長岡亮介のよもやま話348「言葉、軽い言葉、安っぽい言葉」

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 今日も最近ちょっと目に余るというか、耳に余るという言葉遣いを度々耳にしましたので、そのことについてお話したいと思います。私は子供の頃、『砂漠は生きている』(原題: The Living Desert)という映画を見まして、ものすごく大きな感動しました。普通は、死んだ土地、生命のない土地、そういうふうに思われている砂漠に多くの生命が息づいているというストーリーだったと思います。今はその当時は珍しいカラー映画でありましたと記憶するのですが、その美しい映像が心に残っています。

 ところで、「砂漠は生きている」というときに、現代人たちはそこに生物あるいは生命体が存在しているということではなくて、砂漠があたかも生命を持っているかのように、変化している。生命活動をしているかのように、他の地域との影響関係を持っている。そういうときに「生きている」っていう言葉を気楽に使うのではないでしょうか。歴史的にも、私達は火山について活火山、休火山、死火山という三つの区別があるっていうことを私は小学校の頃勉強しました。今でも活動が活発な活火山、とりあえず今は休止しているけども、やがてまた活動期に入るであろう休火山、もう二度と火山活動することはない死火山。その三つの大きな分類を学んだわけでありますが、最近驚いたことに、「生きている火山」という言い方があって、まさに活火山のことなんですけど、活動が活発であると。その活動が活発であるということを生命活動になぞらえて「生きている」というのはどうなんでしょうか。私は、その「生きている」という言葉の持っている人間にとっての迫力を使って勝手な言葉を作っている。そう感じてしまうんですね。表現を大げさにしている。大げさな言葉遣いで人々の心を掴んでしまえばそれでいいんだという考え方。つまり、そこには「生きているとはどういうことか。死んでいるとはどういうことか」ということの言葉の定義に、それが合っているかどうかということへの配慮が全くない、ということです。

 同じような言葉で、私が引っかかるのは「心の傷」という言葉です。思い出してみると、私も小学校時代ずいぶんたくさんのいじめにあいましたけれど、そのことを未だに覚えていますけれど、決してそれを恨みに思っているんではなく、そういう辛い体験もあったなという記憶ですね。そういう辛い体験が今の自分の人格形成にも非常に大きな要因となっていると。もしかしたらこの人格を形成する上で、重要な要因であったかもしれないとさえ思います。私が暴力や、あるいは横暴、あるいは権力、そういうものを嫌うのは、その頃いじめられた経験があるからかもしれないとも思います。しかし、私がそこで「心の傷」を負ったっていうふうに言われると、ちょっと困るんですね。私が負ったいわゆる括弧づきの「心の傷」は、こんにちの私を形成する非常に大切なものであるわけです。腕力が強い者、あるいは権力が強い者がよってたかって、1人の人間を徹底的にいじめるっていう、それは酷いことだということ、それは決して許されるべきではないということ。これを私が今確信しているんですけれど、その確信の原点はどこにあったかっていうと、やっぱり子供の頃いじめられた経験なんではないかと思うんですね。

 それを「心の傷」と言われると困る。傷っていうのは、次第次第に癒えていくもので、肉体の傷というのは大体そういうものです。しかし肉体の傷であっても不可逆的な傷、つまり、治らない傷というものもありますね。私も子供の頃やんちゃな坊主でありましたから、刃物を使って、それで怪我をして、それが大出血になるというような傷であると、75過ぎた今でさえその傷が残っている。傷跡です。それは別に痛くも何でもないし、今となっては、懐かしい思い出のようなものでありますけど、肉体の傷というのは、の中には癒されるものもある。癒されないものもある。つまり傷が原因で命を失うということも十分にあるわけですね。

