長岡亮介のよもやま話378「昔のNHKスペシャルをみて驚いて感じたことなど」

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 私はしばしば、広告宣伝がいっぱい入った、本当に暴力とも言えるような民法は基本的に見ないのですが、広告が入らないはずの、私達の視聴料で支えられているはずの公共放送があまりにも貧しい内容の放送をしているということに、時々このよもやま話で取り上げてまいりました。国民の模範となるべき人たちが情報を正しく発信できないでいて、一体どうなるんだろうかということが基本の趣旨だったのですが、私はたまたま、Amazon Prime Videoというもので、NHKの昔の「ドキュメント太平洋戦争」というのを偶然見つけ、それを見ました。そして大変驚きました。今のNHKでは考えられないくらい、過去の太平洋戦争という大きな事件を批判的に取り扱っている。1人1人の個人の責任を追及するというのではなく、むしろ国民全体として、あるいは軍隊全体として、その不幸な終末が見えるような形で進行していたという事実を、いろんな方面から報道しているんですけれども、今この番組がもしかかったならば、おそらく政治家の圧力あるいは会長の圧力によって担当者は飛ばされていることでしょう。既に有名なキャスター何人かが飛ばされているという現実を踏まえれば、今この時代にあれをやったならば大変なことになる。そういうふうに私はNHKの職員の方に同情しましたけど、皆さんもぜひ、Amazon Prime Videoで今無料で見ることができます。

 「NHKドキュメント太平洋戦争」は部分的な放送ながら、大変刺激的ですから面白い。その情報そのものが面白いというよりは、その情報を取り上げる姿勢が、今のジャーナリストには全く見られない姿勢であるということですね。戦争という大災害を経験した私達が、その災害に遭った人々の犠牲から学ばなければいけないものは何なのか、ということを一生懸命取り続けている番組でした。過去形で言うのも、NHKに対しては気の毒ですが、今このような報道をすることはもうできない会社の体質になってるんではないかと私は思います。これほどのレベルの番組は、NHKだと海外ドキュメンタリーという海外制作のものでしか、見ることができませんね。海外ドキュメンタリーはとても面白い。番組の中にはとても面白いものはあると思いますけれど、全体的にはなかなかそういうレベルではないという現実があるということです。

 報道に携わる人というのは、ある意味でリスクというのでしょうか、自分の職業をあるいは自分の家庭を犠牲にするというような、気骨がなければやっていけない世界だと思いますが、今や本当にタレントと言われる人たち、タレントっていうのは本当はタレント・才能って意味なんですが、彼らの持っている才能というのは、恥知らずに喋る才能、お金さえもらえば何でも言う、それを才能といえば才能かもしれません。しかし、お金のために何でもする。自分の名前が売れるためだったら何でもするというのは、最も恥ずかしいことではないでしょうか。

 「いや人間はいざとなったら食べるためだったら何でもするよ」ということは、人間が動物である以上、悲しいそういう運命を背負っている。それは正しいかもしれません。しかしながら、これだけ文明が発展してきているわけですから、食べるということだけに関して言えば、少なくとも日本では、自分の魂を売らなくたって最小限食べることはできる。そういう世の中になっている。もっと食べたい、もっと美味しいものを食べたい、もっと有名になりたい、もっといい暮らしがしたい。そういう人間の欲望があるから、そうなるんだという説明がありますけれど、私に言わせると、それの欲望には果てがないわけで、そういう欲望に従っていたら決して幸せになれない。ということは、古代ギリシャの哲学者たちが既に気づいていた人間的な心理であるわけです。

