長岡亮介のよもやま話367「大衆の人気取りと愚民政策」(TALK3/6)

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 私は今ちょっと病院の入院生活に近い監獄状態におりますので、たまたま朝からつまらないテレビを見て、本当に深刻な事態だと思い、このメッセージを発信しようと思いました。

 私達多くの日本人は、ロシアや、あるいは中国、北朝鮮の国営メディアあるいは政権寄りのメディアが、政権に都合のいい情報をえりすぐって国民に一方的に発信している状況に対して、とんでもないことであると、そういうふうに感じている人が多いのではないかと思います。そういう国の中にも、自由な報道を求めて命を懸けて戦っている人々がいるということは、私達に勇気を与えてくれます。

 しかし、私達はその勇気をどういうふうに発揮すべきでしょうか。翻って我が国の公共放送は、この深刻な事態の中で、朝からおめでたい連続テレビ小説なり、本当に全くそれ以上に意味のないクイズ番組であったり、そうやっておどけて、大衆のご機嫌を伺っている。ご機嫌を伺っているというと聞こえはいいのですが、単なるポピュリズムということではない、そうではなくて、国民がこの程度に馬鹿にしておいた方が良いという、いわゆる「愚民政策」、愚かな民に誘導する政策を公共放送が先頭になって引っ張ってるという現実があり、これは政権寄りの広告宣伝に明け暮れる近くの国の政見放送と似たり寄ったりである、と私は思うのです。もっともっと重要な情報をきちっと発信する。その情報をきちっと発信するというためには、情報そのものがきちっとしてなければいけない。ふわふわと浮ついた報道を垂れ流すだけではいけない。

 例えば、COVID-19の事件では、日本では新型コロナウイルスという名前を勝手につけて、国際的に全く通用しない名前ですが、国民を恐怖のどん底に突き落とした。そして国民はコロナ・コロナと大騒ぎをしていた。その大騒ぎによって私達は何を失い、そして何を得たのでしょうか。今でも皆さんがしかるべきところで統計を調べてもらえばわかるように、例えばWHOのウェブサイトに行っていただければわかるように、コロナの流行は全く沈静化していません。しかし、日本は5類というのに移行しました。移行する以外に手がなかったというふうに考えるべきだと思います。5類への移行の判断が正しかったか、正しくなかったか。というよりも、それ以前の対応にものすごく大きな間違いがあったということ、これが明らかなんだと私は思いますけど、その誤りについて誰も責任を取ろうとしません。甘い汁を吸った人たちがいっぱいいるからです。涙に濡れた人々の影に、濡れ手に粟で儲けた人たちもいっぱいいるわけです。そういう言ってみれば、社会的な不正それを誘発したコロナウイルス騒動でありましたけれども、そのコロナウイルス、言ってみれば、ある種の自然災害、その自然災害を人的災害に拡大したのは、政治と行政の大失策であると私は思います。

 そのことについて、「ここで間違えていた。これが悪うございました」と、こういうならばいい。しかし、科学的な根拠もなく突然沈静化したように、世間の風は変わっていますね。コロナに感染した人々はそれに対して、今までは無料で、何回でもワクチンも受けることができた。それが、これからは大変高いお金が要求されるようになる。大変高いお金がかかるに決まっている治療なんです。その治療が本当に有効であるかどうかっていうことの科学的なエビデンスはまだ十分ではないと思います。そういうことを後からでもいいからきちっと検証して、その政治責任あるいは行政の判断責任を明らかにするということが、ジャーナリズムには求められているはずだと思うんですけど、そんなことを全く忘れているかのように、もうコロナのコの字も出ない。

 おめでたいクイズ番組を流して、国民の笑顔を買っている。「国民の皆さん、健康に気をつけましょうね。能登の皆さん、災害に負けずに頑張ってくださいね」って、こういう綺麗事、耳に気持ち良い言葉を流せば、それで行政の責任を果たしている、あるいはマスコミの責任を果たしていると思っているんでしょうか。もし本当に思っているんだとすれば、これはおめでたいとしか言いようがありません。おそらくそんなに愚かな人たちではないと思うので、意図してそういう情報を流す。そういうことが政権にとって好ましいことである。そういう判断が働いている、と想像することの方がより合理的ではないでしょうか。今日はたまたま、朝からつまらない番組を見たせいで、こんなお話をさせていただくことになりました。

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