長岡亮介のよもやま話377「間違った日本語以上に深刻な意味のわからない科学用語の氾濫」

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 語学学校というところに行くと、とりあえずまず会話できるということを目標に、日常会話を教える。日本で言えば、「ありがとうございます。こんにちは。さようなら。」そういった平凡な挨拶から、コンビニエンスストアなんかで働くときに、絶対心得なくてはいけない必修熟語というんでしょうか、そういうものまで教えるんだと思うんですね。そういうものの中に、「お箸をつけなくてよろしいですか」とか、「千円からでよろしいですか」というような奇妙な表現。そしてまた、同じく奇妙な「お箸つけなくて大丈夫ですか」とか、「千円からで大丈夫ですか」というのもあり、それに対応してお客さんの方も、「大丈夫です。」こういうことが私の耳しばしば入ってきます。私の語感では「大丈夫」という言葉は、例えば道端で転んだ人がいたとき、あるいは階段で踏み外した人がいたとき、そういう事故が起こったときに、本当に「身の危険がありませんか。心臓がドキドキしたりしていませんか。出血したりしていませんか。救急車を呼ばなくていいですか」というような意味で、「大丈夫ですか」とつい声をかけてしまうということはありますよね。「大丈夫ですか」っていうのは、大体はそういう緊急の場面で使う言葉だと思うんです。そしてそのときに、「いや、かすり傷だけですから大丈夫です。ご心配なさらないでください。ありがとうございます」というような返事をするのが、正しい日本語ではないでしょうか。

 同じくおかしいことに、コメントでもご指摘いただいたことで大変心強く思いますが、「ご苦労様です」っていう言葉、私はこの言葉を初めて聞いたのはおそらく、40年くらい前になるんだと思います。ある予備校で私が講義をした後に、その講義を聞いていく学生に対して、アルバイトの職員が、「ご苦労さまでした」と生徒に対して声をかけている。それを聞いて、「お前は馬鹿か」と私は怒鳴って、「ご苦労様でしたっていうのは講師に対して言う言葉であって、生徒に対して言う言葉ではない。彼らは自ら来たくて来ているのだから、それに対してご苦労さまでしたという表現はおかしいだろう」と言ったのですけれど、今や本当に会社の上司、社長という人が部下に対して、Eメールを発信するときに、「ご苦労様です」というような言葉から始まるという事例が存在するということ。それが夥しく存在するという現実にあきれ果てています。

 しかし、私は日常言語というのは、注意して使っていないとついつい乱れていく方向にいくものであるという一般的な傾向を考えると、日本語だけがひどいというわけではないと思っています。おそらく、アメリカでも、あるいは言語に対してあれだけ厳密であったフランスでさえ、いろいろな意味で言葉が乱れるという兆候が、多くの場面で発生しているんだと、きっと思います。特にインターネットの普及した社会においては、ショートメッセージというようなもので、意思伝達をする。日本の場合はメッセージを書くことさえなく、出来合いのスタンプで自分の気持ちを表現する。こういうような馬鹿げた習慣が定着しているっていうことを考えると、言語についての感性が風化していくということは、仕方がないという面もあるかもしれない。人類がそのようないわば単純な方向に自らを適用させている。その単純化した表現で意思疎通をし合える程度に、単純化した人間関係を望み出している。そういう現象なのかもしれないとも思います。

 こんな日本語を使うのはけしからんと私は怒りに燃えていっているわけではなく、こういうふうに日本語が乱れているということがだんだんわからなくなっている私達自身の文化に、みんなもっと危機感を持った方がいいんではないか。指導的なマスコミまでが訳のわからない表現をするということに対して、私達はもっともっと強い警戒心を持った方がいいんではないか。私達が私達の先祖の作ってきた非常に高尚な文化の継承者たりたいと思うならば、言葉の使い方に対して、できるだけ鋭敏な感性を保つように日々努力すべきではないか、ということです。私はそのような大衆文化の中の下劣な表現の普及に対して、若い頃はずいぶん頭にきてたっていう面もありますが、最近はかわいいな、と言ってみれば人間が退化していくということも人類文化としてはありうることかもしれないと、少しゆったりと構えるようになりました。私がどうしても許せないと思うのは、本来世論をリードする、人々の考えを新しい時代に向けてリードしていく、そういう使命を担っているはずのジャーナリストあるいはマスコミ、そこに働く人々の言葉が、全くどうしようもなくなっているということですね。特に何を言っているのかわかんない表現でもって、そのわざと難しい言葉、科学的な言葉あるいは数学的な言語、それを意味なく使っている。

