長岡亮介のよもやま話352「難しいことを簡単そうに語る虚偽。簡単なことを難しそうに語る詐欺。例えば指数関数」

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 わかりやすいということについて、そもそも理解とは何かという根源的な問題を提起することによって考えるということを、前回お話させていただきました。「理解の発見ということである」ということでありましたが、発見ならばどんなことでも結構難しいことですよね。そして、その発見を少しでも多くの人にやってほしい。そういうふうに願う気持ちは私も決してその例外ではありませんが、「発見の喜びを奪う。発見なんて大したことがなかったんだよ」というふうにしたくはないと思うんですね。つまり、どんな小さなことでも「発見した。それが嬉しい」という喜び、発見の喜び、これは本当に天才的な科学者たちだけが味わう喜びではなくて、小さな規模であれば全ての人がその喜びに預かることができる。そういうものだ。人間として生まれたことのいわば恵みである。本当に大切なことである。これが前回のポイントでありました。

 ところで世の中には、単純なこと、素朴な事、幼児でもわかること。そういうことも少なくありません。本当に複雑なこと、深遠なこと、あるいは囲碁の言葉で言うと幽玄と言いますが、人間の理解を立ちふさがるような難しい世界があるのも事実でありまして、わかるといっても、本当に簡単にわかることとえらく大変なこと、それがあるわけです。数学でも非常に深い理実をしっかりと理解するということは、難しいことでしょう。

 数学における神秘として、庶民の間で大変に有名なのは、$e$ という定数がありまして、実数としては2.7182…という無限に続く小数であるわけですね。いわゆる超越数と言われるものなんですが、その $e$ という数は数学において非常に重要な性質を満たすわけです。$e$ という性質の満たす最も面白い性質は $e$ という定数を底とする指数関数 $e^{x}$、$e^{x}$ を微分すると、また元の $e^{x}$ になるという性質なんですね。実は、このような性質を満たすことをもって、$e$ を定義していると言ってもいいわけなんですが、指数関数という言葉が出たついでに、一般に $2^{x}$ とか $3^{x}$ あるいは高校生ふうに言えば $ \left(\frac{1}{2}\right)^{x}$、$ \left(\frac{1}{3}\right)^{x}$ いわゆる指数関数の底と言われる数が1より大きい場合と、0と1の間にある場合とでグラフが違う。こんなことを高等学校で偉そうに教科書に書いてあることなんですが、この事は難しいことでも何でもなくて、実は馬鹿みたいに簡単なことなんですね。本当に指数関数で理解しなければいけないことは、本当に難しいことは、実は $2^{x}$ であろうと $3^{x}$ であろうと、私がさっき引用した $e^{x}$ であろうと、あるいは $y= \left(\frac{1}{2}\right)^{x}$で あろうと $y= \left(\frac{1}{3}\right)^{x}$ であろうと、およそ指数関数と言われるものは全部グラフは同じようなものだということなんです。指数関数は本質的に1種類しかない。底の違いによって、グラフがちょっと変形されるだけだというだけなんです。そのことは、おそらく高校生にはすごく高級なことでしょう。この高級な、高校生にとってわかりづらい事実。それをわかるという楽しみは、高校生にとっておいてあげたい。その感動を味わうために、その問題を提起して、高校生に「考えてごらん」と言うのはとても大切ではないかと思います。

 わかりやすい例として、$y=2^{x}$ と $y=4^{x}$、そういう例をとると高校生でもわかるのではないかと思います。$y=2^{x}$ と $y= \left(\frac{1}{2}\right)^{x}$ が、$y$軸に関して対称になるということは、今述べた性質の特殊な性質にすぎませんですから、これは言ってみれば、記憶する価値がない。考える価値も怪しいレベルのことなんですが、なんと検定教科書には $y=a^{x}$ というふうに指数関数を一般化して、$a$ が1より大のときは右上がり、$a$ が0と1の間のときには右下がり。こんなことが堂々と書いてあります。私は、ものすごく簡単なことを、このように分類してきちっと覚えなければいけない基礎知識であるかのようにするということは、礼儀に反していると思うんですね。本来、簡単なことは簡単に済ますのが、当たり前の人としての礼儀作法であるわけです。簡単なことをわざと難しく言ってみる。一部の人にありがちなのですが、専門用語を使って、「私達専門家はわかっているから」という調子で喋る人が、残念ながら時々存在します。

