長岡亮介のよもやま話366「民主国家の教育はどうあるべきか。学習指導要領の改訂に関連して」(TALK3/2)

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 数学の教育に少しでもタッチしていると、無視できない大きな影響力を持つものとして、文部科学省が定める「学習指導要領」というのがあります。皆さんも名前を聞いたことあると思いますが、これは一種の法的拘束力を持つ公文書でありまして、日本で発行されるいわゆる「検定教科書」、つまり行政の補助を得て、学ぶ学習者に対して無料で配布される。あるいは、ものすごい安い値段で配布される。そういうことを保証する。言ってみれば、全ての人々に教育の機会を均等に与えるという戦後の義務教育の理念を、能率よくあるいは効果的に実現するために、教科書に検定をする。戦前のように国定教科書ではなく、それは民営化されたところで教科書が書かれるけれども、国が作った基準に従って検定を受ける。検定に合格したものだけが教科書としてリリースされる。つまり、税金のお金を使って国民にばらまかれるということです。

 戦前の国定教科書に比べれば、民営化された分だけ教育が民主化していいことになったと一般の人は思うのですが、それは良い面も確かにあるのですが、私が前からいろいろとお話ししているように、教育とか芸術とか、あるいは科学とか、あるいは医療、あるいは法律、そして行政、そういうものも実はみんな民営化すればいいとは必ずしも限らないですね。民営化されてそれぞれの中で資本主義的な競争が働き、市場の見えざる手によってコントロールを受ける。そういうことによって、より良いものが生まれていくじゃないかと、資本主義の草創期の人たちは楽観的に考えていました。

 しかしながら、資本主義が成立して約300年ぐらい、果たして資本主義はうまく機能していると言えるでしょうか。確かにビジネスワールドにおいては、利益を求める活動と、それを活発に個人が行う、あるいは企業が行うということが、中央集権的な国家でもって、国家的な計画に基づいて行うソビエト型経済に比べて遥かに有効である、ということが半世紀ほどの歴史で証明されたように思うんですね。私は、ロシア昔はソ連と言いましたが、に行ったことは2回ほどしかありませんけれども、本当に末期のソ連に行き、それはそれは酷いものでありました。学問に携わる人々はもちろん非常に意識が高い人々でありましたけれども、一般の労働者は本当に悲惨な日々を送っていました。悲惨というのは食べ物がなくて悲惨というんではなくて、労働意欲を失って悲惨という意味です。

 いわゆるソ連の崩壊後、私はエリツィンというのが大統領に選ばれた時代からとんでもないことが起きているって感じておりましたけれども、その頃私はロシアを訪問する機会を得ていません。したがって、その間の人々の興奮あるいは人々の悲惨について自分の肌で感じたっていう経験はないのですけれども、それはそれはひどい悲惨であったと聞きます。本当に人口が激減するほどの飢餓が、国家的に進行していた。それでいて、金持ちはどんどん生まれたわけですね。モスクワの目抜き通りには、ニューヨークにも引きを取らないくらい立派な高級ブランド店が店を並べ、高級品が売られていた。そしてそれを買う人々がいたということです。ロシアでは経済格差がものすごく広がったわけですね。

 そして、そのエリツィンから政権を移譲された、これまた非常に怪しい話であるわけですが、エリツィンのやった政治的な汚職を隠蔽してくれる絶対頼りになる後継者としてウラジーミル・プーチンを選んだわけですね。これはひどい誤りであったということは、ロシアを訪問したアメリカの大統領が、わざわざエリツィンの耳にこっそりとそのことを伝えたということですが、私から見れば、エリツィンは既にそのとき腐敗しきっていたわけで、その腐敗しきっていたエリツィン政権をサポートし続けようとしたアメリカの外交政策、国防政策、あるいはCIA秘密情報工作、そういったものが犯した大きな過ちであると私は考えております。そういう中央集権国家で、本当にそれが崩壊したときに、ボロボロの時代を迎えるわけですね。そのボロボロの時代であっても、学問をリードする本当の一部のエリートたちの意気込みは決してしぼんでいなかった。むしろ社会の仕組みとして全く機能していないものすごい巨大な資本が、自由自在に人々から金を奪っていく有様を、私は側から見て、本当に不安に感じておりました。その後の歴史は皆さんの知る通りでありますが、そのように中央集権国家というところで、学問の発展が脅かされるかっていうとそうでもなくて、むしろ中央集権国家の方が学問に対して非常に予算を割いてくれるということもあり、今でもロシアあるいは中国、全く貧しい北朝鮮でさえ、科学はともかくして技術の発達というのはものすごく目を見張るものがあるわけです。科学と技術は、日本ではすぐ並べて語られることが多いのですが、これをきちっと分けるということが、1人1人の国民に求められる最低限の現代の教養だと思いますが、それについてはまた別の機会にお話ししたい。

