長岡亮介のよもやま話376「なぜ『正しい方法』という考え方が欺瞞的なのか?」

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 最近見るともなく嫌でも目や耳に入ってくる広告を通して、ひどい時代に突入していることを痛感し、若い人にこのような詐欺のような大人たちだけではないんだぞということを伝えたくて、今日このお話をさせてもらいます。

 それは、世の中には何か困難なことを成し遂げるときに、そのための方法、特に正しい方法というのがあって、今までそれが多くの人にとって達成できなかったのは、正しいやり方を知らなかっただけであるという類の広告ですね。「こうすればあなたも英語が得意になります。」「こうすれば英会話が上手になります。」「こうすれば数学が得意なります。」この程度だったらいいのですが、「こうすれば必ずできるようになります」というのから始まり、果ては「あなたは今までこんなことをしていたから英語が伸びなかったんです。数学が伸びなかったんです。」こういう言い方をされると、今まで実直に努力してきた人は、「そうか、自分のやり方が間違っていたんだ。これからは正しいやり方でやれば、実力が身につくんだ」と、つい思い込みたくなるのではないかと私は思うんですね。

 やり方が悪かったにすぎない。正しいやり方だったならばうまくいくという、うまいやり方があるんだという趣旨の類いの誤解ですね。ある意味で、これは何をどうやってもうまくいかなかった人にとって、救いの声であるかもしれませんが、それは救いではなくて、救いを装った罠であるということですね。本当に困難なことは、本当に厳しい努力の果てにしか達成することができない。簡単にできることは、元々簡単にできることにすぎないということですね。よく日本人は、英語が不得意だとか数学は不得意だっていう人がいます。私に言わせると、それは単にそのような勉強の経験を積んできたことがないというだけで、例えば英語で言えば、日常会話なんて毎日繰り返してれば自然にできるようになる。実際、犬や猫だって、英語圏で飼われている犬や猫は、英語は理解できるという話を聞きますし、実際に海外で調教を受けた犬に対して、私の友人で犬を飼ってる人はstayとか、houseとか、英語で呼びかけています。日本ではなかなか海外の人と話すという機会が非常に少ない。最近では海外のビデオも十分日本に入ってきて、海外の英語に接する、あるいはフランスの接するということも多くの人ができるようになりましたけれども、最初のうちはやはり字幕がないとわからないというとこがありますね。字幕に頼っても、それを聞いているとだんだん聞けるようになるものなんですね。このだんだん聞けるようになるところまで頑張るということがなかなかできなくて、すぐ飽きてしまう。ついやはり吹き替え物に頼ってしまう。こういうところが私達弱さで、継続して努力をしていくということ。それが、私達はある意味で非常に賢くて、その賢さに訴える。賢さが自分の心の中で大きな位置を占めるようになると、自分のうちの愚鈍に頑張るという力が萎えてしまうんですね。本当は実直に愚鈍に頑張るということを、すべきなんですね。

 赤ちゃんが父親・母親の言葉をマスターするときのように、何回も何回も同じことを繰り返す愚かさがとても大切であると思うんです。基本的な体系が頭の中に入ってきますと、数学の場合まさにそうですが、自分の中に数学の枠組みというのが入ってきますと、いろんな新しい話を聞いても、ふむふむなるほど面白いねとか、つまらないねとか、なかなか深いね、深淵だね、美しいなといろんなことを言うことができるようになるわけです。その枠組みがない人にとっては、どの数学もみんなちんぷんかんぷんなんだと思うんですね。

 外国語もそうだと思います。外国語の会話をマスターするということがいかにくだらないことであるか。というのは、日本人の今の若い人の会話的な日本語を聞いていて、それを外国人が、日本人のように真似するとしたら、なんと恐ろしいことだと思いませんか。マジむかつくとか、そんなこと外国人が言ったら、それは正しくない日本語ですよと、注意してあげたくなりますね。マジくらいだったらまだいい。真面目にという言葉の意味、元々はそうだったのかもしれません。真面目にという言葉、本当に真面目にそう考えているというのの省略形だと言えば、そのルーツを探ることができます。しかし、最近の若者言葉の中には、やばい美味しいとかのように、何言っているのだか全然わからない。ルーツをたどることができないくらい乱れきってしまった会話言葉もあるわけです。

