長岡亮介のよもやま話374「学歴社会から学力社会へ」

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 「日本の多くの人が、依然としてひどい幻想の中に生きている」というお話として、学歴社会という言葉について取り上げたいと思います。日本は、大学の卒業という資格によって、生涯の立身出世あるいは総所得が全部決まる社会であるというふうに、未だに信じている人が多いのではないかと思いますが、そういう社会が日本にある時期あったことは事実ですね。特に明治維新以来、いわゆる太平洋戦争の敗北が決定づけられる前の社会、それは大雑把に言えば、学歴が大きく支配した時代であったと言えると思います。そして、進駐軍によるそのような社会の解体、それが徹底して進んだはずであった戦後にも、まだその昔からの伝統が一定期間残っていたということは言えると思います。

 しかし、はっきり言ってこの30年間くらい、私は1995年という年が一つの節目だったんではないかと、それは絶対的な意味で言っているんではなくて、大体の感じでそう言っているわけですが、大きな転換を迎えた。つまり、学歴というのが意味を持たなくなった。いわゆる企業に就職するときでさえ、履歴書には学歴を書く欄がない。学歴でもって人を見てはいけないという。これは何なんでしょうね、法律で決まったんでしょうか。それとも行政基準なんでしょうか。今、普通に企業が人事採用に動く時期が、あまり大学での教育を痛めつけないように、ある程度自粛するということが、経団連などで決まっていて、一応それが守られています。

 しかしながら、学生は就職のことに対して非常に大きな野望を持ってるってということもあって、私立大学ですと4年生くらいになると、もう就職に対して浮き足立っている。そういう状況が生まれます。その一般企業への就職の際に、例えばインターンシップとか、そういうカタカナ言葉で言われるものは、結構学校にも普及している。文教行政もそういうのを推進している側にいるわけですね。私自身は、アメリカ的なインターンシップっていうのが、日本に普及するっていうこと自身は、好ましい局面と、好ましくない局面があって、それをきちっと見極めないと、言葉だけが独り歩きするのは大変に具合が悪い。そういうふうに感じておる1人でありますが、むしろ私のように感じる人は、大学関係者の中には非常に多いし、企業の関係者の中にも非常に多いと考えておりますが、それはともかくとして、学生は良い会社に就職するということに血眼になっている。企業の側も良い新入社員を取りたい。そういうふうに思っているんですけども、先ほど申したように、学歴を聞いてはいけないという。これが法律なのか、行政による指導なのか、自主規制のかわかりませんが、ともかくそういう制度が今確立しているわけです。

 ですから大げさに言えば、東京大学を出ようと、名もない地方の大学を出ようと、名もない東京の大学を出ようと、企業に入社するときのいわば出発点、それは同じなんですね。学歴が高いから、就職で有利あるいは就職してから有利であるということはない。つまり、よくいう言葉ですが、人間性のようなものが、企業に入ってからの立身出世みたいなものを、一応支配しているということになっています。

 確かに学問的な力が必要でない職業が増えていることは事実ですね。どういう能力が必要になっているのか、ますますそれは意味不明になってくるわけでありまして、日本社会の30年後という未来予測をするときに、非常に暗澹たる気持ちになるのは、本当に価値を創造する人、その価値というのは、普通の意味で経済的な価値でも構わないんですけれど、創造的な価値を作り出す能力があるかどうかということが、企業全体が失いつつある。そして、その失っている企業の中で、それを支えるべき人材が枯渇していく。ということが私は目に見えていると考えるわけでありますが、そういう社会の中で生きていくための出発点になる、いわゆる企業への就職っていうときに、学歴が全く効いていないということは、驚くべきことではないでしょうか。

 明治以来学歴が最も決定的に効いたのは、いわゆる行政ですね、公務員、国家公務員、上級国家公務員。ついこの間までは上級国家公務員、例えば東大の法学部を出て、上級国家公務員試験に良い成績で合格すると、もう本当に20代にして、部下500人を持つ。例えば警察署の署長であるというようなポストに、20代の青ぞうという人がなり、50歳の部下が敬礼をする、そういう社会が日本にあった。これは事実でありますけれど、国家公務員がもはや若者の夢の職業ではない。大体国家公務員になってもメリットがない。そういうふうに感じる若者がいて、今、上級国家公務員になる志望を持った人そのものが少ない。ですから、今までそういう職業に就く人を輩出したことのない大学からも、どんどんどんどん上級国家公務員試験合格者は出ています。

