長岡亮介のよもやま話334「才能の有無について謙虚であるべきだと思います」(病室から)

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 才能があるとか才能がないとか、私達は気楽に喋りますが、あまりそれが気楽すぎるのではないかということについてお話したいと思います。何事によらず、才能というのは決定的に重要なもので、才能のある人には才能のない人間はなかなかかなわない。というのは数学をやっていてもつくづく感じます。私達凡庸な数学人は、過去の天才的な数学者の業績を見れば見るほど、サリエリがモーツアルトを聞いて感じたこの才能と凡庸との断絶の非情な論理を痛感せざるを得ません。

 しかしながら、私達が才能が彼はあるとか、彼女は才能がないとか、そういう言葉を言うときに、私達がその才能のあるなしを判断する才能があるかどうかということについて、きちっと判断していないということが問題であると思うんです。才能を見抜くのも大きな才能でありまして、教師というのは、子供たちの持っている才能を見抜く才能を持っている人であるべきであると思うのですが、実際には才能のない人間が才能のある人間を見抜くというのは、その人自身が一定の才能を持っているということが重要な前提条件であるわけで、モーツアルトの才能を真に見抜いたのは、その同時代のモーツアルトをもて囃したウィーンの人々ではなくて、モーツアルトのような崇高な音楽を作りたいと願っていた音楽家サリエリであったということ。このことは、とても重要なレッスンだと思うんですね。

 つまり私達は、才能があるとか才能がないということを気楽に語るのですが、自分たちがそれを気楽に語るだけの才能がないということを意識していないと、才能があるなしというのは、いわば裁判の判決のように人を評価するということになってしまう。私達は才能の裁判官ではないということを忘れてはならないと思うんです。その基本原則を踏まえてもらえば、私達は才能に対して常に謙虚で、才能ある人に対してその才能を引き出すように常に積極的に努力すべきである。「才能の有無に関係ない。誰でも同じ結果が出せる」などという怪しい釣り文句のようなもので、人々を指導すべきではない。才能がなくてもできることは、才能がない人でもできるくらい簡単なことであって、難しいことをやるというには才能が全て必要なんだと私は思います。

 しかし、世の中には才能がない人でもできる程度に簡単で、しかし全然やってない人から見るとすごく難しい。そういうものがあります。それがいわゆる受験勉強というやつでありまして、受験勉強の秀才、お受験の秀才、受験秀才といいますが、そういうところで好成績をあげるというのは才能とは関係ない。そうではなくて、一種の集中した努力の結果で、普通の人はその集中した労力を払うべき時期に集中していないから何もやっていない。集中した努力をした人が成果を上げて、その人が才能があると、世間の人が誤解してしまうんですね。学校の勉強というのは、アインシュタインがよく言いますけれども、それ自身が価値があるわけではない。それくらいくだらないんですね。そのくだらないことを要領よく理解して、再現する。そういう程度の力量があれば、学校では成績がいい人になるわけです。

 そうしたものは才能というよりは、再芸というんでしょうか。言ってみれば小技の集まりでしかない。そのようなことができることをもって才能がある、あるいはないことでもって才能がないというふうに断定しているのは、今の世の中の流れだと思いますが、私達は才能というものに対してもっともっと謙虚であるべきであると私は思います。才能の前で、人々はひれ伏さなければなければならないというくらい、才能というのは素晴らしいものがあって、これはまさに神様の贈り物としか言いようがないものでありますが、それが全ての人に多様な形で与えられているっていうこと。そのことに私達はもうちょっと注意を払って、日々を過ごしたいと思うんですね。誰もが同じ結果が出せるというようなことを言う人はいますけれども、それは言ってみれば、工場製品で工場からいろんなものが出荷されると、みんな同じ企画のものができているということで、人間はそういうものではないということが大切だと私は思います。

 私も若い頃は、自分がつくづく才能がない、凡庸であると。才能があるってのはtalentedとかgiftedって言いますね。凡庸であるっていうのは、mediocreっていう言葉がありますが、まさに自分自身が凡庸であるということに対して、情けないなっていうふうに思いました。けれども、神様は凡庸な人間にもやるべきことがあるんだということを、私に後で教えてくれました。私が大学に入って数学の先生に、「数学の歴史を見ると、才能に溢れた人たちがいっぱいいて、自分ができることなんか何もないと思うんですけど」という相談した時に、その教授が大笑いして、「君、そんなこと言ったらここにいる人たちなんかみんな凡庸の数学者の代表みたいなもんだよ」っていうふうにおっしゃって、とても良い印象深くお話を聞きましたけれども、凡庸の人間には凡庸の人間ならではの仕事がある。だけど凡庸の人間が100万人いても、たった1人の天才がなせることをできるわけではないんですね。凡庸の人間は天才たちがやがて大きく突破する壁、それのレンガを積んでるような仕事をしているに過ぎない。研究者とかって偉そうに言う人がいますけれども、大体はレンガ積み職人に過ぎないわけです。

 そのように考えると、若い人たちが持っている才能というのは、とても眩しく見えます。自分の本予算が見えてきたときに、若い人たちが弾けるような才能を見せると、とても嬉しく思います。そういう才能が潰されないで、伸びていってほしい。その才能が潰されないように伸びるために自分にできることがあれば、少しでもやっていきたい、と凡庸な私は願っています。才能の違いというのは決定的にあります。でも、凡庸な人間にも必ずやるべきことを天を用意している、ということを強く感じる日々です。

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