 心に関してもどうか。やっぱり心に関しても、「傷」という言葉が適切かどうかわからないですけど、決定的なダメージを受けることがある。それは第一次世界大戦後の帰還兵士を多く診療した精神科医が記録したことでありますが、あまりにも恐ろしい光景に毎日毎日さらされているという、人間にとってあまりにも過酷すぎる経験。自分の目の前で自分の戦友が肉の破片となって散っていく。そういう光景を連続して見せつけられる。そういう日々を過ごすと、戦争が終わって帰国しても、あるいは除隊しても、その後で人間として使い物にならないくらい大きな精神疾患が出る。昔の映像ですからショッキングなものがそのまま入っているものを今でも見ることができると思いますが、もう痙攣してその痙攣が止まらない。そういう戦争における悲惨な体験が、人間の心の中に、容易には消え去らない記憶。そういうものとして残る。それを“トラウマ”っていうふうに名付けたわけでありますね。今ではPTSDなんていう言葉があり、日本では「心の傷」なんていうふうに訳されていますが、私はそんないい加減な言葉で表現すべきものではないと思うんですね。つまり、私達が実際の自分の実体験で、私達が人間として耐えることのできないような環境に継続して閉じ込められたときに、私達の精神は狂わざるを得ない。そのくらいまで追い詰められてしまう。極限状況というやつですね。その極限状況の中で、精神の病、それがもう肉体的な症状としてはっきりと出る。そういう状況にまで追い詰められる。そういうことが現実にあるんだということですね。そして、戦争というのは、一般に本当に戦争に参加してるんではない一般国民に対しても、そのようなものすごく大きな精神的なダメージ、打撃を与えるんだと。本当に生きていることができないくらいのダメージを与えるんだということを、私は申し上げたいわけです。そんなのを「心の傷」と言って欲しくない。

 私は最近、ウクライナのドキュメンタリーで、その中に登場している人物、女性が「私は決してこの恨みを忘れない。私はすっかり人生が変わってしまった。私はこの変わってしまった人生を、しかしながら継続して生き続けていられるのは、この恨みのおかげである」と語った。恨みが人生の活動源になるなんて、あまりにも凄まじい人生ですよね。そこまで、美しい女性を追い詰めてしまった戦争というものの残酷さ、それについて、つくづく思いました。今国際情勢はいろいろと複雑ですから、その国際情勢についてやれ影響力のある大きな政府がどういう政策をとったとか、そういう政治談義が全く無意味に情報として報道されています。ウクライナの軍隊の指揮官が更迭されるそうだとかどうであるとか、それが自分たちの生活にあるいは明日からの私達の希望にどのように繋がるのか、そういうことではなく、まるで井戸端会議のように話されている。

 そして、あるいはイスラエルでの暴力的な入植者たちに対して、アメリカ政府が制裁を発動した。そんなものが大きなニュースとして取り上げられている。イスラエルの暴力的な入所者、ろくでもないやつはイスラエルにだっているに決まっているわけですね。そういう人たちに対して、アメリカが経済制裁を科す。そんなものを科されたからってどうってことある人間じゃないんですよね。そう思いませんか。そんな情報を分析して、個々の政治家の言動が政治を動かしている。そういうふうに人々を惑わす。そういう幻想をジャーナリストと言われる人たちが率先して、自分たちから尻尾を本当に振りながら、そういう情報にくっついていっている。実にみっともない姿であると思います。

 要するに私が言いたいのは、私達は言葉を使うときに、その言葉に対して厳密なければいけない。自分が理解してないことがあるかもしれない。あるかもしれないならば、あるかもしれないということをよくわかった上で、話さなければいけない。そして話をするときには、相手のためにできるだけ的確な表現を選び、できるだけ誤解がないように、そして自分が言いたいことが的確に伝わるように、そういう願いを込めて情報を発信しなければいけない。そう思うのに、近頃はまるで軽い言葉の使い方が流行っているかのように、そしてその軽い言葉を使うことによって人々の関心を引くことができると、きっと思っているんだと思いますが、まるで安っぽい広告のように言葉が消費されていくという毎日の報道を見て、残念に思えてならない。という老人の愚痴に皆さんを付き合わせてしまいました。どうも失礼いたしました。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    もし、そのウクライナの女性がライフルを片手に人間と格闘する事を決意したとしたらば、「その武器を捨てろ、筆で戦え」などという”綺麗事”を、私は言えないと感じました。

    そのウクライナの女性の生きる源が”恨み”から他の感情に変わる事を、私は望む次第であります。

    日本に住んでいる ”平和ボケ” した私たちは、まずは歴史と政治を勉強し、それでも ”どうしようもない” という ” はがゆい” 立場にある事を、自覚しなければならないと思いました。

    P.S.
    映画:「7月4日に生まれて」を、是非みなさんにご視聴していただきたいと思います。

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