 おそらく近い将来に予想されることは、昔は特別によく勉強した人だけがつける職業であった、例えば、司法の世界においても、言ってみればどうでもいい、リーガル関係の仕事しかやる能力のない人が、圧倒的多数を占めるという時代になってくるんだと思います。同じことは医学にしてもそうでありまして、本当に理知的でしかも度量の深い、人格的にも立派、学問的にも立派という人が医師になっていた。選ばれし人が医師として生きていくことができた。そういう時代はだいぶ前に去り、もう最近の医師の水準が、どれほど低いか。これは入学試験で見ると、ある程度成績の上位者が固まっているように見えますけれども、実際は人口減少のことを考えると、今、医療の職業に就こうとする医師が社会の中でエリートであると思われているのは完全な幻想で、今医師というのは大げさに言えば、給料の高い国家公務員のようなものでありまして、社会保険によって養われている。社会保険の定める基準に従って、厚労省の意思のもとで、機能する様々な医療関係の学会の作り出すガイドラインとかプロトコールに従って、医療する。本当に、独創的な判断、そして献身的な努力、そういうものを通して、医療の世界を切り開いているというのは、ほんのひと握りの例外であって、あとのほとんどは給料の高い公務員に過ぎない。給料の高いといっても、若い時代はほとんど給料もないような奴隷生活のようなものを強いられるわけで、ある意味では生涯賃金ということで言うと、開業医をすることによって初めて元が取れるというような状況が、つい最近までの状況でありました。

 これからは開業医をやっても元を取ることができない。そういう時代がもうすぐにやってくる。そういう時代がもうひたひたと近づいていると私は感じます。実際にこの人には開業させられない、大きな病院で医療のスタッフとして一員として働いている方が安全であると思うくらい、危ない人も結構たくさんいるように私は感じています。自分の頭で判断することのできない医師。学会の決めた基準を守ることでしか、自分の生活を成り立たせていくことができない医師。そういう人が増えているんですね。そして、近い将来そういう人が、大多数になってしまう。そういうことを、私はいわば統計的に必然的な未来として見えてしまうわけであります。

 学歴というものが既に完全に崩壊している。しかしながら、社会がそういう社会であるからこそ、ますます知的に優れた人をリーダーとして持たないと、まずいわけですね。特に政治の世界、あるいは行政の世界において、私達の社会をどのように導いていくか、深い見識と強い責任感を持って決断していく力がある人、それが必要であると思うんです。そういう人を輩出するために、エリート養成っていうことは古すぎる言葉でありますが、優れた人を大事にしていかなければ、私達には未来がない。そういうことは明らかであると思いますから、人口の減った若年層の中で、しかし才能に溢れている、あるいは才能が眠っている人を、積極的に発掘する努力をしていかなければいけない。それは学歴社会ではなくて、古い言葉を使わせてもらえば実力社会ですが、昔の実力社会っていうのは、ちょっと馬鹿げた話で、言ってみれば営業成績がいいとかっていうのを実力と言ってたわけですから、そうではなくて、創造的な思考力のある本当の意味で可能性に満ちている人、実力というよりは可能的な力に満ちている人、その人たちを何としても育て、活躍する場を用意していかなければいけない。そういうふうに思います。

 社会がそういうふうにみんな思っているんですから、若い人はそういう社会のニーズに応えたいと思ってもらえばいいわけで、今の若い人たちはどちらかというと、社会で高く評価してもらおうとだけを思っている。だから、世間体のいい会社あるいは業績のいい会社に行って給料が高ければいい。そういうふうにしか考えてないと思うんですが、それはあまりにも狭すぎる見解であるということですね。若い人が考えている社会は実はもう終わった社会であって、これからの社会というのは若い人自らが切り開いていく未知の社会だっていうことです。そして、その未知の社会である我々年寄りをいっぱい抱えた社会が、若い人々がそのような力を持って、社会を支えてくれる力になるということ、それを期待しているということですね。

 学歴に頼るというんではなくて、学力の高い人になる。学力というのは決して学校の先生が言うような基礎学力とかっていうようなものではない。教科書に書いてあるような陳腐な知識をいくら正確に持っていても、そんなものは学力でも何でもない。私の定義する学力は、まさに学ぶ力であり、学ぶ力とは、自分自身の能力の限界をきちっと見極め、自分の力の貧しさをきちっと自覚し、その貧しさを補うために学ぶ。自分自身の知識や、あるいは教養をどんどん広げていく。そういう意欲を持って、生涯にわたって成長していく人。これが学力のある人だと思うんですね。

 そういう学力のある人として、皆さんが、若い人が社会に出ていけば、皆さんが学校時代にどういう評価であったかということは、多分全く関係ない。というのは、今の学校では、この30年の学校では、もはや学校でつけている成績そのものに、意味がない。というくらい、一般的に言えばですよ、例外はいっぱいあるっていうことを私は承知しております。でも、一般的に言えば、全く正しく学力を評価していない。学校の先生たちが、子供たちの学力を評価できるほど学力がないということです。はっきり言えば、学校の先生方の中で、自分が無知で、自分の教科においてさえ厳しい限界の中にあって、だからこそ一生懸命勉強しなければならないと考えている人は、おそらく1000人に1人くらいしかいらっしゃらないのではないでしょうか。そういう学力がない先生たちの付ける評価、そんなものは社会で通用するはずがないということを、理解してもらいたい。

 これからは、学歴社会ではなく、そして、私は古い言い方としてあまり好きでない実力社会でもない。私の言葉の意味で、これからは「新しい学力社会」である、と私は考えています。

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