 今日は「教育の問題に関して」です。日本が中央集権国家ではなくなったにもかかわらず、従って「国定教科書」というものを通して国民を教育するということを完全に放棄したにも関わらず、日本は義務教育の品質を確保するという名目で、「国定教科書」に変わって「検定教科書」という制度を残したわけです。教科書検定がある国というのは世界でも本当に例外的な少数で、日本もその一つ。アジア諸国はしばしば国定教科書ないしは検定教科書を持つところであります。アメリカのような国では、すごく分厚い教科書をみんな持っていてすごいとかって言う人がいますが、アメリカでは分厚いカラフルな教科書が作られていますが、その教科書を1ページから最終ページまで全部読むというような教育は、全くなされていない。そのほんの一部分を、それぞれの学生あるいは学校の事情に応じて選ばれているだけなんですね。それに対して日本は教科書として書かれたら、その教科書の大げさに言えば、1ページ目から最終ページまで全部学校できちっと教えることが義務付けられている。ですから、教育システムに関して言えば、日本は戦後民主化したと言いますけれども、教科書に関して言えば民営化した、国立会社から民営企業に移ったということである。

 民営企業に対する国家の統制あるいはコントロールが強く働いていると、いかにまずいかっていうことは、通信会社に対して、かつて総務省が、昔は郵政省って言ったかもしれません、そういう行政機関が厳しい統制をしていた。厳しい統制をすることはある意味で、プロトコル・規約を定めるっていうときには必須でありますけれども、経営をコントロールするということは、独占的な企業の独占的な運営をサポートするということになりかねない。実際わが国は携帯電話に関しては皆さんもよくご存知の通り、ガラパゴス状態、まるで太平洋の孤島に浮かぶような、生物の進化から全て取り残された非常に珍しい地上の楽園のような状況があったわけですね。

 私も携帯電話に関して海外の友人といろいろ話すと、とにかく日本の状況は信じられない、そのことに尽きますね。中国や韓国に行くと、携帯電話のあり方なんかも全然違っているのでびっくりします。日本の携帯に関しては、ソフトバンクの殴り込みであるとか、楽天の殴り込みであるとか、いろいろありますけれども、まだまだヨーロッパやアメリカのような状況とは程遠い。実際、日本の携帯電話会社は、NTTドコモ、国際電電KDDI auの大手2社にほとんど牛耳られていて、その隙間にソフトバンクが入り、その隙間に楽天が入り、ということです。ソフトバンク・楽天が最近伸びているということは、状況が変わるということの兆しとしていい面もあるかと思いますけれども、なんでこんな独占が続いてきたのか、これは、日本が結局NTT電電公社といういわば国立企業を民営化しても、国のコントロールというのはしっかりと失わない。そういうことを行政がやってきたからです。

 教科書においてもいわば国定教科書というのは放棄されたけれども、その国定教科書に代わる民営化された会社での教科書出版が国定教科書と同じような、全国一律の基準を守るように、「検定」という制度が設けられていて、その教科書検定というのの規範となるものは、「学習指導要領」というものなんですね。学習指導要領によって「これを高校1年生で教えなさい。高校2年生ではこれを教えなさい。高校3年生はこれを教えなさい。」こんなふうになっている。そして「これを教えてはなりません。あれを教えてはなりません」という上の上限、これもかつては厳しく決められてきました。しかし、国民の大きな声に押されて文部科学省は、学習指導要領はいわば必要最小限のことを書いているに過ぎない。彼らはRequired Minimumという言葉を使いました。従って、「高い水準のものを書くことに関しては教科書会社自由だ」というふうに言いまして、いわゆる教科書の「発展」という項目に関してはいわば検定外、つまり各社が自由に書いて良いと、こんな感じに自由化が大きく前進したように見えました。

