長岡亮介のよもやま話359「子どもをかわいがることなら馬でもできる。人間でしかできないことを探そう!」

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 最近の我が国の風潮を見ていると、まるで動物としての本能あるいは生物としての本性(ほんせい)、仏教的に言えば、性(さが)というのでしょうか。それに忠実に生きることが、それ自身が素晴らしいことのように言われていることがちょっと気にかかります。私は自然の中で過ごすことが好きですので、よく山にこもるのですが、そこで植物たちの姿を見ていると、本当に自分たちの生命の性(さが)に縛られているというか、それに素直にというか、ものすごく懸命に必死に生きているんですね。そしてその必死さというのは、他の生命を犠牲にしても、その犠牲をいとわないという真剣さなんです。それぞれの植物に得意の生き方があるんだと思います。

 例えば、私は最近笹のことを憎んでおるんですが、それは私が丹精して育てた植物を全部枯らしてしまうからなんですが、笹というのはいくら憎んでも意味がない。言い換えれば、笹がそこに入ってきたからといって、そこを鎌で切っても笹は生きているんですね。言ってみれば、蟻のようなもので、1匹や2匹蟻を殺したところで蟻のコロニーが死ぬわけではない。笹もそうで、私はよく植物のことは知らないのですが、大工さんを通して聞いたところによりますと、笹は1本の根で全て繋がっていて、生命を断ち切るのは容易でないということでした。そして、私は笹を観察してるうちに、地上に出ている笹は本当に一部であって、笹はその地下にものすごい太い地下茎を生やしており、その地下茎の力強さ、そしてその根で増えるということのメリットを生かして、他の植物の生命を奪っても自分たちがあるいは自分たちの生命体というんでしょうか、それが繁栄するように頑張っている。他の植物は、笹の根のつかないところの隙間を縫って必死に生きているという感じですね。

 私はたまたま笹を目の敵にしましたけれども、パンダにとっては笹は大切な植物ですから、私の言葉は多分に偏見に満ちています。笹に限りません。タンポポであろうと、コスモスであろうと、あんなに健気に私が大好きな植物であろうと、実は自分たちのことしか考えていない。そういう植物の本当にえげつないまでに利己的な態度っていうのは、ある意味で植物の本能というものを私達にあるいは私に考えさせる上で、とても印象的です。植物・動物は全てそのような本能に突き動かされて、本能と言っていいのかどうかもわかりませんが、生まれ持った命の性(さが)、それに縛られて懸命に生きているんだと思います。

 最近私は変だと思うのは、「人間もそういう性(さが)に従って生きることが素晴らしい」というような議論が出ていることです。私に言わせると、人間の人間たる所以は、人間としての動物としての性(さが)、それから少しでも独立しようと思う、そういう心ではないかと思うんです。私達は、動物は全てだと思いますが、子供が生まれると子供のことをすごくかわいがりますね。鳥の本当に大脳が発達してない鳥でさえも、獣に自分の子供が襲われそうになると、自分の方にその獣を呼び寄せて自分の子供を守ろうとする。「親子の愛が深い。素晴らしいな。」そういうふうに褒めたたえる人がいるのですが、私は、それは所詮本当に子供がかわいいと思っているというよりは、種族を維持するための生命の性(さが)、いわば創造主によって植え付けられた生命の基本的な倫理なんだと思うんです。

 人間の人間たる所以は、そのような動物としての生命あるいは生命としての生命、その倫理に反してでも、「人間として生きたい。人間的に生きたい」ということではないかと思うんですね。代表的なものとして、私は私の師匠から伺った言葉を受け売りで言いますが、「子供がかわいいっていうふうに思う。子供をかわいがる。それは、馬でも鹿でもサルでも豚でもできる。そしてみんなそういうふうにやっている。しかし、自分の親のために一生懸命頑張る。年老いた親のために努力する。それができるのは人間だけだ」という言葉を私は伺い、そのときにその言葉の持つ普遍性は考えるに至らなかったのですが、そのように例えば、年老いた親をいたわる、年老いた親に感謝するという気持ち。その気持ちは極めて人間的なもので、他の動物あるいは植物には見当たらない。他の動物は、自分の先祖の死を自らの栄養としてさえ生きていく。そういうたくましさを持っています。人間は不思議なことに、自分の年老いた親あるいは祖母、祖父そういうものに感謝する気持ちを持っています。それを道徳の名で教えた時代がありますけれども、私はそれは道徳として教えることではなくて、人間の持っている人間的な感情のものすごく深いところにあるもので、教えてわかることではなくて、「人間性に目覚める」という経験が、その教育を可能にしているんだと思います。

