長岡亮介のよもやま話381「なぜ原稿を書き書籍を残すのか?私の希望の祈り」

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 よく私が尋ねられてきたご質問について丁寧に少しですが、答えたいと思います。私は今まで多くの書籍を世に出してきたのですが、なんで本を書くなどという面倒くさいことをするのか、ということについて、「そんなに儲かりますか」という質問から「よくそんなに頑張れますね」という、質問というよりは好奇心でしょうか。そしてまた、「どうしたらそのように本をたくさん書けるようになりますか」という、純粋に自分自身がそういう機会を得たいと思っている方から、いろいろな立場からの質問でありますけれども、そういうものを受けてきました。そのたびに私は、「いや、本を書くといっても、普通の文芸書で大流行するものであればともかくとして、普通の人にとっては、例えば文芸評論家あるいは芸術評論と言われる読者層の多い分野であっても、決してそんなにたくさん本が出るわけではない。」哲学とか倫理とか、そういう世界であれば、多くの人々に共通の問題が論じられているわけですから、さぞかし売れるのではないかと期待する人も多いかもしれませんが、実は意外とそうではないわけです。むしろ、本当に出版の経費をギリギリ出せるという価格、つまり1冊の本はかなり高価なものになってしまい、普通の人はちょっと読む気がしない。

 最近新聞離れということが国際的に言われていることですが、News Papersのようなものでさえ売れなくなってきて、インターネットの簡単な無料ニュースに人々が飛びつく。あるいはそういうもので人々が満足する時代。そういう時代であると、書籍のようなものというのは、ほとんど売れなくなる。昔とえらい違いだと思うんですね。今でも芸術の分野であれば、有名な芸術家だったらコンサートを開くたびに莫大なお金が入っていいじゃないかと思うでしょうけども、大衆芸能の世界であればともかく、本当に芸術的な分野、私はNHKがあまり好きでないんですけども、それでもNHKが昔からやっている朝の「クラシッククラブ」っていうほとんどの人がテレビを見ない、そういう時間に放映している番組は好きで、それよく見ます。若い、本当にこれから新進気鋭の実力のある本格的な演奏家が非常に心のこもった演奏するのを聞くと、清々しい朝がますます清々しく感じられ、またどんよりとした朝であっても、そのどんよりとした朝の中にかすかな希望を見ていかなければいけない、と自分自身を励ましたりするのに、とても役に立つっていうと変ですが、そんな気分になる。こんな世界でこんなに売れなくても頑張っている人がいるんだということが、やはり本を書くという孤独な作業をずっとしてきた私にとっては、大きな激励になるんですね。

 今申し上げたように、芸術活動であっても文芸活動であっても、それが一攫千金を狙うというような野心に燃えている作家のものであったとしても、その野心が成就するとは限らない。まして、一般の文芸の世界で、一発当ててやろうと思って書いている人はものすごく少数で、やはり自分でなければ書けない世界があると確信して、それを世に問いたいと思っているんだと思うんです。音楽の演奏家にしても、難しい音楽、作曲家が残した楽譜を通して、作曲家が語ろうとしていたその時代の雰囲気、作曲家が感じていたその時代に対する不安感、そういうものを鋭敏に感じ取って、自分自身のやり方でそれを再現しようとする、非常に孤独でつらい作業だと思います。それをやるということが、演奏ということではないかと思います。

 音楽に限りません。絵画でも彫刻でも書道でも、はたから見るとなんでもないようなことをしているように思う。よく現代芸術の鑑賞紹介なんかに行くと、その来ている参加者が、「一体これ何かしら、うちの子供でもこういうのを書くわね」とかっていうような話をしているのを聞くことがありますが、普通はとんでもない話であるわけですね。非常に技芸に優れた人が、その優れた技を全て使って、精魂振り絞って作品を仕上げようとしている。それが経済的に成り立つかどうかということに関して言えば、一般には成り立たないという方が普通だと思うんですね。例外的な少数の人が馬鹿売れして、それで財を成している。日本なんかは海外の有名な作家の作品であれば、それが真贋問わず、あるいは贋作ではないに違いないと思って買ってくる。ものすごいお金で買ってくる。そういうものの中に、私は全く面白いと思わないもの、はっきり言ってくだらないものというのも少なくないと思うんですね。本当に立派な作家が書いたもの、あるいは創ったもの、あるいは焼いたものであれば、優れた芸術である。そういうふうに思いたいところですが、そんなわけでは必ずしもない。明らかにある種の経済的な欲望、つまりこれを売ってやろうと、少し金を儲けようというような野心のもとに作られた作品も、やはり少なくなく存在するものだと思います。

