長岡亮介のよもやま話351「『わかる』とはどういうことか?近年の風潮について」

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 今日は、非常に簡単な問題を提起してみたいと考えています。それは、人々が平気で使う「わかる」という言葉の意味についてなんです。わかるということは大切なことだと思われているようで、「わかることを援助する。あるいはサポートする」といういわゆる教育ビジネスが、わかるということをうたい文句に宣伝を平気で書いています。私はそのような宣伝文句を書いている教育サービスにはまず引っかかるべきでない、と私の第1巻は教えます。そのことについてお話したいということです。

 「わかる」とはどういうことでしょうか。それは、何か今までよくわからなかったモヤモヤとしていたことがはっきりと自分でわかった気分になるということですが、「わかる」ということは、本当のところなんでしょう。私の定義では、「わかるとは、すなわち理解を自ら発見することである」と。わかるということは、自分自身で行う発見でありますから、人にわからせてもらうことはできない。私は昔、日本語の動詞、例えば“見る”というのは、“見ない”“見るとき”“見る”“見れば”“見よ”とかっていう命令形がある。“見よ”とか“見ろ”とかってやつですね。他動詞に対しては、その命令形が大体非常に簡単に作る。“投げる”っていう動詞であれば“投げろ”と。“放棄する”っていう動詞であれば“放棄しろ”。そういうときには命令形があるんですね。普通他動詞だと命令形があるというふうに思いがちなんですが、「わかる」、英語だったらunderstandっていう言葉だと思います。このunderstandっていう言葉は、ドイツ語のverstehen(フェアシティーヌ)、まさに英語のunderstandと同じなんですね。「下に立つ」っていう、「アンダー、スタンド」ということですね。understandあるいはverstehenっていう言葉の元々の語源は、「物事の背後に潜んでいる原理のようなものを、言ってみれば、その現象の基盤からして理解するということ。」あるいは、「その人のことがわかるっていうことは、その人を支えるような普遍性を獲得して、その普遍性によってその人のことを理解するということ」なんだと思うんですね。

 このように「わかる」という言葉を使うならば、「わかる」というのは大変に困難なことであって、まさに理解の発見であると思うんです。そして、そのような理解の発見であるとすれば、わかるという動詞に「わかれ」という命令形は、文法的にはともかく内容的な意味を考えると、ありえないというのが私の考えです。最近は、「わかり合い」とか、訳のわからない日本語を流行らせている霞ヶ関の省庁がありますけれども、私自身は全くのナンセンスとしか言いようがない。友達同士で話し合ってわかり合いましょうと。そんなことでわかり合うということは、ごく表面的なことでしかない、と私は思います。私達は「わかる」ということに対しては、本当に自分自身を否定するような努力、「自己否定」の努力、自己否定という言葉がわかりづらければ「自己変革」の努力、つまり人のことがわかるためには、「自分自身がより普遍的な存在として変わる」っていう、「わかるということは変わるということ」、それを含んでいるというくらい困難なことであって、簡単にわかることは実はくだらないことでしかないと思うんですね。難しいことがわかるということは、本当に大変なことです。

 そして、その難しいことこそわかると、すごく嬉しいわけですね。なぜ嬉しいか。それは、その人自身が自分自身、新しい自分自身とであう喜び、あるいは自分自身が異なる新しい大きな自分に成長したことを見出す喜び、発見する喜びであるからです。ですから、わからない、わからないということが悩みの種になることがよくありますが、それは周りの人が早くわかることが大切だというふうに急き立てているからだと。そうではないかと私は思うんです。別に席立てられてわかるものではない。第一、本当に深いことがわかるためには、長い長い思索、孤独な思索が必要なわけで、そのような孤独な思索に耐えることっていうのは、決して生やさしいことではないと私は思うんです。だからこそわかることが楽しいし、わかることが貴重だと思うんです。