 しかし、民営化された会社は、資本主義の厳しい競争の中で戦うわけでありますから、「発展」という項目があったからといって、ここに数学的に深い真理、学生が一生懸命読めば、100人に1人、1000人に1人、あるいは1万人に1人がわかるかもしれないということを書くということは、恐ろしくてできませんよね。マーケットということを考えたら、「1000人中999人は満足してくれるであろう。1万人中9999人は満足してくれるだろう」、そのようなものを市場に提供することによって利益を売るということになりますから、「発展」という項目があったとしても、学問的な発展というのはそこには書かれない。むしろ、大学受験に向けて知っていると得だという、学問的知識というより技術的な知識、どうでもいい知識が書かれる傾向ができているんですね。

 残念ながらこの30年ほどの歴史の中で、文部科学省はすっかり検定に自信を失い、各教科書会社は「発展」というところで自由にできるものの、マーケットのことを考えると、結局入試対応のマニュアル本を作るより本の販路を拡大する戦略が見えず、結局政治と同じように教科書においても、教育という分野でありながら大衆迎合主義、つまり教育を受ける人たちの顔色を見る。子供たちの満足を得るっていうならば立派なことですけど、子供たちが苦しがる姿はこれは喜びに繋がるはずがないから、子供たちが笑顔で教科書に向かえるように、大げさに言えば教科書がカラフルな漫画で書かれるように教科書を作る方向に向かって動いてきてしまっているわけです。

 そういう中にあって、今度の検定学習指導要領で示されたことの中に、いくつかの項目、長年高等学校の数学教育の中の大きな柱であったベクトルの考え方っていうのは、いわば必須範囲から外れる。実際上文部科学省の行政筋から見れば、それをやめるということが決定されたと思います。教科書として具体的に実装されるときにはベクトルがどういう形になるか、それは私の想像もできないくらいわからない世界です。それはマーケットが決めるからなんですね。ご存知のように、ベクトルや行列は、この30年、40年ほど前から30年間ぐらいは重要な主題として教えられ続けてきました。最初は、現場の先生方があんまり慣れてないっていうことでもって嫌われたんですが、大学入試を通じて、2行2列という非常に狭い世界であれば行列の話も十分高校生で消化することができるということで、行列のファンもずいぶん増えたようなんですけれど、大学の立場から見ると、2行2列の行列というのは、あまりにも制約の厳しすぎる世界で大学で勉強する行列はm行n列、行がm個・列がn個ということで、型が遥かに大きいですね。そして実用的に行列を使うときには、縦1万横1万というくらいの行列が出てくるのは当たり前。というのは、実際に使う行列というのは、様々な技術的な計算のシミュレーションに使うわけで、そのシミュレーションでは、立体の構造あるいは立体の実物を網目のような、メッシュ構造という言葉もありますが、要するにものすごく多くの凸面体に分けて、その小さな凸体の間に働く力というものを計算することによって全体の計算のシミュレーションを行う。非常に実用的な学問なんですね。歴史的には難しい数理があるんですけれども、現実には私達はコンピュータを使うことができるようになりましたから、昔だったならば理論的に非常に面倒くさいものが、コンピュータに通しとりあえずやってみようということで、バンバン使われています。

