長岡亮介のよもやま話363「個人の責任と公人の責任」(talk2/27)

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 私は、電車の中のマナーについて、あんまり小うるさく言う方ではないのですが、時々目に余るものがあって、こういうのはいかがなものかなと。これを解決するためには何かうまい方法はないかな。そういうふうに考えることがあります。

 一つは、最近大きな荷物を持って入ってくるという人で、私自身も海外旅行するときには大きなカバンを電車やバスで移動するときに持っていくことが、若い頃はよくありましたけれど、今は宅急便というサービスが非常に便利になって、人に迷惑をかけずに運ぶことができるようになってきています。そういうサービスがあるということを知らない人々がいるのか、とにかく満員電車の中に大きなカバンを持ってくる。そしてそれが人に迷惑をかけているということに気がつかないみたいなんですね。

 私の子供の頃は、ある大きさを超えた手荷物を列車に持ち込むときには、その荷物代というのが、言ってみれば子供料金みたいな形で、プラスアルファとして課金されたものでありました。荷物を運ぶわけですから、当然それによって得べかりしその人の利益に見合う対価を交通費として払うべきだという考え方があったんだと思います。しかし、列車の普及あるいは電車の普及ということを通じて、いちいち荷物に課金するということが、駅員さんにとっても面倒くさい業務になってきて、もうそういうことは一切無視しようということで、こんにちに至っているんだと思いますが、こういう時勢になってみると、手荷物は大きい人は改札口を通るところで別料金を払うとした方がいいんじゃないか、と思ったりするんですね。そしてその代わりに荷物のある人たちは、その専用の列車、コンパートメントの電車に乗せる。例えば仮に2倍の料金を払う、だから2人分のスペースを使うっていうことを前提にするということです。こういうのは、実際に実践してみようとするといろいろと障害がありうるわけで、私が言っているほど簡単でないかもしれませんが、一つやるべき方向として考える価値があるんじゃないか、そう思います。

 同じことは、電車の中で大きな声で携帯電話で喋っている人。私達はその人たちの会話を聞きたいわけではないんだけれども、否応なしに耳に入ってくる。そういう携帯電話の声の中で、明らかに企業の内部情報について大きな声で喋っている人がいる。聞いている方は困ってしまうわけですね。そういう内部情、報具体的な企業の名前がほとんどわかる形で喋っている人がいる。あまり大きな重要なポジションに就いてない人、しかし有名大企業の下請けみたいな仕事をごしている。本人からすれば、自分はもっと厚遇されて良い、もっと良い待遇を受けていいはずだと。しかし今は冷遇されているということなんだと思うんですが、全く私から見るとどうでも良いと思うようなこと、例えば、相手方に対して、「これは実は内緒なんですけどね」と言って話をする。「内緒なんですけどね」と言って話をするというのは、どういう意味なんでしょう。言っちゃいけないことだったら内緒にすべきなんです。それがいわゆる「コンプライアンス」ってやつですね。

 しかし、たとえ言っちゃいけないと言われていることでも、言わなきゃいけないこともあるわけですね。スノーデンというアメリカのCIAに勤めた人が、長年のCIAの記録を暴露した。これはCIAの職員としてのコンプライアンスには違反するかもしれませんが、アメリカの国民として守らなければいけないアメリカの憲法に保障された言論の自由、そういうものをに照らしてみれば、その上位規定である憲法に許された権利を行使しただけという考え方もあるんだと思うんです。従ってコンプライアンスの問題っていうのは、本当はややこしい話ではあるんですけれど、しかし、「これは言ってはいけないことなんですけどね。ここはここだけで秘密にしておいてほしいんですけどね」と言って相手に言う。相手は、そう言われて聞かされても困ると思うんですね。言わなきゃいけない局面になったら言わなきゃならないだろうし、私が聞いている限りでは大した内容じゃないんですね。自分が転職したいっていうような希望を持っている。今のポジションに不満がある。というだけのことなんだけど、その不満があるということを、しかるべきルートできちっと言えばいいのに。それを、「ちょっと言えない、これは秘密なんですけどね」というふうに、大きな声で言う。すごく迷惑なんですね。不愉快な気持ちにさせられてしまう。