 けれども、言っていることはごく簡単なことでありますね。「今日は気温が何度になりますから、5月並みの暖かさです。」それを言うのに、今日は最高気温が何度になりますからと、摂氏で表現することにどんな意味があるんでしょうね。「今日はとっても暖かくなります。これは平年で言えば5月ぐらいの暖かさです」というのはいいですけど、今日の最高気温は何度になりますと言ったからといって、何もわかるようになりません。それは摂氏という温度のスケールで表現しただけのことであって、人間の体が感じる温度、暑さ・寒さというのは、別に温度計の温度の指標とは、私は違うと思うんですね。人間は蒸し暑い、肌寒い、そういう言葉でもって、私達の感ずる気温を感ずることができる。それを、温度計という科学的な装置、一応非常に素朴ではありますが科学的な装置なんですね、その装置で測った値でもって、私達の感じる感じ方が変わるわけではない。天気予報士もよく言うように、「今日は風が強いので、体感気温はもっと冷たいでしょう。」体感気温、私達が感じる体感気温こそが私達にとっての気温であって、百葉箱の中で測られる科学的なデータを集積するためのものは、私達の感じる暖かさ寒さの基準になるわけではありませんね。「今日は風がすごく強いので、とても寒く感じるでしょう」と言えば済むだけの話ですね。それを体感気温という、一見科学的な言葉に置き換える。そういうことが私は不潔だというふうに思います。もっとわかりやすい言葉で言うべき言葉を、わざと難しく語っているということです。

 同様のことは、降水確率というような言葉にも表れていると思いますが、ちゃんと数学的な定義をするならばともかくとして、これが数字として1人歩きするというのは、一般の人々にとってわかりやすいものではないと思うんです。簡単なことは簡単に済ます。「今日はとても雨が降る確率が高いので、傘などを用意すること」など、それに対して「対策に心がけましょう」という言葉、これは大切だと思いますが、「今日は降水確率が50%ですから、雨が降るか、雪が降るか何とも言い難いですね」と言っているに過ぎないことを、「今日は降水確率が50%です」。一般の確率論を理解してない国民は、そのような科学的な表現を理解することができるのでしょうか。簡単なことは簡単に済ます。これは、科学者が情報発信する上での義務だと思います。

 教師もそうですね。簡単なことは簡単にします。しかし、簡単に済まないことを簡単に済ます。これは、私はごまかしだと思うんですね。そのごまかしであるということを教育上はやむを得ないことであるというふうに理解して、ここはもう自分を裏切ってでも、そして相手を裏切ってでも簡単に済まさなければならないと思う先生がいらっしゃれば、私は特に小学校の先生にはこの種の非常につらい任務が課せられているんだと思いますが、子供相手のものですから、できるだけ子供がわかる言葉で簡単に済まさなければならない。先生としては辛いんだと思います。先生は100知っているうち、子供たちにはその100の中から凝縮した1のエッセンスを子供にわかる言葉で表現しなければいけない。これは本当に大変なことだと思います。こういうごまかしを、先生はときには心を鬼にして言わなければならない。言ってみれば、教育上で許される、あるいは教育に迫られる「嘘」、それを自らの責任において行うということですね。ひどい言葉で言えば、一種の詐欺、その詐欺行為を、「これは詐欺である」ということを自覚しながら行うことは、誠実な先生にとっては本当に辛いことだと私は思いますが、子供たちの愛ゆえにあえて自分が詐欺師を演ずる、そういう厳しい職業が小学校の先生であり、その程度の差はありますが、中学や高等学校、あるいは大学の教員にもそういうものが求められているだと思います。

 そういうわけで、簡単に済まないことを簡単に済ますというのは一種の虚偽、あるいはごまかし、あるいはそれをきちっと自覚的に行う詐欺、と言ってもいいわけですが、多くの場合は、無自覚にごまかしている。つまり、自分が、それが難しいことが、そこに難しい真理が潜んでいるということを理解せずに、「この問題はこう解けばいいんだよ」というふうに、表面的に教えることで済ましてしまう。こういうことが多いんじゃないかと思うんですね。所詮子供相手だ、所詮高校生だ、所詮大学には入ってない幼児である。大学の立場から見れば、高校生の勉強している知識は言ってみれば子供の数学であるわけですから、そんなに難しいはずがない。そこでつまずく子供たちがいれば、その子供のつまずきを取ってやろうと思うこと。それが大切なのかもしれませんが、私に言わせれば、高校生くらいになったらつまずいたときこそ学問的な精神に目覚める絶好のチャンスなんですね。つまずきは、その人に与えられた天の恵みなんです。せっかくつまずいたら、そのつまずいたことを人生のバネにするように生きてってほしいと思うのですが、そのつまずくのは子供たちのやる気がないせいであるから、やる気を引き起こしてあればつまずかないようになる。そういうふうに考えている人が世の中にいるみたいですね。

 私が最近見た吊り革広告では、「やる気スイッチオン」とかっていう言葉がありました。勉強がやる気だけで、何とでもなる、そう思っているんですね。それは多くの初等的な勉強、馬鹿みたいな勉強、それはやる気になれば誰もできるものです。そして、やる気になるということはとても大切なきっかけではあるけれども、やる気というのは、決して「これをやれば君の成績が開け、良くなり、君の人生の未来が明るく開ける」そういうふうに競争意識を煽るということではなくて、実は難しいと思っていたちんぷんかんぷんでわからないということの中に、面白いことがあるということを発見する。そして、実は勉強が楽しくなる。というのが、人類の多くの人たち、本当に立派な天才的な科学者たちから平凡な市民までもが同じように扱ってきた理解の喜びなんだと思うんですね。その理解の喜びの舞台を用意するということは、教育でとても大切なことだと思います。