 最近の風潮は、どうもそのわかるということがわかっていないんではないかと私は思うんですね。びっくりしたのは、すぐにわかるとか、それをキャッチコピーのように使う人がいる。すぐにわかることはすぐにわかることでしかない。くだらないことを、それをわかる、わかると言って教えているということだと思いますね。簡単にわかる。これをキャッチコピーにしているというのも、簡単にわかることを簡単に教えているだけ。要するに教育の嘘と私が時々言うところのものです。しかし、そのような簡単なキャッチコピーに人々が引っかかるのは、おそらくわかるという体験を本当に味わっていない、あるいはわかるという体験を味わう舞台がその人たちに用意されてこなかったという、それまでの周りの人々のいわゆる教育サービスが、そういう詐欺まがいの教育サービスの被害者を作り出している。被害者っていう、いささか強い言葉を使いましたけれども、本当にわかるということは、人間じゃなければわからない本当に深い喜びで、その喜びの絶好の機会を失わされているとすれば、被害者という言葉はあながち誇張ではないと理解していただけるのではないかと思います。どんなに小さなことでも、本当にわかるということは難しいことで、この「わかる」ということを、多くは先人の英知のおかげで、私達は先人が切り開いたものすごく難しい境地を簡単に手に入れることができる。そういうふうになっているわけでありますけれども、それであっても、深い英知に私達自身が目覚めるということは、大変なことだと私は思うんですね。

 私達は生まれてきたときにはやっぱり普通の哺乳類の猿とか豚とか犬とか馬とか、そういうのとあんまり変わらないんだと思います。しかし、人間は赤ちゃんの時代に恐ろしいほど、びっくりする成長を遂げる。そしてその後も、赤ちゃんのような急速な成長ではないけれども、知的にどんどんどんどん成長を遂げていく。そして特に青少年の時代に得る知的な体験の蓄積というのが、大人という責任ある人間をつくるために必須のものである。これが、人類の歴史が獲得した知恵でありまして、近代社会において学校という制度によって、教育の機会を全ての人々に開放する。公平に与える。これがとても大切だという教育の理念に、私達人類が目覚めたことというのは、とても重要なことではないかと思いますが、その公教育のサービスが行き渡りすぎてしまったために、その公教育のシステムにうまく乗れない人々を作ってしまった。

 それには多くの原因があると思います。一番いけないのは、みんなが同じ速さで物事を理解していく。そういうふうなことが理想であると思っている。教育サービスに携わる人々例えば先生ですね。その先生たちが「わかる」ということ自身が奇跡的なことであるということを理解していない。「いいね、わかったね。」「いいかい、わかったかい。」こういうことを平気で繰り返す。「わかる」という言葉には命令形がないと言いましたけど、実は疑問形もないと私は思うんですね。「わかる」ということは自分でわかる以外に仕方がない。その「わかる」という舞台を用意するために、先生と言われる職業の人たちは一生懸命その「わかる」という感動の舞台を用意する。そのための脚本を何本も書く。しかしながらその脚本通りに話が進むわけではない。教室は、テレビの安っぽいドラマの世界ではない。全ての子供たちがいろいろな個性を持って、多様に舞台を作っていくわけです。そして、子供たちが、先生たちから教わることを通じて、子供たち自身の中に「わかる」という感動の波が広がる。そういう奇跡的な瞬間がたまにあるんですね。私も若い頃から教育に携わってきたのでよく知っていますが、それは一対一とか一対二とか、そういう小規模で教えているときに起こるというわけでは必ずしもない。500人とかをいっぺんに教えているときでさえ、その教室中が「わからない」というどんよりとした空気から「わかった」という感動の光の波が教室にパーっと伝播していく。そういう瞬間があるということを私は何回も経験しています。

 そして、子供たち自身が本当に同期してわかるということがあるんだということは、私は体験的に知っていますが、なぜそれが起こるのかわからない。私はそれを自分で演出するということができるわけではない。ただそのための脚本をいろいろと考えておこうと思ったことはありますけれども、私は脚本家ではありませんので、そんなものを文章として残しておくというわけではなく、ただ歩きながら漫然と「今日はどういう授業をしようかな。どういう講義をしようかな」というふうに考えていた程度でありますけれども、やはり「今日のポイントとなることはこういうことで、このポイントを伝えたいな」と。そしてそのポイントを伝えたときに、そのポイントがその授業時間中にわからなくても、家に帰ってから、あるいは翌日に、あるいは次の講義の機会に、あるいはその次の次の次の講義の機会に、あるいは数ヶ月後に、私が言っていたそのポイントに気づいてくれればそれでいい。そういうふうに思っておりました。