 私が最近テレビの放送で聞いたのは、「こういう文化の座標軸は、どのような方向に流れていくのか」というような表現でした。「座標軸」という数学の言葉を使ってくれちゃっているので、ますます気になったのですが、その表現自身に何が意味があるのかって、ということについて、全くか理解できない。座標軸という言葉をひょっとすると毎日使うかもしれない私が聞いても、意味がわからないわけです。実は数学的に言えば、座標軸、寄り広くは座標系って言いますが、普通の人はx軸・y軸・z軸、3次元の座標軸だというふうに考えている方が多いでしょう。物理なんかではそれに時間を入れてx,y,z,tで4つの軸、時空次元で考えることが多くあります。しかし現代物理学では、そのような低い次元ではなかなか説明することができないので、もっと大きな次元の空間を考えます。数学においてさえ、次元の高い空間を考える。高次元の幾何学とか高次元の微積分学ってこれはもうほとんど数学では当たり前の世界になっているんですが、その次元を考えるときの座標軸に対応するものがあるわけですが、座標軸のとり方自身はあまり意味がない。

 座標軸っていうのは、言ってみれば問題ごとに適当に取り替えた方がいいわけですね。ある意味では、空間が与えられたときにその座標軸をどう取るかっていうのは、恣意的なものであって、座標軸は決定的なものではない。むしろ重要なのは原点なんですね。原点をどこにとるかというところは非常に重要な発想だと思います。しかし、原点というのは比較的わかりやすいもので、最近の宇宙論よれば、あるいはその太陽系を含む銀河系、銀河系を含む大宇宙、そういうことを考えると、もはや原点という言葉に意味がないわけでありますね。そうなると、原点とか座標軸という言葉自身が相対化されているということに人々は気づくべきなのですが、やはり近代科学の黎明期、例えばコペルニクスの太陽中心説が出たときには、多くの大衆が「何だそういうことだったのか」と科学の先端的な知見に触れて驚いたのでしょうけれども、今ではそのコペルニクスの太陽中心説なんてのは全く馬鹿馬鹿しい。地球が中心であるか、太陽が中心であるか、どちらが中心であってもおかしいというのが今では当たり前でありますね。

 そうなってくると、一般的な人々の科学に対する理解が低く、ついていけなくなりますから、結局科学的な知見というものが、多くの人々に正しく共有されない。ちょっとそういう不幸な時代に突入しているのだと思いますけど、そうだからといって、科学の言葉を全く非科学の部分に導入して悦に入っているという、一部の括弧づき「知識人」がいるのは、本当に情けない話です。「科学を知らないで、科学について語る」というのは、最も恥ずかしいことです。科学の啓蒙番組が科学に関していかがわしいことは言うのは、それは致し方ないこと。つまり、科学についての紹介番組だと思えばそれはそれで許せるわけですが、科学の言葉を、社会の現象を説明する際に自分勝手に勝手に解釈して、それを比喩的に使う。これは全くナンセンスな話ですね。

 かつてニューサイエンスの運動があったときに、そのニューサイエンスを掲げる人々が使う科学用語が全くいかがわしいということを指摘する本が出たりして話題になったりしたこともありますが、私は、ちょっとその学問的な言葉を使うことによって、人々のふわふわした気分を表現するという風潮に対して、これは本当はとってもまずいことではないかと考えるわけなんですね。

 言葉の使い方に対して、私達が敏感であるときにどういうことを気をつけなければいけないかということについて、二、三お話しました。関連して外国語教育で、コミュニケーション重視の英語教育などと言っていることが、いかに馬鹿げたことであるか。例えば「千円からでよろしいですか。大丈夫です。」こんなような日本語を日本語学校で学んでいる貧しい国からの留学生は本当にかわいそうですよね。日本人が同じ間違いを国家規模でやろうとしているのではないか。私は不安を感じています。

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