長岡亮介のよもやま話375「教育の原点=小学校教育の計り知れない大切さについて」

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 ここのところしばらく事務局の方の意見を考慮して、学校数学の否定的な側面、一言で言えば悪口と聞こえそうな内容についてお話してきたんですが、私は何度も告白しているように、学校が大好きだった少年、特に小学校のときにとても楽しい思い出があり、また大学時代にものすごく嬉しい出会いがあったということもあって、学校というものに対して、概して肯定的なんですね。

 なぜ、小学校や大学に関して肯定的なのか。小学校の頃には、何かものすごく大切なもの、言葉にできないようなものをしっかりと習ったという気がするんです。一方大学で、とても勉強になったのは、そのような言葉で表現されている世界で、それを精密に理解すること、あるいは表現すること、そのためには決して自明でない努力が必要であるということ。そういうふうに対比的に語ると、私の学校時代、小学校と大学時代が楽しかったということを、二つ対照的に並べて考えることができるように思いまして、今日その話をしたいと思うんですね。

 小学生の頃は、言葉遣いというものをそもそも知らないわけでありますから、言葉を知らない子どもに対して、先生が何事かを理解させる。これは奇跡の御業(みわざ)というべきでありまして、小学校の先生の本当に優れたところだと思います。例えば数学で言えば、足し算とか引き算とか、加法とか減法とかっていうのを知らない子どもに対して、加法とか減法をしっかりと理解させる。加法や減法は、乗法や除法とは違う。そういうことをしっかりと理解させるっていうことは、すごく難しいことです。最近は小学校の先生も学力が低下してきているという傾向が一般にあるからでしょうか、あるいは小学校に通う子どもたちの学力が一般に落ちているということが原因なのでありましょうか、わかりませんけれども、足し算と掛け算、その区別がつかない。という子どもを目の当たりにして、びっくりしたことがあります。いわゆる文章題っていうのを解くときに、「それ掛けるんだっけ、足すんだっけ。」そういう類のことを議論している子どもたちを見て愕然としたわけです。「その区別がつかなかったらおしまいだろう」と年寄りとして言ってやりたくなりましたが、そこはぐっとこらえて、今時の子どもは仕方がないんだ、とそういうふうに思って諦めてしまいました。若い頃であれば、「ちょっと待て、子どもたち。ちょっとそこに立って、おじさんの言うことを聞け」、そういうふうに言う情熱を持っていたと思いますが、当時私はそれほどの情熱をもはや小学生に感じることはなかった。小学生を見て、それほどかわいいともう思わない。そういう自分になっていたということでありますね。とても残念なことに思いますが、その頃もう小学生を自分の本当に後継者として育てていかなければという思いを、持ってなかったっていうことです。

 小学校の先生は自分の生涯を通じて、そういう子どもたちと付き合い、子どもたちを成長させる。そういう仕事を、自らの転職として頑張っている。特に私が偉いと思うのは、いわゆる管理職に上っていく先生っているんですね。わずかな定年の延長とわずかな給料の増加のためにそういう道を選びたいっていう先生方が少なくないと聞いて、私はとっても残念に思いました。小学校の先生になったら校長になったらおしまいだろう、と思いました。よくそのことを大学生の諸君に語って聞かせるのに、「君たちの中で小学校の先生の名前を覚えている人はいっぱいいるだろう。でも、校長の名前を覚えている人、1人でもいるか」と聞きました。

 それはちょうど山手線JR渋谷駅、大きな駅ですね。その大きな駅で多くの駅員が働いています。その駅員のトップに立つ駅長は大変位の高い職員であると思いますが、渋谷の駅長が誰であるかということに関心を持ったことがあるかと聞いたことがあるんですね。言うまでもなく、誰も駅長の名前なんか知るわけもない。そういうもんだと思うんです。そういう中にあって、1人の駅員さんとの出会いが人生の大きな思い出になるという思い出を持っている少年少女がたくさんいて、おそらくこれは私の想像ですが、いわゆる電車に関するオタク族と言われる人たち、電車オタクあるいは列車オタク、やたら詳しいんですね。そんなことが何で楽しいのか。私は理解できませんが、時刻表を見ているだけで楽しい、そういう若者がたくさんいます。そういう若者たちが育っていくのは、駅員さんの素晴らしい姿が目に焼き付いているからだと思うんです。

 同じように小学校において、やっぱりクラス担任との出会いがすごく大きいと思うんです。最近聞いた話では、クラス担任の先生も大したことなくて、「クラス担任の先生に外れた」というような言い方を平気でするお母さんやお父さんに会うと、とっても残念に思います。クラス担任との出会い、それは人生において本当に最初の先生との決定的な出会いであると思うだけに、そう思うわけなんです。小学校の先生との出会いというのは、言ってみれば、大学における理論とか概念を通じて、ある新しい世界を描写することの楽しさとは全く違う。概念も言葉も持っていない世界にあって、概念とか言葉の世界、理論の世界の入門的な部分にいざなってもらえるということの楽しさである、と私は思うんです。

 そういう喜びを感じない子どもたちが最近増えているとすれば、そのことの本当の原因は何か。私がもしその文教政策の責任者であるとすれば、学校現場の先生に、「何としても頑張って、子どもたちにその楽しい小学生時代を過ごさせる。そういうふうに努力してほしい。そのために自分ができることは何でもやる。」と、私は言うと思います。私が教育の責任者であるとして、教育長とかって祀られた職業であるとすれば、「私は自分の全責任を持って、小学校の教育の現場がより良いもの、子どもたちにとって人生でかけがえのないものとなるように、先生方が努力する。そのことができるために、私ができることならばは何でもする。」そういうふうに、きっと挨拶すると思うのですが、今、長と名前をつく人々が、そもそもそういう情熱を持っていないんではないかと。ということをすごく心配になり、地方自治体の選挙などに関して、若者が関心を失っているという現状を、悲しく思います。

 私は、本当に身近な、子どもにとって最も大切な時期。それに決定的な影響を及ぼす小学校時代、その小学校時代でも決定的な影響を及ぼす小学校の先生、そういう方々に、自分の職業に情熱を持って、邁進してもらいたい。いかなる反対意見をもはねのけて、自分の情熱を突き通して、貫き通してもらいたい。そういうふうに願っております。小学校に教科専門制というのが導入されるというような馬鹿げた話があるのですが、小学校くらいの数学、小学校くらいの国語、そんなものに専門性があっていいはずがない。そもそも、子どもたちはそんなせせこましい専門にとらわれて勉強するようでいては、とても将来見込みがないと私は断言できる、と思うんですね。

 今日は久しぶりに学校教育の持っている肯定的な側面を忘れてはいけないということで、昔もお話したことでありますけれども、ここ最近遠ざかってきた話題でありますので、その話について触れさせていただきました。

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