長岡亮介のよもやま話333「プロフェッショナルとは何か。説教のプロに褒められて思ったこと」(病室から)

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 「私達人間には明日のことだって本当はわかっていないんだ。今日一日を精一杯生きるということしかできない」というお話をしましたら、そのときにいささか坊主の説教くさいと言ったのですが、その説教のプロフェッショナルである日本キリスト教団の牧師の方から「その通り」というお墨付きをいただき、大変心強く思っておるところでありますが、それで調子に乗って、今回はプロフェッショナルということについて考えてみたいと思います。

 プロフェッショナルっていうと、現代日本ではそれが尊称のように、素晴らしいことのように、無条件に素晴らしいことのように思われていると思います。しかしながら、プロフェッショナルということは、本来はプロフェッション、職業としているということでありますから、あまり帰属的ではないわけですね。昔、研究者はアカデミシャンということはアカデミー会員、学士院会員、そういうような尊称で呼ばれたことがありますが、今みたいに大学の中で研究職と言われる職業の人々が、莫大に増えてくる。膨大な数のプロフェッサーがいるわけですね。大学の数が増えていますから、当然そこで教える人の数が増える。プロフェッサーっていうのは、教授というのはそれだけで何か偉い肩書きのように思って誤解している人がいますが、教えるということを職業とする人というのが本来の意味で、フランスではprofesseurという言葉は、幼稚園の先生に対してもそういうふうに使うわけです。言ってみれば、「先生」っていうだけの意味でありますね。日本ではどういうわけかそれが偉そうに使われている。そういう教授が偉そうな存在であるという文化が何に由来するのか、これは別の折にまた考えてみたいと思います。

 今日はプロフェッショナルっていう言葉がプロフェッサーに象徴されるように、何かすごく貴重な存在であるというふうに使われることの誤解の由来はどこにあるんだろうか。それを考えてみたいと思います。プロフェッショナルっていうことは、日本の言葉で言えば、職人気質(かたぎ)、滝職人らしさということであって、職人というのは江戸時代で言えば、「士農工商」の「工」の部分に相当してるわけですから、社会的に見て階層が決して上ではない。農民の方が高い位置に位置づけられていたわけです。「商」、商売をする商人に比べればそれより高いけれども、農民よりは低い。そういうふうに言われた時代がありますね。しかしそういうふうに蔑まれながらも、職人さんたちはその職人さんたちの世界で、自分の職人としての技を磨くために精進を怠らなかったわけです。その精神と誇りは大したものだと思いますけれども、それは、自分にはこの道1本が残されているだけだとそういう追い詰められた気持ちと、その道を進んでいけばやがて師匠のような境地に到達することができるという希望、それに裏付けられていたんだと思います。洋の東西を問わず、職人気質あるいは職人魂というのは本当に素晴らしいものがありまして、それは現在の巷にあふれかえった教授などというものとは比較にならないくらい貴重なものがありますね。

 ドイツでは職人が非常に大きな力を持っていた。その職人たちが行政を牛耳っていた。そういう町まであるということ。“ギルド”という言葉でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。今でもドイツではマイスターというのは、学問をやる人とコースが違うんですけれども、尊敬されるその職業に付くコースとして非常に重要視されています。日本では、猫も杓子も大学に行くという風潮があって、しかも大学も職業訓練校のような大学が増えているわけでありますけれども、本来は大学というのは学問をやるところ。それに対し職業訓練所っていうのは、職業のプロフェッショナルになるというためのものでありますね。ですから、それは二つの違う理想、必ずしも両立するとは限らない理想を追いかけていると言うべきだと思うんです。プロフェッショナルであるということは、そういう職業人、職人として素晴らしいということであるから、学問として深いとか学者として叡智が鋭いとかっていうのはちょっと違うわけです。だから、プロフェッショナルというふうに言われて喜ぶ職人の人はあまりいない。職人さんたちは大体自分たちを蔑んで、しかし職人の誇りを持って、「俺達は職人は、」というような言い方をなされますね。それは、職人さんたちがその道において素晴らしいということであると思いますが、その道を外れたところでは、その道を超えたところでは、自分たちはそのことについてはわからないという謙虚さの表明でもあると思います。