 行列が学習指導要領でなくなったってことでもって、残念に思われている人がたくさんいらっしゃいます。私は、行列がなくなったということを機会に、久しぶりに線形代数の本を書きました。なぜそれを書いたか、いろいろな理由があるのですが、高等学校で行列をやると、2行2列の行列になってしまっている。しかし、行列の本質はその多次元性にあるわけで、せめて3行3列の正方行列であったとしても、それをやらなければいけない。というのは、平面は2次元の世界って言いますね。空間は3次元の世界っていいます。大学以上で学ぶのはn次元の世界ということで、3や2を一般化した自然数nに上げるわけです。けれども、実際に考えているのはn次元と言っても、頭の中で構想しているのは3次元プラスアルファ程度なんですね。ですから、3次元になった途端に、行列は本格的な話になるわけです。2次元に留める限り行列はあまりにも狭い世界であるわけですね。あまりにも狭い世界でわかった気になるというくらいならば、大学で本格的に勉強してほしい。あるいは大学に行ってない人であっても、自分で行列を勉強しなければいけないと思ったときに、行列を勉強するという元気を出してほしいという願いを込めて、線形代数の新しい本を書いたんですね。そしてその最終章は、「n次元より難しい3次元の世界」という章なんです。n次元の空間論をずっとやってきて、最後に3次元に戻るわけです。その構成の仕方、それが私がその本を書く大きな動機となったものなのですが、これは秘密でここで告白するだけなんですが、やはり、2で済む世界で閉じてしまうと終わってしまうところが、3まで広がった途端に急に4,5,6,7そういうふうに大きくなる世界に拡大されるということです。

 私は学習指導要領というのを考えるときに、理想の学習指導要領というのをずっと自分の半世紀をかけて考えてきたように思うのですが、それが結局は存在しない。一番大切なのは、取り組む人によってどんなに深くもできる。どんなに浅くもできる。そういう弾力性のある学習指導要領がいい。「全国どんな数学に能力がある人も、どんなに数学的な能力から疎外されている人も、同じように学習することができる。必須項目はこれである」というような学習指導要領は、拘束性が強すぎてよくない。もっともっと人々が自由に勉強する。人々が必要なことを自分で補う。勉強に対する意欲を掻き立てるような学習、それをエンカレッジする学習指導要領であるべきだという考えに、今から20数年前、放送大学というところに勤めていたときに、「これからの教育は、Teachingとか、Educationではなくて、Learningである。学習Learningにシフトしなければいけない」と。

 「子供たち、あるいは学習者のLearningというのを教える。だから、Teachするということは何を教えるか、How to learnいかにして学ぶかっていうことを教える。これが教育だ。」こういうキャッチフレーズのようなものにであって、ずいぶんいろいろな人とディスカッションして、私も大きく蒙を啓かれたわけでありますが、そのときにキーワードになったのが“Open”ということで、“Open”という言葉は開放的って意味でもあります。開かれているっていう意味でもあります。数学で言うと、“Open Set”っていうのは、一言で定義するのは難しいのですが、非常に重要なもので、いくら先に行っても先がいくらでも広がっている。それが“Open”なのでへりがない。いくらでも先まで進んでいくことができる。“オープン”にはそういう無限に広い寛大さのようなもの、響もあって、“Open Learning”っていう言葉が、私は非常に重要な概念である、と当時確信したのです。

 しかし、日本はこの“Openness”に対して、あらゆる世界でみんなそれを嫌っていますね。みんな秘密し、なぜかっていうと、秘密にしておかないと、ばれると困ることが多いから。ばらす人間がいる方が悪いんですが、ばらす内容がないくらいオープンになることが本当は良いことなんですが、それほど単純でないというご意見ももちろん私もよくわかっていますけれど、あえて言えば、私達は全てのところでできるだけオープンな方向に向かって努力していかなければいけない。

 今回の指導要領に関して言うと、「単元数が少し減った。ベクトルというのが少々残っているけれども消えかかっている。行列というのは完全に消えた」と思いますが、そういうことによって、むしろより本格的な世界への学びの門戸が開かれた、ということです。つまり、今までは高等学校に行かないとベクトルを勉強しなかったでしょうが、小学生からベクトルを勉強したって構わないし、大学生になってから足し算を勉強したって構わない。そういう「FlexibleでOpenな社会に向けて、私達はその基盤をきちっと用意していかなければいけない」と、私は考えるようになったんですね。

 今回「学習指導要領」という言葉に触れて、わが国特有の、国が社会を全部コントロールする、あるいはコントロールしたがる体質を持っている国の中にあって、もう少し風通しの良い社会を見通すために、私達が何を考えなければいけないかということについて、ちょっとヒントになることを申し上げたいと考えました。

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