長岡亮介のよもやま話386「数学記号の一つの由来=決まりきった表現をさぼりたい心」

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 今回はちょっと歴史的な話題を取り上げてみましょう。歴史といっても、たいそうなことを言うわけではありません。いわゆる省略記号というものについてです。

 数学では、様々な記号を使います。その記号をあまりにも厳格に使うので、それが嫌だという人がいるのですが、そもそも文字とか言葉とかの記録にしても、その記号が何を表しているかという了解がないと意味がないわけですね。言葉を発明した。文字を発明した。これは人類史上の重要な革命であると思いますが、その革命というのは1人の人によってなされたというわけではなく、多くの人がその約束を自分たちの共通の了解として継承していくということで、初めて成立する約束事であるわけです。

 したがって、記号というのは決して数学だけの話ではなくて、私達の文化全体に渡るものであるということ。それは、言葉とか文字とかという基本的な、最も基本的な文化の記号を考えてみても明らかなんですが、数学の場合で言うと、やはり数学特有の記号がありますね。数学特有の記号として今はほとんど失われてしまったものとして、q.e.d.っていうのがあります。よくqedと略されたりもしますが、元々はラテンアルファベットの小文字で、q.e.d.と表されていました。よく「証明終わり」の記号であると教えられることが多かったと思いますが、全くそうではなくて、「これが証明されるべきことであった。以上が証明されるべきことであった」ということの省略表現なんですね。

 例えば三平方の定理をいうときに、「直角に置いて、直角を挟む2辺の上の正方形の和が、斜辺の上の正方形に等しい。斜辺の上の正方形が直角の頂点から斜辺に下ろした垂線を延長して、その延長線によって正方形を二つに分割すると、それぞれの分割された長方形が、直角を挟む2辺の上の正方形に等式変形で一致させることができる」ということでありますが、それを証明したときに、まさに証明されるべきことが証明されたということで、q.e.d. それはQuod Erat Demonstrandum(クオド・エラト・デモンストランディム)というラテン語の省略形なんですね。なぜ「これが証明されるべきことであった」と「証明終わり」とが違うかというと、「証明されるべきことであった」ということを証明するのは、つまり直接証明法の帰結ではそうあるべきであるわけですが、間接証明法、中学なんかでは一部背理法という変な訳語が日本語で定着していますが、帰謬法と言われる証明においては、矛盾が出てくるということでもって証明をするわけですから、「これが証明されるべきことであった」っていうことは使えないわけですね。その場合には、q.e.f.「これが反証されるべきことであった」という言葉になるわけです。だから「証明終わり」と言っても、直接証明の終わりはq.e.d.であり、間接証明法の終わりq.e.f.であったわけです。Quod Erat DemonstrandumとかQuod erat faciendumとか、そういう長いラテン語を書くのを省略するために作られた記号として、q.e.d.あるいはq.e.f.という記号があったわけであります。

 なぜそんな記号を作ったんでしょう。昔は本は手書きで写していたわけですね。手で一文字一文字写す。そういう写本作家の労力によって、本が作られていたわけです。ですから、少しでも省略できる記号は簡単にする方が写本作家にとっても楽でありますね。まさに写本ときの作家の労力を減らすために、様々な省略記号が作られたわけでありまして、「皆様などなど」と言うときの“エトセトラ”、etc.という記号、“,etc.”というのも“et cetera”というラテン語の省略形として成立したものでありますし、“すなわち”という意味で使われている“i.e.”という記号(ラテン語の“id est”の略語)、あるいは“e.g.”、“例えば”という意味で使う”exempli gratia”という言葉の省略形で、これなども同様の由来で、省略記号として作られたわけです。

 何回も出てくる決まりきった表現はできるだけ簡単に表現する方が、写本を作るときに便利ですよね。労力を倹約する。そのために記号を使うということです。記号には多くの意味がありますが、一つの意味は、労力を倹約するということにある。労力を倹約するっていうのはずいぶんさぼり屋の発想であると思いますが、「さぼる」ということは、人間のこずるい知恵の代表的なものの一つでありまして、このような小賢しい工夫が人類文化の中でそれなりに珍重されてきたということも、私達は考えなければいけない。つまり、誰でもわかるような省略記号はどんどん省略記号を使った方が便利じゃないか。そういう「こずるい精神あるいは人間の心の内に潜む経済学的な傾きが、記号を作ってきたもう一つの原動力である」ということを理解することは、数学における記号を深く理解する上でも、とても大切なことではないかと思います。

 このような記号を使うことによって、情報伝達ができるということを学ぶことは、小学生くらいの段階ではとても楽しいことではないかと私は考えているのですが、いかがでしょうか。今、あまりにも学級だけのルール、つまりローカルルール、その地域性のあるルールを決めますと、それはグローバルには通用しないっていうことがありますけど、ローカルルールであるからこそ楽しいということもあり、小学生の教育実践としては、楽しいものではないかなと私は思います。

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