長岡亮介のよもやま話364「マイホーム主義の幸せという幻想」

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 今回は、私の子供時代を思い出して、今の風潮と何が大きく違い、何が全く変わっていないか、ということについて考えてみたいと思います。

 私が学生時代、1960年代の国際的に学生たちの活発な運動が社会に大きな影響を与えた、少なくとも社会の文化というものに対して大きな影響を与えた時代でありますけれども、その頃学生の口から非難されるようにこと使われていた言葉の中に、「マイホーム主義」という言葉がありました。私自身は、マイホーム主義という言葉を非難する仲間の学生たちの言葉に、マイホームを大切にするという人がいて、なぜそれがいけないのかと思いました。もちろん学問を究める人、あるいは技術を極める人、その人たちが自分たちの生活の中心をマイホームに置くということはありえない。本当に学問が真剣な境地に達しているときには、寝食を忘れて学問に没頭する。世間から言えば集中力でしょうけれども、学問をやっている人間、あるいは学問ではなくても芸術でもそうだと思いますが、本当に自分で夢中になる素材を見いだしたときには、寝食を忘れてそれに没頭する。そのくらいの集中力といいましょうか、平凡な言葉ですが、無我夢中になってそれに没頭する。そういうことが、最大の楽しみであり、それが大きな成果を引っ張り出すことがあるということでありますから、マイホームなんて言っているフニャけた括弧付き「学者」括弧付き「芸術家」、そんなものに良い作品が生まれるはずがない。このことは当たり前だと思います。ある意味で家庭を犠牲にするようなくらい、研究や芸術に没頭する。自己犠牲と人々は思うかもしれませんが、それをやっている本人からすれば、最高に幸せな時間があるわけです。

 ですから、日曜日には子供を連れて遊園地に行く。あるいはもう少し小規模で言えば公園に遊びに行く。そういうような家庭だんらんの幸せというものが、必ずしも本当に一生懸命研究をしている人には無縁の世界であるということはよくわかりますけれども、そういう一部の人々を除けば、産業革命、私の時代には第3次産業革命あるいは第4次産業革命というべき電子技術の発達が進行していた時代でありますから、大げさに言えばサラリーマンは全て職を失う時代でありました。そういうことを考えると、マイホームパパたちは、本当に時間を持て余すような生活に突入したわけでありまして、朝から晩まで働く農民に象徴されるような労働の日々からは自由になったわけであります。自由という意味は決して良い意味だけではなくて、労働の喜びから疎外され始めた時代であると思います、そのときに労働に変わってマイホームというものが大きな価値を浴びてきたということは、私自身は自然なことであると考えておりました。

 当時マイホーム主義というのが徹底して批判される、あるいはそれを表立って批判する人々がいたわけであります。「マイホーム主義からの決別」というような言い方があったわけですが、私自身はそれは一種の時代錯誤であるとそういうふうに考えておりました。つまり、これからはマイホーム主義にしか幸せを見出せない、そういう悲しいサラリーマンの生活が次第次第に増していくんだ、と私はそういうふうに考えておりました。マイホーム主義を批判する人々の基本的な論拠は、「マイホーム主義と言われるものの幸せが他者の犠牲の上に成り立っているということを理解しないで、マイホームの幸せに浸っている。そのことが、人間的に非常に感覚が異常なのではないか」と。まだ本当に多くの貧困と悲惨が日本の社会の中に渦巻いていたわけであります。「その貧困、あるいは差別、そういった日本社会の持つ非常に暗い側面に全く目を閉ざす。もっと言えば、日本社会の繁栄と言われているものが、実は他国における戦争に基づいている。」日本の産業がずいぶん躍進しました。日本製品がアメリカの製造業と摩擦を起こすという現象も起きていました。そういう経済のグローバル化に伴って、日本経済は繁栄しているとは言っても、世界経済として繁栄しているというには程遠い。そういう時代であったわけです。そうなると、「日本の繁栄というもの。これが自分たちの給料のアップに繋がっている。そのことが無条件に良いことであるというふうに受け取っているおめでたい感覚。それを、私達はきちっと意識し、批判する、そういう眼差しを持たなければならない。」というのが私の友人たちの主要な意見であったと思います。そして、その限りでは正しかったと思うんですね。