 むしろ幸せになるというためには、そういう動物的な欲望、あるいは人間的な欲望からどれほど自由になるかということ。これが昔から大きなテーマとしてあったわけですね。現代人にわかりやすく言えば、宗教っていうのがその世界でありましょう。宗教の中には現世ご利益、この世の中で良いことが起こる。良い大学、学校に進学することができるとか、良い結婚ができるとか、そういうことでもって、現世ご利益を得る人がいますが、本当の意味での現世ご利益というのは、この肉体に縛られて、やがて死んでいくという悲しい運命を背負った人間が、できるだけ心静かに、人を慈しんで生きる。そういう眼差しを獲得して、日々を過ごす。そのために、何をしなければならないかということなんだと思うんですね。生きている間、少しでもまともな人間として生きたいと思う気持ち、そういう気持ちが、本当の意味での現世ご利益なんですが、今の現世ご利益っていうのは、お金が入ってきますようにとか、美味しいものが食べられますようにとか、何か本当に大したことがない。そんなことしか夢がないのかと、私のように貧乏な人間がそういうことを言うとひがんでるんだ、そういうふうに言う人がいますが、実はお金から自由になることの方が、お金に縛られて生きるよりも、よっぽど良い。朝から晩まで株価の動向について本当にちょっと喜んだり、ガクッと悲しんだり、そんなもので24時間過ごす。そういう不幸に比べたら、お金なんかと無関係に生きるという方がよほどいいですね。

 もちろんお金がないとできないこともいっぱいあります。入院するとなれば、当然お金がかかるわけです。お金がなければ病院にかかることもできない。日本は国民皆保険制度ということで、全員が社会保険に加入している。制度上ですね。そうなっていますから、ひどい人は病気になっても、自分を直してくれるということが医者の義務であるというふうに思い込んでる。それは破廉恥ですね。私達は自分で怪我をし、あるいは自分で病気をし、その自分の自己責任だというわけでは決してありませんけれど、何らかの天の巡り合わせで病気になったり、怪我をしたり、そして場合によっては命を失うわけですが、その怪我をしたときに、あるいは病気をしたときに、それを治すのが医者の務めでしょう。そういうふうに病院や医者に要求する人がいるという話を聞くと、私は国民皆保険制度はなくした方がいいなと思うくらいです。

 アメリカなんかではご存知のように、病院に行くにはお金がかかる。社会保険にきちっと加入してないと、大変なお金がかかる。ですから貧しい人は病院に行けない。オバマ政権のときにできるだけ国民に広く保険制度を広げようという改革をしようとしたんですけども、共和党の反対でそれが流れてしまいました。私はあんまり好きでない大統領によって、後にそういうオバマ政権の政策が全てひっくり返ったわけでありますけれども、当然保険制度なんかに関しても大幅に縮小されたわけですね。そして、そのツケが、COVID-19、2019年型コロナウイルス感染症とアメリカなんかでは総称されている、一応国連ではSARSコロナウイルス2そういうふうに言われてます。日本ではどういうわけか、新型コロナウイルス、そういうふうに言われていますけれども、それによってアメリカで膨大な死者が出た。ニューヨークですね。言ってみれば医療の破綻っていうのが、そういう大都会で起きたわけです。そして、実は大統領自身も、その中国ウイルスとかって言っていたその本人がまさにウイルスに感染するという全く喜劇のような事件が起きました。社会保険というのはある意味でセーフティーネットで、貧しい人もお金持ちも同じように医療を受けることができる。そういう制度にすることによって、感染症に対して重要な国家的な安全保障になるんだと。もし貧しい人が病院にかかれないということであれば、貧しい人を中心として感染症が拡大し、そしてそれが最もお金持ち、最も大きな権力を持っている人まで、その感染症から自由ではいられないんだとということを明らかにしたわけですね。

 そういう意味で社会保険というのには大いに意味があると私も思ったんですが、一方で日本の現状を見ていると、本当に病院が年寄りの暇つぶしの場みたいになっているというのはとても悲しいことでありまして、病院に行って、病院の先生にいろいろと面倒を見てもらうときには最大限の感謝をしなければいけない。なぜならば、病人と接する医者というのは、言ってみれば病原菌に最も近く、近接して接するわけですね。ものすごい危ない職業だけですね。そのリスクを冒してまで患者のことを考えてくれている医者とか看護師さんとか、本当にありがたいことであると思います。

