長岡亮介のよもやま話380「役に立たないことの意味を知らない人がいるという恐ろしい時代!」

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 最近ちょっとつまらないことをインターネットを通じて調べていると、世の中にくだらない記事が本当にあふれるほど満ち満ちているということに気づき、心が痛むわけでありますが、その中に、本当に素朴な意見を、全く素朴に物事を考えていない自分をさらけ出すかのように得意げに語っている人がいて、インターネットっていうのは怖い世界だなと改めて思います。

 その中で皆さんにもぜひ聞いていただきたいものは、小学校の算数で教えている物理単位の中で、例えば面積の単位として$a$ (アール)とか $ha$ (ヘクタール)という単位、あるいは体積の単位として教えられる $ml$ 、$dl$ という考え方が時代錯誤的ではないか、世の中でそれが使われることはない、という類の非常に素朴な議論です。なぜ素朴かというと、小学校の教育において、世の中に出たときに必要な物理単位を理解しましょうということが、教育目的になっているんだとすれば、確かにそうかもしれません。世の中に出たときに、絶対に必要になるものとして、「読み・書き・そろばん」と言われた時代があります。その「読み・書き・そろばん」という程度の知識で世の中を渡っていくことができていた時代にはまさにその通りであったでしょう。「読み・書き・そろばん」を教えるということが学校教育の使命であると。世の中に出ても決して使わない漢文とか、あるいは古文とか、そんな知識はいらない。世の中に出ても決して使わない数学の知識、鶴亀算とか、流水算とか、旅人算とかそんなものは一切いらない。とこういう議論には、大いに耳を傾けなければならないと私も思いますが、世の中で使われてないことであるから教える必要がない、あるいは世の中で使われているものこそ教えるべきであるという考え方には、私は、それがとんでもない誤解であると指摘しなければならないと思うんですね。

 確かに、小学生にとって $dl$ というのは、言葉からして難しい。この私のくだらないよもやま話を聞いていらっしゃる方の中にも、$deci$ という言葉、この接頭辞、$l$ の前に付いてる接頭辞の意味を知らない方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。$centimeter$ という言葉の $centi$ っていう言葉をご存知ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。不思議なことに、$m$ に関しては普通に教えるのは、$cm$、$mm$ で、$dm$ っていうのは教えることはほとんどないですね。$dm$っていうのは本来は存在するわけで、それは $\frac{1}{10} m $ つまり$10cm$ のことです。$mm$ は $\frac{1}{1000}m$ 、cmは$\frac{1}{100}m$ なんですね。$deci$ あるいは $centi、milli$ っていうのがそれぞれ$\frac{1}{10} ,\frac{1}{100}, \frac{1}{1000}$ と言ってるわけですから、例えば、$123mg$ とか表現してる人は、これは簡単なことをわざわざ難しく言ってるっていう感じですね。$123mg$ というのは正確に言えば$\frac{123}{1000}g$ と言ってるわけです。そういう表現をするんだったら $0.123g$ と言う方がよほどわかりやすいんではないでしょうか?

 国際単位系という科学的な数の表記法のシステムがありまして、数を表現するのにもせいぜい3桁の整数で、大体概算値が表現できる。あるいは0.xxというふうに、下1桁とか2桁で数を表現することができる。しばしば使われるのは、整数と小数部分を混ぜたアボガドロナンバー$6.022\times10^{23}$ という言い方ですね。これのメリットは非常に大きいわけで、巨大な数から微小な数まで統一的に表現することができ、それらの間の大小関係を一瞬にして見分けることができる。このような累乗の指数というのを使った表現の威力は近代科学以降は明らかなわけでありまして、そのことの入門編を理解させるのに小学校の算数がもし役に立っているんだとすれば、私はとても大切なことだと思うんですね。

