんな時代になっても責任問題はあるわけです。

 本来責任を追及さるべきでない人にまで、責任を追及する風潮が盛んになっていることに対して、私は常日頃非常に不愉快なものを感じておりますけれど、どんなものに対しても、完全に責任から逃れることはできるわけではない。全ての治療に必ずリスクがある。例えば、全ての手術に対してはリスクがある。全ての注射に関してもリスクがあるわけですね。最近は、注射をするときにアルコール綿で消毒しますが、アルコールのアレルギーがありませんかと毎回聞かれますね。私は残念なことにアルコールアレルギーはないので、ありませんと答えるんですが、何回も何回も同じことを繰り返し質問される。それは、何百人に1人あるいは何千人1人どういう割合かわかりませんけれどもアルコールに対してひどいアレルギー反応を起こす方がいらっしゃるのでしょう。そういう方に対しては、別の消毒を使うわけですが、そのアルコール綿でアレルギーを引き起こす確率が一体どれほどのものか。皆さん理解して、その質問を繰り返しているんでしょうか。私はそういう質問を繰り返されるたんびに、万一の事態に対する責任をきちっと考えていらっしゃるという責任感の重さよりは、むしろこういう質問を一応しとけば、後は何が起こっても自分たちの責任ではないという、無責任を囲うためのいわば言い訳にしか聞こえないわけですね。

 今の世の中が、もしその看護師さんが言うように、「こういう時代ですから」と、もしこのように全ての人が無責任を囲うために、「自分自身がいわゆるマニュアルあるいはハンドブックあるいはプロトコルそれに従ったやり方をしていれば、自分は責任を問われない。しかしそのために、患者がどういう迷惑をこうむろうと、それは関係ない。これはこの時代のせいである」と、もし考えているんだとすれば、私達の時代はとんでもない時代だということになるのではないでしょうか。

 私達は、100%の安全、0%の危険、そういう中で毎日を暮らすわけにはいかないわけです。全ての薬には必ずリスクがある。私は“クスリ”という言葉と“リスク”という言葉がたまたま日本語のひらがなで書くと同じなので、この言葉を私は愛用しているんですが、薬とリスクは裏表の関係にある。全面的に良い薬、つまりリスクが全くない、良い効果しかない薬、そういうものは存在し得ない。もし存在したとしても、それは結局毒にも薬にもならないという薬だと思うんですね。全てのものにはリスクがある。特に新しいものについては、ありとあらゆるリスクがある。未知のリスクに対して、私達は何も知らないわけですね。それは未知のリスクだからです。既知のリスクに対しては私達はそれをきちっと踏まえれば、そのリスクを最小化するように自分の行動方針を決めることができるわけです。そのリスクをゼロにするということが、リスクを回避するという意味では全くない。リスクが存在するということをきちっと意識すること、その確率がどれくらいであるかということを理解すること、そのことが大事なのであって、リスクの有無について人々が安直に語る。全く確率論的な意味を理解せずにリスクについてだけ大声で叫び、今はこういう時代だからと言う。それを時代精神のせいにするというのはとんでもないことだ、と私は思いました。

 そういうわけで今日は昨日あったばかりのことでありますので、ちょっと興奮気味にお話しましたが、私は、「今こういう時代だから」という言い方に常につきまとう無責任さというものに、人々がもう少し敏感であってほしい。そう、心から願っています。

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