 それは、「すぐにわかる。楽にわかる。簡単にわかる」ということは全く違う。「自分たちの今までモヤモヤしてわからなかったことの中に、実はすごく深い真理があったんだ。自分たちがわからなかったことには大きな秘密が隠されていたんだ」ということを発見すること。これが「わかる」ということではないかと思うんです。でも先ほども言いましたように、幼児を初めとして、教育にはこの種のごまかしというのでしょうか。本当に子供たちがわかるまで待つというよりは、とりあえずみんなの輪の中に入って、手を繋いで遊ぶ。そしてわかった気になるということで喜びを感じる。そういうようなレベルもあるんだと思うんです。でも、そのようなレベルでわかることは、その幼児の理解にふさわしいことであって、それが小学生にもふさわしいことか。小学校高学年の生意気な子供にふさわしいことか。中学生の反抗期あるいは青年期、思春期となった子供にふさわしいことか。高校生のように、もうちょっとで一人前になるという青年に対してふさわしいことか。それは考えれば、誰でもがわかることではないかと思うんですね。

 皆さんにわかりやすい例を一つ挙げましょう。カンナという道具があります。木材を削り出す装置ですね。日本の建築でも西洋の建築でも重要なものですが、日本のカンナってというのは本当に素晴らしい道具ですね。本当に素晴らしい道具ですけど、それを使いこなすためには修行が必要です。カンナの刃を取るということ。これ1個取っても容易なことではありません。しかし、上手にカンナをかけるというのは、立派な大工さんになるためには必須不可欠の技でありましょう。その技をマスターするということ。漢カンナを綺麗にかけること1個取ってみても、すごく難しいことであり、長年の修行を経て、初めてカンナなんかはスルスルと簡単にかけられるもんだってという境地に達するわけですね。私は身近に大工さんがいるので、カンナをいじらせてもらうことがいっぱいあります。しかしながら、カンナを上手にかけることはわかりません。カンナの原理は、物理的にはすごく単純だと思います。しかし、カンナを上手にかけるための、大工さんに言わせればコツ、それはカンナの心、木の心を理解するための経験であり、その長い経験から、その場にふさわしいカンナのかけ方を発見するための知識の集積であります。そして知識の集積といっても、たくさん集まった知識の中から、その中で適格なものを何か選び出すということではなく、瞬時にしてその正しい知識だけを、当たり前だと思って見抜くようなベテランの力ですね。ですから、その大工さんが私に言うんですが、「私はカンナのかけ方がなってない。それはカンナの気持ちがわかってない。木の気持ちがわかってない。」そういう言い方はしてくれますが、「それ以外の難しいこと、これはカンナをかけることによって覚えるように仕方がない。」そういうふうにおっしゃるんですね。まさにそうなんだと思います。そういうふうに、言ってみればものすごい数多くの経験を通して、本当に言葉にできないようなものすごい深い知恵を身に付けるっていうことですね。簡単には教えられるわけがないと、私は思うんです。

 今、非常に単純な大工さんの技術の話をいたしましたけれども、それを「カンナなんか簡単です。手で持って、上から下に向かって引けばいいんです。そのときに適切な力を下にかけることが大切です。同時にカンナを勢いよく上から下に向かってかけることが大切です。」そんなふうに言葉にしたところで意味がありませんね。また、サンテグジュペリの言葉を引きますが、本当に大切なことは目に見えない。これが、サンテグジュペリの言葉でしたけど、私は本当に難しいことは簡単にはわからない。そういうふうに、モディファイしたいと思います。本当に大切な難しいことは、容易にはわからない。しかし、その大切な見えないことを理解したときの喜びの大きさは、これは想像もできないということです。

 私達はその喜びを求めて、生きているんだと思うんですね。年をとるにつれてだんだんだんだんできることが増えてくるその喜び。皆さんから見れば、私のような年寄りであって、腰も曲がって運動もできなくなった、テニスさえできなくなったということは悲しいです。山登りとかテニスのような私の最大の楽しみが奪われてしまったというのは悲しいことですが、そういう否定的な限界を背負ったことによって、若い人々に向けてこのようなメッセージを書く機会に恵まれた。そして、そのことは私にとって大きな喜びであり、人生を生きる生きがいの一つです。若い頃、人に向かって黙って喋るなんて破廉恥なことだと、そう思ってとてもやる気がしないことでありました。でも今、このことを私は日々の喜びとしています。考えてみると、人生には無駄がないということ。これをもう一つの言葉として皆さんに送りたいと思います。それがなぜかということについては、ちょっと話が長くなりますので、また別の機会にいたしましょう。

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