 例えば、$100a$ を $1ha$ というのは、ヘクトアール、ヘクトは $100$ のことなんですね。100倍だから、$100m$ のことは、$1hm$ (ヘクトメートル)、そういうふうに言えばいいわけです。$10m$ のことは同様に $1dam$ (デカメートル)と言います。$1,000m$ のことは $km$ っていう、これは誰でもご存知ですね。そのように、1に対して10倍、100倍、1000倍に接頭辞、デカ、ヘクト、キロがあるわけです。同様に$\frac{1}{10}$,$\frac{1}{100}$,$\frac{1}{1000}$ に対して、$deci,centi,milli$ という接頭辞があるわけです。

 日本の小学校で、なんで $1a$ とか $ha$ とか、そういう中途半端なものを教えるか、皆さんの中には、$1 cm^2$ を教える方がいいと思う人もいらっしゃると思いますが、$1 cm^2$ は何平方メートルがぱっと言える人は意外に少ない分ではないでしょうか。$1cm$ は $\frac{1}{100}m$ なんですね。$\frac{1}{100}m$ を1辺に持つ正方形の面積を平方メートル単位で測るとどうなるか。それは当然のことながら、$100^2$  倍ですから、$\frac{1}{10000}m^2$となるわけです。すごくややこしいですね。ですから小学校ではそんな問題は受験の問題を除いてはないと思います.

 メートル法というのが科学的に見て本当に合理的であるかっていうと、メートルを考えることそのものには科学的な根拠はないわけです。しかしながら、いろいろな長さの尺度、私の子供の頃は1寸とか1尺とか、そういうものが長さの単位でありました。面積の単位としては、坪とか、畳の単位としては畳という言葉がありましたね。しかし、例えば長さの単位である尺にしても、地方によってその基本となる長さが違うとかっていう話がいろいろありまして、それを統一しなければいけない。それはヨーロッパ諸国においてもそうだったわけです。例えば長さの単位として、foot、複数形にするとfeetとなりますが、まさに人間の身体手足を基本にした長さの単位であったわけですね。古代世界においては、人間の体つきを基本として長さとか重さとかの単位を決めるっていうことは、合理的なことだったと思います。家を作るときには人間の寸法に合わせて作る。これが合理的であるわけですね。

 しかし、そういうふうにすると、非常に長身の人が住んでいる、例えば北欧地方あるいは北ドイツ地方のように背の高い人がたくさんいる世界と、日本のように背が低い人間がすごく多い世界とでは、統一的に議論ができないわけですね。自然科学はできるだけ多くの抽象性、大きな一般性、広い普遍性を目指す。これが基本的な精神でありますし、合理主義というのはどんな人にとっても合理的である。理性に基づいて判断すれば、誰もそれが正しいと納得せざるを得ないという人間が共通に持っているところの良識、デカルトというふうに言えば“bon sens”、それを基本にして、数量の単位も決めるべきであるという考え方が、フランス革命の時代の合理主義精神、当時は啓蒙主義っていう言葉が流行ったくらいでありまして、人々を無知の暗闇の中から解放し、知の明るさの世界の中に導いていこうという、非常に人道主義的な精神、それが世界を覆っていた時代。その時代に長さの単位を「人間の大きさを尺度にして決める」という馬鹿馬鹿しい過去の習慣から決別しようという運動が起こったのは、極めて当然のことでありまして、その運動が多くの思想家にも支持され、政治家にも支持され、そして自然科学者によってそれが遂行されたわけです。そして定められたのがメートル法でありました。

 メートルというのはよく知られているように、地球の周の長さ、北極から赤道までの距離、これが $10,000km$ となるように、言い換えれば地球の一周が $40,000km$ となるようにして、$1m$ を決めるというものでありました。しかし、何といっても200年以上前の話でありますので、当然のことながら計測誤差は極めて大きくて、かつてはメートル原器などというものがうやうやしく博物館に展示されたり、あるいはそういう基準監督局のような行政ところにきちっと鎮座マシマシていたものでありますが、もうそういうもので決めるということが科学的な合理性を持っていない。そもそもメートル原器と言っても、メートル原器自身が温度によって変化してしまう。そういう科学的な事実を突き詰められると、科学者もこれはまずいと思うわけでありますね。キログラム原器とかメートル原器が珍重されていたのは、まだ科学が誕生して間もない、非常に初々しい時代であったわけです。

