長岡亮介のよもやま話353「男と男の約束に相応しくない近頃の男たちの惨めな生き方について」

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 昔から使われてきた日本語に比べて、最近の日本語がひどくおかしい。テレビのアナウンサーが喋る言葉がそもそも日本語として正しくない、というようなことに大変憂いを感ずるという話をしばしばこのよもやま話でして参りましたが、伝統的な表現の中にもおかしいものが少なくないということに時々気がつきます。伝統的な表現の中には、昔の封建社会の色彩を未だにとどめているものが少なくない。ある意味で、権力ある者が権力のない者、弱き者を差別的に取り扱う言葉あるいは表現が少なくないと思うんですね。権力者が弱い者に対してって言いましたけど、実は本当に情けないのは、権力者でも何でもない者が、本来は差別された階級にあるものが、そのより弱い立場の者に対して差別するときの言葉だと思うんです。人間が、自分が弱いくせに、自分より弱い者を見つけて、自分が最下層でないということに満足する。これは、人間の持っている最も品性卑しい感情だと思うのですけれど、私達はできればそういう感情を克服する品格というのを持ちたいと願っておりますが、私自身が使っている言葉の中に、そういうものが含まれているということを最近発見して、驚いたり喜んだりしております。今回はそれについてお話したいと思います。

 それは「男と男の約束」という表現です。「男と男の約束だからね。それを破ったら大変なことになるぞ。」それは、場合によっては命を失う。そういうことになりかねない約束だぞという意味で、「男と男の約束」というのですが、男であるというだけで、約束をきちっと守っている。そういう昔であれば「男らしい」という表現にふさわしい男性が、一体今の世の中にどれほどたくさんいるでしょう。もちろん立派な男性がいることは、立派な女性がいることと同様に確からしいわけでありますが、ほとんどの男性は今、この産業革命の嵐の中で自分の居場所を失って、ほとんどが言ってみればつまらない労働の中に、自分の生活の糧を見出すために、よく言えば必死に、悪く言えばなりふり構わずその中で少しでも良いポジションを得ようと努力している。情けない社会の中で最も情けない存在に成り果てている。そういう男性の姿を見ることがやはり最近少なくありません。電車の中での会話を聞いてみても、結局のところ、上司の悪口、部下の悪口、そして自分の仕事が自分は本来できるはずであるのにそのことが評価されないということに対する不平不満、そういうことを電車の中で嫌というほど耳にする。そんなことを言うくらいだったら、もっと自分で率先してやれよ、部下の悪口を言うんだったらその部下は切り捨てて自分でやれよ。僕なんかはそういうふうに思ってしまうんです。

 最近の働き方改革と言われる働き方改悪ですね。人間性を踏みにじるような行為、タイパとかコスパとか言われる若者たちに迎合するような政策、それが働き方改革の名のもとに進行しているような気がして情けないと思います。私はやっぱり男性に限らず女性であっても、働くということが自分の大切な人の役に立っているということが生きる喜び、大げさに言えば生きることの最大の意義を見出す最も大切な人間的な行為、人間的な活動だと思うのです。その生きがいが全くない「時間になったから帰ります」というようなものがもし人間の労働であるとすれば、本当に情けないことではないでしょうか。そして帰って何をするか、コンピューターゲームをする。あるいは電車の中で本当にいい年の人が夢中になってやっている、なんかつまらないブロック崩しのようなゲーム。そんなもののために時間を費やしているということが、何と情けないことであるかと、私は思うのですけれども、皆さんはいかがでしょうか。ゲームをしていて楽しい。それはそうかもしれません。刹那的な楽しみはあるのかもしれません。しかし、それはその一瞬の刹那を本当に大切にしていることなんでしょうか。

 例えば、皆さんがあと1時間で死ぬということが運命づけられた。それがはっきりしているときに、皆さんはコンピューターゲームに夢中になるという生活を送るでしょうか。あるいはアニメーションを楽しむということに、皆さんの最後の一瞬をかけるでしょうか。きっとそうではないと思うんですね。皆さんはもっともっと自分のやりがいのある仕事、やらなければならない仕事、完成しなければいけないのにまだ未完成である仕事そういうふうに、きっと夢中になるに違いないと私は思います。私は、人間というのは本当にそのように人のために働く。自分じゃなければできない仕事があったときに、そのために努力するということに一番の喜びを感ずる。そういう動物なんだと思います。人間以外の動物がどうであるかっていうことは私にはあまり興味がないので、そのことについてはどうであるという判断はしませんが、しかし、人間はそういう動物であるに違いないと私は思います。

 その証明は歴史の中にあると思うんですね。皆さんが歴史というと権力者の攻防の歴史ということしか関心がないと思いますが、私が歴史というふうに言うときには、人々の暮らしてきた証、あるいは特に偉大な人が努力した人生の証であります。偉大じゃない人たちも、きっとその偉大な人生を見習って、自分たちもそういう人生に少しでも接近しようとしていたに違いない。これは憶測っていうふうに言われるかもしれませんが、そうであるに違いないというふうに私は思っているんですね。なぜならば、そういう人々の支援がなければ、偉大な人の偉大な人生も、生きることができなかったからである。そういうふうに私は思うからであります。

 もし人生がそういうものであるとすれば、今の特に男性たちが被っている人生の強いられた生き方、これを見るととてもじゃないけど、「男と男の約束。自分の人生の生死をかけた、自分の生きがいをかけた人生」を日々生きているというふうに到底思えないわけですね。一昔前の表現をもしここで使うことを許していただければ、まさに「男性が女々しい人生を生きている。」自分の責任をできるだけ回避し、自分の収入だけは何とかかすめ取って、楽な人生を上手に生きていく。それが自分の人生だ。そういうふうに思っている男性が少なくないんじゃないか。およそ新渡戸稲造が武士道といったような生き方とは正反対の生き方を男性がしている。いささか大衆的なレベルになるかもしれませんが、山本周五郎が描くそういう武士の人間的な生活、その人間的な生活の中に誇りが中心であったということが、山本周五郎のような大衆小説を読んでも、私達が心がホロリとするという最大の理由ではないかと思うんですが、もうそういう誇りを失い切った、本当に愚かな大衆の1人としてうごめいて、そのうごめく蛆虫の中で、自分が得する生き方をしている。そういう情けない男性を見ると、もう早く自分の人生を終えた方があんたの人生を少しでも輝かしいものにするために良いことではないか、と余計なアドバイスをしたくなるくらい、男性たちがだらしない生き方をしていますね。

 そういう中にあって、「男と男の約束」という古い表現を思い出したんですが、その古い表現が全く通用しない。「男と男の約束」が言ってみれば、ずる賢い人生の生き方、Win-Winの関係を樹立しましょう、というような情けない生き方になっている。前にWin-Winの話をしましたが、「自分たちだけが勝てば良い。」こんなのは「男と男の約束」の正反対にある最もみっともない生き方であるということを、私達は今、昔の表現の中にちょっと感ずることができる。その表現が、もうボロボロになってしまった現代にあって、実は昔の表現がボロボロになったんではなくて、私達の人生がボロボロになっているということを気づかされる表現だとすれば、やはり改めてその言葉の持っている大きな意味というのを考えることも重要ではないかと思い、このお話をさせていただくことにいたしました。

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