 それは諸外国の言語にも同じようにあるわけで、会話をマスターするということは、その文化の中に浸ってその文化を受け入れる。それを自分のものとしているということでありますから、いわば屈服することであるわけで、自分の内なるロゴス・理性・論理に従った言語表現を失ってしまって、まるで他の人が喋ってるものを自分の喋る言葉のように使いこなすということ。これは実は敗北であって、決して勝利ではないという深い真理に、気づいてもらいたいと思うのです。今、英会話の話について言いましたが、数学でも同じなので、「皆さん、こういうふうに数学は考えるんです」と教える人たちの情報が巷に溢れていますけれど、私から見ると、「よう言うわ」という関西弁で言えば、そういう印象で、非常につまらないことを針小棒大に表現している。こんなことで数学の勉強をした気分になったりすれば、それは数学的な世界の素晴らしさに目覚めることは難しいな。そういうふうに思います。

 何事によらず「方法、特にベストな方法がある」という考え方、これは根本的に間違っている。つまり、いろいろな方法があり、その様々な方法に一長一短というか、それぞれの長所、短所、特徴、いろんなものがあると思うんですね。その特徴をいろいろと見ながら、自分に合った方法を選んでいく。あるいは自分が作った問題あるいは自分に与えられた問題に対して、「自分に適した方法あるいは自分の使える方法をありとあらゆる知恵を総動員してそれに立ち向かっていく」ということが大切なのであって、「この問題に対してはこう解きましょう。この問題に対してはああ解きましょう。」そんなものをいちいち受け入れたら頭混乱に陥るばかりで、決してその問題を真に理解するっていうことはできませんね。

 例えて言えば、音楽の演奏でありますけれども、今は電子音楽が利用できるようになりまして、多くの演奏家の演奏に容易に接することができるようになりました。その中には本当に素晴らしい感動的な演奏が数多くありますが、残念ながら数多くすごくつまらない演奏もあります。特に音楽で日本人の場合は、どうもクラスカルミュージックについて親しむという経験が余り十分長くなかった日本においては、クラシック音楽ってのは縁遠いもんだと、そういうふうに感じてる人がいて、そういう人ためにクラシック音楽百選というような、あるいは山登りが苦手な人にとってこの百名山とか、百という数はまとめてお薦めの曲とか、お薦めの山とか、お薦めの風景、お薦めの観光地っていう人が結構多いんですけど、本当は人生っていうのは一期一会で、たった1曲でもいいから心を揺さぶられる、そういう曲の演奏に接してもらいたいと思う。

 図書館に行って、この中から100冊を選ぶ。そしてそれを読むと言ったら馬鹿げたアドバイスだと、誰でも思いますね。同じように、これは聴いておきたい100曲、ギリギリ絞った100曲と選ぶ。そういうふうにセレクションを作ることに、全く意味がないとは言いません。特に入門者用に、きちんとした基本となるものを聴くっていうことはとても大切なことだと思います。書籍に関しても同じですね。古典というふうに呼ばれているもので、それはどれも読むに値するものであると思いますが、そういうもの中で、やはり心に残る1冊っていうのはそれぞれの人にあっていいと私は思うんです。全員が、先生がすすめた100冊の本というのを読むということを、目標にするのはちょっとおかしいと思うんですね。1人1人に100冊が違っていて構わないと思うんです。しかし、そうは言っても、これは名作だっていうものをあげたら、やっぱり100、200、1000や2000がすぐに上がってくるわけで、決して最初の100冊とか100曲、そういうものに縛られてはなりませんね。

 でも一番大切なのは、好きになることです。心を突き動かされることです。ですから、数学の問題で言えば、たった1問でもいい。この1問に出会って本当に良かった。自分はこの1問を通して変わった。理解の世界が格段に広がった。そういう1問あるいは1フレーズ、それに接するだけでもいい。そういう感動が、1人1人の、言ってみれば心の世界あるいは知的な世界を拡大してくれるわけです。そうではないでしょうか。

 私は、「この方法に従えば、必ずあなたはできるようになります」というような類のインチキに、若い人が引っかからないようにしてもらいたい。1人1人の若い人に、それぞれに合ったそれぞれの勉強方法あるいは自分自身の成長の仕方、そういうものが待っているわけで、天は必ずそういうものを用意してくれている。よく自分は運がついてないタイプだという人がいますが、そういうふうに自分の運命を否定的に捉えるのでではなく、正反対にいかなる悲運あるいはいかなる不運も、実は将来に必ず幸運が待っている。そう信じて頑張ってほしいと思います。

 一般に大切なことを最後に一言でまとめてみたいと思いますが、それは、「一般に達成することが難しいものは、決して達成することが容易にできる道はない。」簡単なことは簡単に達成できます。しかし、簡単なことは達成することそのものにそもそも意味がない。ですから、達成する価値のあるものは、言い換えれば、達成が困難なものであり、達成が困難なものは容易には達成できるはずがない。したがって、達成するためのメソッド、アプローチ、方法、そんなものはない。自分自身で、開拓していくような、汗と涙を通して初めて切り開かれる世界なのであるということです。

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