 その初々しい時代に、メートル法という科学的な単位が制定されました。ですから $1m$ は、地球の周の長さを $4,000万分の1$ で割ったものと決めたんですが、そもそも地球の周囲が一定なはずもないということを考えれば、そんな定め方も本当は合理的でなかったわけですね。現代では、光速を元にして、そして時間の単位もある原子の固有の振動数をもとにして決めるという科学的なものに切り替わっていますから、メートル原器とかキログラム原器というのはナンセンスなんですが、私達は、MKS単位系ってよく言いますね。長さにメートル(m),質量にキログラム(kg),時間に秒(s) mと、それを基本的な物理単位として決めた。全ての単位をそれに還元する。そういうふうにして、これはフランス革命の時代の話でありますが、出発したわけです。今ではもっともっと垢抜けた形に単位が整備されておりますけれども、一応、小学校の教育でなされているのはフランス革命の時代に、人々が科学的な計量制度というものに目覚めたときの歴史的瞬間、それを少しでも子供たちに体験させようという趣旨なんだと思います。

 日本の学校教育がメートル法を取り入れたのはかなり古く、アメリカやイギリスのように未だにヤード・ポンド法にこだわっている国も少なくありませんが、しかし科学の世界で言えば、メートル法と言われているものが世界標準になってきているわけです。そのメートル法を教育に取り入れるといったときに、どういう形で取り入れるか難しいんですね。メートルというのは、子供の尺度からすると、両手を目一杯に広げたところで、やっと1メートルくらい。1メートルもないかもしれませんね、私はよく知りませんが。そういうふうに考えると、1メートルという長さを自分の机の上で再現するっていうことが、そもそも小学校の子供には難しい。小学校の子供にわかりやすいのは、10センチメートルとか、1センチメートルとかいわゆるものさしに出ている長さであるわけですね。センチメートルなんておよそ合理的ではないと思いますが、$\frac{1}{100} m $ を分数も知らない子供たちに教えるなんてとんでもない話であると思いますが、子供たちにとってはセンチメートルっていう言い方が難しいだけで、$cm$ というふうに書きますからね。でも $cm$ の語源を調べることに興味を持つ子供たちってのはむしろ少ないのではないでしょうか。

 私自身は、$cm$と書くというのが不思議でしょうがなかった。それはローマ字を習ってからは、$sm$ と書くべきではないかと。センチですからね。sentiと思っていたわけです。ところが、実はcentiで、センチといってもフランス語に由来してますから、英語でもそうですが、それが100分の1を表す国際単位系の重要なもので、$\frac{1}{100} m $ であった。10センチって言い方をするときには、どういう訳か$\frac{1}{10} m $という $dm$ (デシメートル)って言い方を小学校で教えませんね。つまり、小学校の教育といったからといって、役に立たないものを全部教えてるというわけではないんです。むしろ、国際単位系の中で子供でも想像することのできるようなもの、それをきちっと教えようとしている。子供たちがきちっと計ることのできるような長さの単位はセンチメートル程度であろうというのが、小学校の先生方の共通の理解なのではないでしょうか。

 同じように体積を考えるときに、$1cm^3$、1cmを1辺とする立方体の体積ですが、$1 cm^3$ の枡を作るということは、容易なことではありません。そもそも枡を作るのに周囲の側面に使う材料が無視できない。中身が $1cm^3$ の容積の枡を作ると、多分なんですけど、私は実際に作ったことありませんから、$2cm^3$ くらいの大きさになっちゃうんじゃないかと思うんです。その枡を作って、中身が $1cm^3$ だよっていうふうに教えるのは苦しいですよね。