 病人を昔の新約聖書の世界のように、ハンセン氏病の人を遠くの遠くの谷のところに閉じ込めて、そこから一歩も外に出てはいけないという隔離政策、ハンセン氏病に関しては隔離以外の手段というのを人間は持っていなかったわけでありまして、様々な病気に対しての差別、非人間的な扱い、それが聖書の時代にもあった。日本では本当に江戸時代、あるいは明治時代にさえ、あるいは昭和に入ってからさえ、このような本当に非人間的な差別があったわけですね。そういうその差別の中にあってもそういう患者に寄り添って、その患者の治癒のために努力してきた崇高な精神を持ったお医者さんたちがいっぱいいますね。本当にありがたいことだと思います。彼らは決して病気のことが本当にわかったわけではなかったと思いますが、それがハンセン氏病というふうに改名されるという経緯を知っている人は、それがどういう過程で解明されたかということもご存知だと思いますが、そういうことが解明される前から、そういうことの研究に邁進した人あるいはその病人と付き添っていた人々、本当に立派なことだと思います。

 それに対して、病人だったら病院に行って検査を受ける。検査は当然すごいお金がかかるんです。CTなんてのはX線被曝もいいところでありますから、被ばくするんですけど、CT撮ってくれっていう患者がいるんだそうですね。馬鹿げたことです。病院にしてみればCTというのは大きな費用をかけて導入するわけですから、CTスキャナーが本当に待つことなくどんどんどんどん運転する。CTスキャナーで今日は100人の患者を診た。それだけの加算、大きなお金が社会保険から来るわけですから、運転したいっていうふうに思うのは、病院経営者だったら当然だと思いますが、本当に必要ない人まで、あるいは必要であるということを判定することもできないままとりあえずCT撮ってみましょうっていうような医者がいて、そして患者がありがとうございますって言うんですけど、わざわざ放射能を浴びたいって思う人本当はいないはずですね。放射線を浴びることの危険以上に、その検査によって病変の位置が特定され、病気に対する対処方法がわかるということのメリットが大きいからこそ、そういう検査に意味があるわけですね。検査した結果何もなかった、安心したという人がいますが、馬鹿げていますね。安心したところじゃない。あなたはかなりの量の放射線を被ばくしたんだと。そういうリスクを、メリットもなしにリスクだけをいうのは、ずいぶん愚かなことではないかと思います。

 ちょっと話がそれてしまいましたけれども、いろいろな報道のような仕事をするときに、やはりみんな人生をかけて報道する報道倫理、ジャーナリストに課せられている倫理、人の道というのがあるはずだと思うんです。その「人の道というのを忘れた人々によって、ジャーナリズムが占拠されている」というのは、私は悲しい現実ではないかと思います。公共放送がないアメリカのような国においてさえ、実はジャーナリズムが結構立派な報道をしている。その代わりにアメリカの場合は、報道機関がそれぞれの社風というか、あるいは企業主の意向を反映して、非常に偏った報道になっているということが指摘されなければならないと思います。公共放送であるがゆえに偏らない報道をするということはとても大切だと思いますが、偏らない報道をするということは誰に対しても、誰からも文句が言われない、クレームがつかない報道をするということではなくて、それに対して、腹を立てる人がいるかもしれない、しかしながら、事実としてこれは報道しなければいけないという使命感に燃えて報道する、というのが正しいんではないかと思うんです。

 私は、NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」というのを見て、そのときのNHKの姿勢と、今のNHKの姿勢があまりにも違うのでびっくりしたのですが、一方で、その当時のNHKの報道姿勢が全面的に優れているかというと、やはり、一種の「自分たちは本当は関係していない。昔の人々がそれを言う犯罪的な行為に加担していた」というような雰囲気で、自分たちの責任を棚に上げているというのが、私自身はとても気になりました。むしろ大本営発表というのを報道してたのはNHKではなかったのか、ということ。そのことについて、痛みを感じて報道してほしいなと思った次第です。

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