 しかるに、今世の中で様々な職業に世襲のような、まるで中世の封建制度の歴史よりももっと悲惨な世襲制のようなものが世の中に跋扈していまして、そのことについて疑問に思う人がほとんどいない。私は、例えば相続税というものに対して、相続税は100%にすべきだという過激な思想を子供の頃持っていました。それは相続には親が築いた財産を子供が相続する権利はない。そういうふうに単純に考えていたからです。しかしながら、今私は相続税に関して言えばもう少し減免すべきである、とこういう考え方です。それはなぜかというと私が住んでいる東京では時価が高くなりすぎたせいで、良い大きな家、立派な家に住んでいる人たちは、その立派な土地、家を処分して、兄弟で分配する、あるいは権利を持っている関係者の間で、民法の定めるところに従って分配しなければいけないという義務がありますから、処分しなければいけない。処分するとその立派な家の代わりにマンションが建つ。マンションが建つのはまだ日陰の問題を除いてはいいかもしれませんが、私にとって残念なのは、それが小さな、非常に悪徳不動産屋が分譲するアパートになっていってしまうことです。森のような庭がなくなり、夏そこを通るだけでひんやりとした風を感じることができるという経験を奪われ、本当に地方から出てきた数年しか住まないような、町に対して何の責任感を持ってないような、アパートの住人がカラスの餌を放置していく。そういう町になっていくということに対して、これは少し相続税を減免しても立派な家を守った方が国民全体の利益になるのではないか。そういうふうにちょっと異なる視点から見るようにもなりました。

 しかしながら、私は、相続税に関してそのように少し見方を変えていますけれども、政治家にしても、あるいは役者にしても、タレントにしても、2世というのは最低最悪だと思いますね。親の七光りというのは最も恥ずべきことなのに、その恥ずべきことをマスコミがこぞって持ち上げる。なんていうことでしょう。こんな、無教養な不道徳な時代の中に生きる若者は、本当に不幸だと思います。そういう若者に、フランス革命の宣言、あるいはアメリカの独立宣言、それをぜひ読んでほしいと思います。私達の近代社会は、封建制度、長く歴史を持つ伝統的な保守観をあえて捨てて、新しい道を歩み出したわけです。その勇気ある一歩を踏み出した人々の声に耳を傾けてほしいと思います。そして、偽の政治家あるいは3世の政治家というのもいるみたいですけれども、幸いなことに至誠は遺伝しないということがどうも証明されているようで、全く世の中は公平であるなと思います。

 いろんな芸能の世界にしても芸術の世界にしても、2世がはびこるこの世の中は完全に堕落しています。そして、何かスキャンダルを起こすと、最近も芸能事務所の大手が大きなスキャンダルで大騒ぎをしたそうですが、私はその芸能事務所のことを騒ぐ前に、その芸能事務所に頼ってドラマを作ってきたテレビ局や会社の責任はなぜ問われないのか。そのキャストをしたプロデューサーの責任はなぜ問われないのか、と言いたい。そして同時に、そのようなつまらないプロデューサーがプロデュースしたもの、それをありがたがって見ていた私達国民は、そして1人1人の責任は、なぜ問われなくて済むのか。私達自身が彼らを育ててしまったのではないか。私は痛恨の思いで、そういう報道に接しています。と言うとちょっと言い過ぎで、私はほとんど聞きかじっただけでありますから全容知りませんが、要するに本当にくだらない世界を私達は許してきた。私達1人1人が許してきたということです。私達が追求すべきなのは、他人の責任ではなくて、自分自身の責任であるということを、特に若い人々にわかってほしい。

 そういうことも、私達世代が私達の次の世代を十分責任ある大人として成長させるということに成功した、とは到底言えないからであります。私達は、次世代が、私達が味わったような不幸ではなく、もっともっと幸せに充実した人生を生きられるように、苦労を取り除くということに、もっぱら忠心してきました。しかしながら、本当に大切なのは、子供たちに苦労をさせる。子供たちに辛酸をなめさせる。その辛酸を通して、子供たちが人間として成長するということであるのに、私達は子供たちから、言ってみれば、障害物競走をするのに障害物をあらかじめ取り除いてやるというような、親切の押し売りをすることで、次世代を育ててきたのではないか。そういうふうに責任を痛感しているだけに、若い諸君に対して、あえて厳しい言葉を送らなければと自分自身を奮い立たせて、こういう話をさせていただいていることをご理解ください。

 一言で言えば、例えば、子供をかわいがるということは、豚でも猿でも馬でも鹿でもできることです。しかし、「私達は人間として、馬や鹿や猿や豚ができないことをする特別の能力を与えられている」ということに感謝するとともに、「その与えられたことに対して応える義務を負っている」ということを忘れてはならない、と思います。私達は動物的な本能だけで生きるということを、恥ずかしいこととして捉えるくらい、極端な発想もときには必要ではないか、と私は思います。

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