 そうなると、$1l$ だと $10cm\times 10 cm \times 10 cm$ の枡ですから、その枡が、たとえヘリが $5mm$ あるとして、したがって枡自身の体積は $1l$ とはだいぶ違ったとしても、つまり $1,000 cm^3$ よりもちょっと大きいとしても、誤差は無視できるというくらいになる。$1l$ というのは、昔は一升瓶っていうのが普及していましたので、一升瓶というのは、$1.8l$ であるとそう考えれば $1l$ よりもちょっと大きいってことですね。しかし一升瓶というのはガラスでできていますから、その体積は一升よりも大きいわけで、一升瓶を使って一升を教えるということも、あまり教育的ではないわけですね。そういうわけで先生方が教室で利用できる体積の単位として、一番一般的だったのはビーカーとかフラスコのような理科の実験装置で体積を実感させることもできる $dl$ というものであったのではないかと思います。

 アールも同様ですね。面積を考えるのに $1 m^2$ というのはいかにもせこいですね。あまりにも小さい。それは教室の中でも測ることができる。しかし、面積を考えたら体育館でやりたいですよね。体育館でやるとすると $10m\times 10m$ というのは子供たちにある広さを実感させるのに良い単位だと思います。$100 m^2$ という大きさになるわけですが、$100 m^2$ というのは難しいですよね。$1 m^2$ の100倍だということは計算では簡単にわかりますが、$1 m^2$の四角を縦横に10個ずつ並べると$100 m^2$になるんだと、これが理解できる子供がいたらもう立派なもんですね。そんなことはなかなか難しいんじゃないかと思うんです。

 一方、$100 m^2$ を $1a$ としたときに、$100 m^2$ の次の位として何を考えたらいいだろうか。それは、1辺が$1,000m$ になった場合、つまり $100m$ の $10$ 倍になった場合ですね。$100m$ の $10$ 倍になると、面積は $10^2$ つまり $100$ 倍になるわけです。$1a$(アール) に対して $100$ 倍の面積が出ますから、$1ha$(ヘクタール)というふうになるわけですね。そのヘクタールよりももっと大きいもの、それを考えることができなかったのは、$10km^2$ っていうことでしょうかね。つまり $1,000,000m^2$ ということです。それを考えることができないのは、子供たちの想像を絶する、言ってみれば抽象的な世界にしか映らない。そういうことがきっと、教育的な配慮としてあると思うんです。

 教育的な配慮というのは非常に汚れた使われ方をして、「子供たちにはわからない。だから教えない。」こういうふうに使われることが多いんですが、そうではなくて、私は教育的な慈愛、子供たちにはこういうことをしっかりと教えたい。子供たちにはこういうことを自分たちの科学的な世界、それを広げる上でとても役に立つことだということとして教えたい。そういうふうに先生方に思っていただきたいし、そういうふうに思っておられる小学校の先生が多いに違いないと、私はずっと思って来ました。私の小学校の先生はそういう立派な先生でした。

 それを、「こんなヘクタールなんていうことは使わなくていい。デシリットルなんか大人になったら使わない。だから知らなくていい」と言うんだったら、大人になっても使えない言葉を教えるということにどんな意味があるでしょうか。皆さん、大人になった人は、大学で習ったドイツ語やフランス語やロシア語や中国語について、今でもそれを日常生活に活用していらっしゃるでしょうか。ドイツ語を選択した方は多いと思いますが、シューベルトのWinterreise冬の旅、たった一つの歌であっても、ドイツ語でその歌詞の美しさを日々鑑賞しておられるという方は、どれほどいらっしゃるでしょうか。大切なことは、実用的に役に立つという言葉を軽薄に使わないということです。実用性は極めて重要な人間的価値観ですが、実用性を支える理論性という人間的な知性にとって最も重要なこと、それを忘れては話にならないと私は思いますが、皆さんはいかがお考えになるでしょうか。

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