 今も戦争が続いています。戦争では莫大な兵器が消耗されるわけです。一発何億円というようなミサイルがバンバンバンバン消費される。こんな、何にも生産しない、破壊することにしか意味がないような兵器が消費されて、儲かっている人々がいるわけです。そういう儲かっている人々、ものすごい経済なバブルですよね。そういうところで、お金をたくさん得て幸せになるということが、本当に人間として幸せに繋がっているのか、という問題提起であったと思うんです。

 私の時代には、結婚といっても、今のような働き方改革のような馬鹿げたことはありえなかったわけですね。働き方改革というのは、もう労働がなくなる時代にワークシェアリング、人々が労働というものをシェアして、それによって人々が働かなくなってもいいような世の中に向けて動いていくという。言ってみれば、霞が関官僚の描いた近未来予測に対応する政策であると、私は考えております。

 AIのようなものが進行するにつれて、人間が、一部の特権的なエリートを除いては、仕事がなくなる。そういう世の中であるわけです。そういう中にあって、育休を初めとして労働を減らすという、本当にトップ官僚の描いた近未来に向けて、今動いているということ。そのことを少なくとも理解する。高等教育を受ける人たちは、そういうことがわかるような人であるということが、大切だと思うんですね。

 今や、マイホーム主義は決して否定されるべき言葉ではなく、むしろ褒められる、絶賛される時代の標語になっているんではないかと思いますが、その時代の標語に流されるということが、私は大変危険なことであると思うんです。人間である以上、家庭を幸せにする、あるいは家庭の平和を味わうということは、本当に大切なことであると思いますし、一昔前のような家父長制の家庭と比べると、奥さんが最大の発言者、一番影響力のある発言者となった現代の世の中は、ひょっとすると昔と比べるとよりモダンになったんだと思います。

 しかし、モダン社会の持っている病理に気づくということが、とても大切でありまして、しかも私達が、平和で安穏なそして豊かな生活、豊かなっていうのは私は括弧付きで言いたいんですが、物質的に豊かでも本当に精神的に豊かなんだろうか、人間として本当に豊かなんだろうか。そういうことが心配になることも少なくありませんが、そういう人々の「私が幸せならばそれでいいでしょ」という感覚は、私としては、少し考えものであると。人々が本当に愚かな消費者の1人となってしまっている。そういう現実に対して、たまには昔の言葉を思い出して、人間として何が大切なのか、日々を生きる上で何が大切なのか、ということを考えるのがいいと思うんですね。

 まだ幼い小学生が夜遅くまで塾に通って勉強するということならば素晴らしいことだと思いますけど、小学校の塾で勉強することが本当に大切なことなのか。本当に大切なことならば、私自身が小学生のための塾を開きたいと願います。私自身は本当に素晴らしい先生に小学校の頃習ったので、そのような教育をしたいと思いますけれども、私は塾の教材を見るたびに、あるいはくだらないYouTubeなどの放送の中にこの問題が解けますかっていう小学生のような問題を見ていると、「この問題が何分で解けます」とか、「1分もかかりません」と、そういうふうに解法の易しさを売り物にしているものを見ると、とても悲しく思います。

 人間として大切なことは、与えられた問題を解くことではなく、今まで人が考えたことのない問題を考える。人々が見つけてないことの中に美しい秩序を見出す。そういうことであると私は思うのですが、そうではなくて、まるで与えられた問題をクイズに即答する、そういうふうに捉えることが良いことであるかのごとく言われている。そういう状況を見ると、これはマイホームの幸せでも何でもない。むしろ人間として、大げさに言えば廃人となっていく道、本当は多くの優れた才能を持っていて、その才能を開花させるための準備をしなければいけない時期に、大人たちが作り出した、言ってみれば幻想社会Virtual Realityのようなものを、Real Worldドだと思って信じ込まされている。そういう子供たちは本当に幸せなんだろうかと思います。

 大人の幸せについても同じです。大人たちが労働の喜び、創造の喜び、創作の喜び、そういうものから完全に切り離されて、毎日毎日ルーティンで、8時から5時まで働き、何時から何時か知りませんが、時間になったら定時なので帰ります。こんな生活が本当に幸せなんだろうかと、私自身は思うわけで、半世紀前にマイホーム主義という言葉を批判していた友達の言葉を思い出して、皆さんに送りたいと思います。それは親たちにとって幸せなだけではなく、子供たちにとってもやはり幸せではない、と私は思うからです。

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