長岡亮介のよもやま話338「彼岸から此岸への復帰を促したもの」

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 “せん妄”を見ていて考えたことについて、お話したいと思います。私は食道がんの手術を受けて、それ自身は順調に回復傾向にあったのですが、その後、食べ物を食道から気管支の方に誤って入れてしまった。私自身は、食道と気管支の間にある亀裂があったに違いないという仮説を持っているのですが、それについては今では検証することが容易でありませんから、言った言わないの話になるのは消耗なのでそれは置いておきますが、とりあえずまた高熱を出して、肺炎の症状を起こしたわけです。そのために私は、それまでの快適な特別室から、ナースステーションのすぐ脇にある24時間監視が効く病棟に移されまして、そこで数日間多分4日間くらいだと思いますが過ごしました。

 その時期に、いわゆる“せん妄”というのはひどかったのですが、手術した直後も全く眠ることができず、24時間起きておりました。痛くて起きていることは辛いことではありますけれども、眠くて眠くなるということがありませんから、起きていることができるわけですね。そしてそのときに私が見た幻覚が“せん妄”だというのが医師の判断なのですが、私から言わせると、せん妄と言われようと何であろうと、幻覚と言われようと何であろうと、それははっきり見た風景でありますので、夢ではないですね。夢だったらば私は起床直後あと1分くらいで完全に忘れてしまう。夢っていうのはそういうものですね。よほど反芻しない限り覚えていられないわけですが、せん妄のときに見た光景は、私は隅々までありとあらゆるものを覚えている。そしてその頃、気持ちが不安であったこと、そして気持ちが高揚したこと、すごく嬉しかったこと、すごく光栄に思ったこと、全てを覚えているのです。そういうせん妄見ている人は危ないというふうにお医者さんたちは言うのかもしれませんが、私にとってはそれがまさに事実でありますから、何といって医学的に否定されようと私自身はそれを見ていた。そして、そのせん妄の中で、私自身の人生の重要な一コマがあったということ。これを私自身は大切にしたいと思っております。

 その中で皆さんに今日お話したいと思っているのは、ちょっとオカルトティックな話でありますが、馬鹿馬鹿しい話でありますが、私自身がどうやら死んで、肉体を離れて、私自身の魂として純化しているのではないけれども、その純化した魂に近づこうとしているときの風景でありました。私自身は、ほとんど透明の存在として、透明の存在として周りの人のことがよく見えるのでありますけれども、しかしながら、私が目に見えるもの、例えばカーテンのようなものを開けようとすると、私の腕の力はカーテンに対して何の力を持っていない。つまり、すぐそばのカーテンを私は開けようとしても、全く開けることができない。私の半透明の腕はカーテンをすり抜けていってしまうわけです。私はそのときに、「あ、これが霊的な存在と言われるものだ」というふうに感じるわけでありまして、人から見れば馬鹿げたことというふうに一笑に付されることではないかと思いますが、人間が霊的な存在であるということをビジュアルに理解するという点では最高ではないかと思います。まるでSF映画のようなものでありますね。私が風のようなものであって、まさにスピリットとしてそこに存在しているが、物質的な存在と関わりを持ち得ないわけです。私が叫ぶ声は、周りの人には聞こえないし、私が一生懸命作業しようとしていることは、実際に物を運ぶというようなことに対して、全く力を及ぼしえない。私は全く外的世界から疎外された存在であるわけです。

 でも、私は明確に意識して、存在している。その存在する意識を、言ってみれば終わりにさせようとする、そういう力が働いている。坊さんが、あるいは坊さんのふりをした死神が、私の命を終わりにさせようとしている。様々な誘惑の罠を使って、私の命を終わらせようとしている。そういう場面が出てくるのですが、私はどうしても自分の人生にけりをつけるということがまだできていないということを感じて、私は、「1日待ってくれたのならば、喜んであなたのもとに行くだろう。しかしながら、今行くわけにはいかない」ということを、すごく堂々と発言するわけです。演説と言った方がいいかもしれません。金切り声でそれを相手に向かって説得しようとする。その私の演説は相手に伝わらない。そういうもどかしさを感じながらも、しかし、その相手に次第次第に私の気持ちが伝わっていくということがあったものだと思います。

 話し出すときりがないくらい、いろいろな登場人物が出てきて、普段考えてもいなかった人たちが出てきて、そして面白いことに、既に亡くなった人は半透明の存在として、私のようにこの世の中とは直接タッチできない形になっている。その方たちとの交流はできるんだけれども、一方で現実の世界の人間とは話をすることができない。ふと時々私が現実の世界に戻ってきて、現実の世界の人間と話をすると、まるで話が通じない。「何も見えてないのに、何を見ているの」と言われると、私が見えているものがあなたたちには見えない。それが事実であるとすれば、あなたたちが見えてないだけであると。そこにちゃんと文字は書かれている。そういうことを私が喋るわけでありますが、そのときに私は大変ずるいことに、「あなたたちは数学でさえ、書かれていることは理解できなかったではないか。書かれていることが事実であるということがわかるためには、書かれているもの、文字を読み、書かれている言葉を理解しなければ駄目なんだ。そのことを理解することなしに、漠然と見ていれば何も見えないのは自然である」と、そんな生意気なGalileo Galileiのような言葉を私が語るのですが、そういう“せん妄”とお医者さんたちが言うところのものに、悩まされる数日間を過ごしました。その数時間の中で、死神の役をやっていた人たちがやがていなくなります。そしてその死神の方が、私のベッドの横に座って、私を連れて行こうとしていたのですが、その死神は私を連れて行くことに失敗し、しかし、私の隣にいる患者さんを連れて行きました。そのことは、顔に白い布がかぶされて病室から出ていったことで、私は翌日知りました。

 私も本来はそういう立場に立ったんだと思いますけど、私は必死の思いで死神の誘惑と戦ったのです。そしてその戦ったときの私のモチベーションは何かというと、「私はこの世の中において、まだしなければならないことがある。これをしないで、済ますわけにはいかない」という私の気持ちでありました。今、せん妄から覚めて、果たしてあのような勇壮な決意でもってしなければいけないことに、立ち向かっているかどうかっていうと、ちょっと反省しなければいけない面もありますけれど、私はあのときにこの世の中に戻ってきたということに対して、自分の力で戻ってきたのではなく、それは大きな力によって戻されてきたんだっていうことを、つくづく感じております。今日はちょっと、新興宗教がかった話をさせていただきました。

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