 ですから私から見ると、すぐにわかるとか、簡単にわかるというのは、それはすぐにわかり簡単にわかるという阿呆みたいな簡単な知識でしかないということです。私にとって本当に大切な知識というのは、単なる知識、つまり暗記すれば済むそういうような知識ではなく、本当に体の中に自分自身のものとして内面化する。そういう知識であり、内面化するためには、理解の発見という大きな舞台が必要だっていうことですね。その大きな飛躍の舞台、それが学習という場であって、「すぐにわかる。簡単にわかる」という体文句に引っかかる、あるいはそういうたい文句を平気で言うという人は、理解というものを本当に知っているんだろうか、と私は思います。数学のように、最も簡単な、子供でもわかる学問を通じて、理解というものがどれほど感動的なものであるかということを学ぶのが、小学校における数学教育、あるいは中学校・高校における数学教育だと思います。そして、自然科学において、もっともっと思索を積み重ねることによって初めてわかる理解の世界、奥深い世界があるんだってということが理解できるのは、大学に入ってからでありましょう。社会科学、あるいは人文科学と言われるような世界において、より奥深い世界があるということを理解するのはもう少し時間が経ってからのかもしれません。芸術において若手の活躍が非常に華やかでありますけれども、本当の意味で、音楽や美術、あるいは書道、その奥深い世界の奥深い美しさ、それが理解できるということはかなり年をとってから、どんなに若くても30歳過ぎなのではないかと私なんかは考えています。

 数学はそういう意味で、一番簡単な世界なんですね。小学校の子供でも十分感動する。すごいことですよね。例えば2+3と3+2は、必ず等しい。子供でも知っていることです。2✖️3と3✖️2でもいいです。それが等しいということを子供でも知っている。「なんで?」って子供たちに聞くと、「二三が六だし、三二が六だし、計算すると等しいから」とそういう答えを答えると思いますが、それは答えになっていませんね。実際私は、7の段だとか8の段とか苦手でありましたけど、7の段8の段の掛け算をするときに逆転させてやればできる。そういうふうなズルを子供の頃覚えました。それはひっくり返しても同じ結果が出るということを子供なりに納得していたからで、もしかして、ひっくり返したら答えが違うかもしれないって言ったら、そんなズルは成立しないわけですね。しかし、一般に、私達は文字式というものを中学校で学び、それを使うとA×BはB×Aに等しい。これを大学の数学では「AとBの積は可換である。交換可能である」とこう言うんですが、それを基本的な公式として中学生は理解しています。でも、A×B、B×Aと文字式にした途端に、もう子供の頃の「だって、A×BとB×Aはともに計算すれば同じじゃん」という理屈は成立しないわけですね。そんな証明はもはや中学では成立しない。でも中学生は、A×Bの積あるいはAとBの和の交換可能性を知っている。何らかの意味で理解している。すごいことです。これは大学に行けば証明することができますが、大学生であってもそれを証明することができない人が、おそらく日本で99%を占めていることでしょう。そんなに難しいことであっても、子供は子供なりに理解を発見している。それを子供なりに理解を助ける、そういう理解の方法を、「A×BはB×Aは長方形の面積を考えれば同じだ」と、理解させる先生がいたとすれば、その先生はそもそも面積と何かという最も基本的な数学の問題に関する無知をさらけ出していると言わなければいけない。A とBが自然数であるならば、その考え方は正しいですけれども、A とBが自然数でない場合についてもそれが正しいか、ということ。これはなかなか証明が厄介な話なんですね。そういうことに実は難しさがあるということを発見するっていうのは大学レベルの数学科の話になりますけれども、小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりに数学的な定理と呼ばれる主張を理解している。理解を発見しているわけですね。その理解のレベルには様々なレベルがある。

でも、様々なレベル、低いレベルであれ、その理解を発見している。これが大切なんであって、低いレベルをさらに低くして「ほら、簡単だったでしょ。あなたが難しいと思っていたことは何でもないことですよ」というのは、私に言わせれば、一種の詐欺、こういうのを本当に「特殊詐欺」というのだと思いますね。わかりたいと思っている人の心につけこんで、わかった気にさせる。これは、お金を儲けたいと思っている人の気持ちにつけ込んで、お金を奪うということと、似た行為ではないでしょうか。あらゆるものが広告で売れるとか売れないとかっていうのが決まる「広告資本主義」と呼ばれる時代に突入し、学校や病院や法律事務所までが広告を電車の中に出すという情けない時代に突入しておりますが、そのようの中にあって、「すぐにわかる。簡単にわかる。誰でもわかる。」これをうたい文句にする広告には、私はその広告主の品のなさという以上に、それに騙されるであろう若い人々の不幸を感じて悲しく思います。

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