 たわいのない話であっても大声で電車の中で喋られるというのは気持ちのいい話ではないんですが、友達同士で大声ではしゃいでいる子供たちのお会話というのは、たわいないということで済ませることができそうな、そういう全く情報として価値のないものが多いんですが、携帯電話で喋ってる人は、その携帯電話の中身の情報には私から見るとほとんど意味がないんですが、その人の生き方とかを露骨に表すという意味ではすごく情報豊かな世界で、聞き流すことができない。聞いていてイライラしてしまう。そういうような情報であることが多くて、できたらこういう情報は聞かないで済ませておきたかったとそういうふうにつくづく思うんですね。会社の中でのいろいろな人間関係、上司の悪口、部下の悪口いろいろあります。あるいは取引先の悪口。いろいろありますけど、そういったものもできたら私の耳には入れないでほしいと願う。はっきり言ってどうでもいい。そんな有象無象の意見なんか聞きたくない、そう思うんです。

 週刊誌なんかで騒がれている芸能人のスキャンダルなんか私から見ればどうでもいい。しかし、政治家の政治資金に関する違法性のある、しかもものすごく破廉恥な、金を集めたらそのキックバックがある。もう汚職そのものですよね。こんなものについて、公聴会すら開かない。これとんでもないことじゃないですか。こういうことについて私は言論界がきちっと立論し、完膚なきまでに相手の論拠を打ち砕く。これはとても大切だと思うんです。なぜならば相手が権力だからです。

 しかし、吹けば飛ぶような芸能界の芸能人が何であろうと、そんなことは関係ない。芸能人は政治的な権力で生きているわけではない。愚かな大衆の人気に頼って生きている。芸能人の責任を追及しようとすれば、結局大衆の責任を追及することになる。そして、大衆の人気というものに乗って、芸能人を売ったテレビ局とか、マスコミ、その責任になるんだと思うんですね。芸能人1人1人が、大きな責任を負わされるほど立派な教育を受けているわけではない。選挙を通じて選ばれたわけでもない。そして、何よりも大事な点は、収入は高いかもしれないけど、それは彼らが稼ぐ収入であって、彼らの人気によってそれを金にしているだけであって、そのお金を払っているのは一般国民、あるいは一般国民の人気で自分たちの商売をしているマスコミだということですね。そんな人たちの責任を追及して何になるんだろうかと思うんです。

 というわけで、今日私がお話したかったのは、「本当に私達が1人1人が自分自身できちっと責任を持って分わきまえて、行動しなければいけない」ということ。ところで、1人1人がずいぶんだらしなくなっているという面があるのではないか。自分のだらしなさを棚に置いて、芸能ニュースみたいなものに動かされて、政治家の責任というものに、私達は「政治家なんてみんなそんなもんだ」というふうに、諦めているのではないでしょうか。政治家の責任は、私は追及を絶対に諦めてはいけないと思うんです。しかも、政治家のスキャンダルの中で、浮いた話なんて私はどうでもいいと思うんですね。諸外国でも大統領なんかにいわゆるスキャンダルが出たときに、三流週刊誌は叩きますけれども、あるいは三流日刊紙はそれを話題にしますが、一流のジャーナリズムはほとんど無視していますよね。大人の世界だと私は思うんです。

 政治家に求められるのは、家庭人としての清廉潔白さではなくて、政治家としての見識ですね。その政治家が権力を笠に着て、自分の私利私欲のために生きているんだとすれば、とんでもない話ではないでしょうか。そういうふうに公人の責任を追及する。そのためにも私人に対するつまらない責任追及はくだらない、と見るような大人の感覚が必要であり、大人として私達が行動するために、自分自身の行動に気をつけなければならない。そういうふうに思うのですが、いかがでしょうか。

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