 しかしながら、そういう経済的な野心とは全く無関係に、本当にすごい作品がいっぱいあるのですね。そして、とっても面白いことに、その芸術家が生きていた時代には全く評価されなかった。そういう立派な作品がいっぱいあるわけです。そのことは、作品というものを世に問うという無駄な努力、その人の人生のをスパンで考えれば、単なる無駄な努力でありますけれども、それが決して無駄ではない。自分の死んだ後に、その作品の本当の意味、その作品に込めた作者の気持ちを理解してくれる人が、登場する。その時間を超えて、芸術家が自分の伝えたいメッセージを伝えようと努力しているんだと思うんです。

 このように、作品を作るということは、その時代に受け入れられるかどうかということは二の次で、むしろこの作品の真の意味を理解してくれる人がきっと存在するに違いないという、はたから見れば儚い希望ですね。冷静に考えていれば馬鹿げた野心かもしれません。しかし、そういう希望なくしては生きていけない人たちが必死に頑張るっていうことなんだと思います。それは、芸術の世界とか文芸の世界だけではなくて、哲学の世界における論文においても、そうなんだと思うんですね。その文章を、あるいはその書籍が世の中でちやほやされるということを期待する功名心が全くないかどうかっていうことは問題でない。一般に、そのような功名心ではやっていけないくらい厳しい世界であると私は思います。そういう厳しい中にあって、作品を残してきた。偉大な人々の精神、その伝統というんでしょうか、中に私達現代人もみんな生きているということです。

 私自身もこういう現代の中にあって、私でないと描けない世界というのがあるのではないか。そういうふうに考えると、何とかしてその世界を描ききっていきたい。私自身は、決して文筆家として成功を収めているわけでも何でもない。数学教育に関していわゆる学習参考書のような全く意味のないような、普通の人から見れば馬鹿にされるような作品を残してきましたけれども、私のささやかな誇りは、その本を通じて、「人々が本当に出会ってよかった。自分の思っていたのと違う素晴らしい数理世界が開けた」という感想を送ってくれることが、少なくなくあるということです。そして、そのことがあったときに、私は苦労してよかったなとつくづく思うわけです。もちろん、若い人に対する教育というのは、私達大人の最も大切な仕事でありますが、同時に大人たちに対してもメッセージを残さなければいけないということを、この15年くらい20年ぐらいになるでしょうか、感じ始め、そのことに活動の重点を移してきているわけであります。

 今の大人と言われる人たちが、本当に豊かな幸せな人生を生きているとは必ずしも言えないのではないか。その人生をより豊かにするために、新しい視点に気づくことが大切ではないかと、考えるようになったということなんですね。そういう大人たちに向けて、その人たちが今まで触れたことのない世界に触れたと感じるような体験の場を提供していきたい。それが私の仕事ではないかと思うことが増えてまいりました。私が本を書くことについてのもう一つの動機は、そんなところにあります。

 最後に、最終的に原稿を書くという仕事にもはや適してない、もう視力も衰え、記憶力も衰え、思考力も衰えているにも関わらず、本あるいは原稿というものを残したいと思うのは、今、生きている人の中で、私の書いたものに接して、とても感動してくださる人も少なくなく存在してくださっているわけですが、決して多数派ではない。むしろ多数派の人から見ると、私はどちらかというと、愛されているというよりは憎まれている。あるいは妬まれていると私は感じます。そのような憎しみは、ちょうど戦前の日本にあって、日本の全体社会が向かっていく方向に否定的な人に対して、「非国民」というひどい言葉を投げつけて弾圧してきた人々の眼差しと同じような似たものを、感じるんですね。私は所詮今の世の中にあっては、非国民なんであろうと、そういう孤独を感じています。しかし、その孤独が絶望的な、絶対的な孤独ではなくて、私と連帯してくれる人が、少数ながら存在してくれる。でも、その少数ながら連帯してくれる人々の力をもっとより強力なものとするために、私のメッセージが少しでも役に立つならば、ものすごくありがたい。つまり、私自身の抱えている限界を超えて、このメッセージを伝えてくれる人々を励ましたいという希望があります。これは希望というよりは、自分勝手な祈りに近いものでありますけれども、その祈りが必ず伝わる。そう信じている私が、私の中にしっかりと存在するということを、この場で告白する。少し恥ずかしいですが、告白しておきましょう。

 私はまさに老骨に鞭打ちながら、原稿に向かうというかキーボードに向かう。目が見えないままディスプレイに向かうというのは大変なことでありますけれども、それでもなおかつそれをやろうとしている。それを支援してくれる人々が、私の身近に存在するので、その人々の期待に何とか応えたい。そういうのが直接の激励になっていることも事実です。今日はちょっとプライベートなお話をさせていただきました。

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