長岡亮介のよもやま話383「一億総大衆化という恐ろしい時代」

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 私は今時になって「大衆」という言葉の持つ意味を、考えるようになりました。若い頃は、「大衆」という言葉を、国民あるいは民衆という言葉と同じ意味に考えていて、それを肯定的に「未来を変革する勢力だ」と期待していた、というのは正直なところです。

 最近、大衆という言葉の持ついやらしい響き、つまり一般大衆、愚かな一般大衆、そういうニュアンスを持った言葉、それが重要な考える意味を持った言葉であるということを感じざるを得ない場面に遭遇したからです。以前に、電車の中に殺到してきて自分の席を確保する。そういう人々の動きを見て哀れを感じましたけれども、その哀れを感じるレベルであればどうってことないのですが、その人たちがある一定の力を持って、一般の人々を脅迫する力を持ち始めているということを、行政の馬鹿馬鹿しい言葉でありますけど、「カスタマーハラスメント」、カスハラという言葉でもって知りました。

 自分の家の子供の誕生日のバースデーケーキに名前を入れてもらう。名前を入れてもらうこと自身が大変なサービスだと思いますが、その名前を入れてもらうときに名前が違っていたということで、1億円の賠償請求をするというような馬鹿げた話があるという話。そもそも名前を間違えたときに、「名前が間違っていますよ。正しく直してください」というくらいは言っていいことだと思うんですね。名前を間違ったんだから、500円のものを250円に割引してくださいよ、というようなこともあっていいことではないかと思いますが、それを「我が子にとって生涯の思い出となる誕生日なんだ。その誕生日を台無しにしたことはどうしてくれるんだ」と、言ってみれば殴り込みのような抗議ですね。それで挙句の果ては、それを金銭的な要求として吊り上げて、「それは1億円に値する」というようなことを言い出す人がいる。

 私自身はそういう場面に具体的に遭遇したことはありませんけれども、病院においてそれに似たケースに出くわしたことはあります。病院でドクターを捕まえて、そのドクターに対して、まるで自分を治すことがドクターの義務であると言うかのごときの言動に触れたときには、本当に仕事びっくりしました。病気になったのは自分のせいであり、自分のせいと言っても自分自身が意識しないことが原因であることが多いと思いますが、別にドクターのせいで病気になったわけではない。そのときに待ち時間が長いとか、あるいは自分がより厳しい病状に侵されつつあるということに対して、「医者は何をやってるんだ」というように迫っている患者の風景を見て、本当に腹立たしい思いがしました。「こんな人治す価値がない。医者は断ればいいのに」と、私はそう思いました。もちろん社会状況からいって、あるいは社会保険制度という社会的な保障制度によって、病院は手厚く保護されているわけでありますから、患者様という言い方をすることによって、お客さん扱いしていることが、こういった問題が起こる原因である。原因でないとしても遠因であるとは思います。

 しかし、「病気を治すのが医者の義務である。」こういうふうに開き直る患者が出てくるというのは一体どうしたことなんでしょう。よほど病院に対する不信感がある。あるいは病院の医師に対する待遇に関して羨望の眼差しがある。要するに患者が情けないわけです。本当は自分がつらい病気を背負っていれば、その病気の病状を少しでも軽くしてくれるように頑張る、全く見ず知らずの人間に対してそのような愛を注いでくれるということに対して、深く深く感謝しなければならないはずのシチュエーションでありますけれども、そのシチュエーションが成立しないような社会制度ができているっていうことに対して、私は腹立たしい思いをすると同時に、やはり患者が愚かになっている。ということに対して、本当に情けない気持ちを持ちました。

 本当に、大衆、愚かな大衆という言い方しか言いようがない。そのくらい愚かになっているということです。もっともっと大衆は勤勉で社会の発展の原動力になる人々であると、若い時代に思い込んできただけに、大衆が徹底して愚かであるということに対して、腹立たしい思いがします。その大衆を相手にしてお金持ちになろうと思っている人たちは、大衆の中に、例えば「肝硬変になった人はいませんか。賠償金が取れますよ。」こういうような恥知らずな宣伝をしている人がたくさんいる。国が行政上の誤りをやったということに対して賠償金を支払うという制度ができたわけでありますけれども、肝硬変をしたということ自身が、取り返しのつかない人生の損であったとしても、それを経済的な補償で埋め合わせることができると考え、その埋め合わせる金額の例えば30万円もらったうち、15万円なり20万円なりを、それを仲介してくれた人に払うということに対して、それが本当に社会正義なのかどうか。どんな人でもちょっと考えればわかることだと思うのに、そのことを考えることができなくなっている人々が増えているということに対して、大変残念に思います。

 今の相続税は、本当に馬鹿馬鹿しいほど高いと思いますが、本来は相続税というのは、相続するということだけで、親がお金持ちであったというだけで、子供もお金持ちになるということの方が本当はおかしいわけですから、相続税は100%というのは大げさな話ですが、そうであったとしてもおかしくない。それによって、一家の生活が路頭に迷うということがあってはならないと思いますが、そのためのバックアップの装置、これは多くの社会民主主義国の中に実践されていたことで、日本では未だに古い相続税のシステムが残ってきた。それが近代的な相続税のシステムに、あまりにも国家財政が破綻しているために、取れるとこが取ろうというはしたない税制改革によって、相続税が大きく様変わりしているわけです。その相続税対策というのを銘打って、それで商売している人がいるということも情けない話です。前にもお話したことですが、アメリカでは、財を成した人がその財を死んだ先まで持ち帰るっていうことは、不名誉なことであるということで、寄付するということが当たり前になっている。カーネギーホールにしても、あるいは現代で言えばスティーブ・ジョブスにしても、あるいはマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツにしても、大きな財団を作って自分の私財を寄付することによって、社会的な正義が前進するように努力する。当たり前のことであるわけです。その当たり前のことを少しでもそれをしなくて済むようにするというのは、あまりにもいじましい日本的な風景ではないかと思います。そこまで庶民をいじましくするほど、国家が国民をいじめていることの結果であるという見方に関しては、十分傾聴に値するものがありますけれども、それでは今まで何をしてきたのかということ、それを振り返らなければいけないと私は思うんですね。

 しかし、過去をいくら遡っていっても、結局親の仇というような形で先祖代々に責任を持っていくということは、事態を解決にはならないわけでありますので、未来に向けて少しでも良い方向に努力していかなければならないと思うのです。そのような努力を台無しにするような勢力が台頭してきている。それが大衆あるいは民衆という言葉を借りて、そして大衆や民衆の心をつかむことによって、自分にわずかのお金を呼び込む。そういう情けないものが世の中にあまりにも溢れていることに、非常に残念に思います。広告の宣伝マンになって、チャリンとお金が入る。そのことが人生の夢であると思って、いろいろな動画を作っているという人がいるのですが、私はそのようなお金がもし入るならば、それを全額寄付したいと思っています。そもそも、広告なんかでお金を稼ぐということの方がおかしい。私自身は、本当に価値のあるものを創造することに対して価値があるのだとずっと信じていましたし、これからも信じていきたい。自分の心にもないことを、自分の本心であるかのごとく喋って、それでもってお金をもらうというような仕事、これに憧れを持つような青年、少年少女が生まれるこの世の中に対して、私は厳しく警鐘を鳴らし、皆さんとともにそういう新しい時代の流れ、広告資本主義というような時代に対して、抵抗をしていきたいと願っております。

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