 ところが最近、マスコミなんかでプロフェッショナルっていうふうに言うときには、その職人技の素晴らしさというのを無条件に賛嘆する風潮があります。私はそれはいかがなものかと思うんですね。職人さんたちを褒めたたえるようでいながら、馬鹿にしているんじゃないか。そういう空気を感じるわけです。プロフェッショナルの反対は何かっていうと、学者と思うかもしれませんが、アカデミシャンがその正反対というわけではない。プロフェッショナルの反対はアマチュアということですね。アマチュアというのは、それを職業としているわけではない。だけど、その道においてより高い境地を目指して頑張っている。そういうものですね、アマチュアリズムの典型は、かつてのオリンピックでした。今のオリンピックは商業主義に汚染されていて、むしろオリンピック選手がそれを人生の糧として生きていこうとする、まさにプロフェッショナルの世界になってしまいましたけど、要するに商業主義に汚染されて、オリンピック憲章Olympic Charterが完全に改ざんされてしまった。アマチュアリズム否定しているわけではないんですけど、プロフェッショナルの人がオリンピックに参加することに対して門戸を大きく開いているわけですね。

 今私は日本でいろんな番組をちらっと見ると、例えば野球番組とか、スケート番組であるとか、そういうのをちらっと見ると、みんなすごく上手なっていますね。特に、それでご飯を食べることができているわけではない。まだ選手として発達途上の人たちが非常に上手。甲子園の野球なんか見ると、もうそのスイングをしていると昔のプロよりも立派なスイングをしているという感じをもちます。とにかく、打球も鋭いんですが、スイングが素晴らしい。道具の進歩っていうのも大いに関係しているとは思いますが、昔はプロフェッショナルと言われるプロの野球選手さえあんなスイングができなかった。それを高校生がやっている。これすごいことだと思いますが、逆に言うとあの高校球児たちは、高校球児などというふうにほめそやされておだてられていますけれども、考えてみたらひどいですよね。球児、球の子ども、野球しか知らない子どもたちと言われているわけで、子どもたちの将来の発展可能性を、野球を通してしか見せていない。そういうふうに野球を通してしか自分の将来を見てない少年たちが、夢中になってやっているその精進の結果だと、私は思うんです。

 人間何でも一生懸命頑張って、小さい頃から努力してくると、こんなふうになるんだなというふうに思いますけれど、一方で高校生の頃に、あるいは高校が入る前に、リトルリーグとかって言われるレベルから、野球ざんまいの生活を送るというのは、どういうことなんでしょうね。子どもたちはいろんな可能性をたくさん秘めている。そのいろんな可能性の中でその子ならではの才能、それを開花させてやるというのは大事なんですが、その子どもたちが自分たちで描けるような未来像の中で、例えばプロ野球の選手になるというような夢、華やかな生活ですからそれを子供たちが夢見るのは無理もないことですが、実際のプロフェッショナルの世界においてどれほど厳しい運命が待っているかということを考えてみたら、実はそんなに甘いものではないっていうことはすぐにわかるはずで、一部の非常に恵まれた才能と幸運の中で才能を開花させる人がいるのは事実ですが、中には埋もれてしまう人もいっぱいいる。中には、自分の能力以上に頑張って体を壊してしまう人もいる。そういう冷たい現実のことはみんな理解してないと思うんです。

「スポーツは武器を使わない戦争である」という言葉がありますが、人と人とが競い合う。真剣勝負をする。そのときにでも刀を使わない。ライフルを使わない。それで死闘を命を懸けて戦う。それは、とっても感動的なことではありますけれども、言ってみれば、ローマ帝国の時代にコロッセオで闘士たちが自分たちの生死の運命をかけて戦わされるのを、観客がワーワーと騒いでいたのと同じようなもので、その戦わされる当人たちにとってみればものすごく大変なことであるわけですよね。そして、その戦いというのがその人の人間の全てでは決してないはずなのに、プロフェッショナルということになると、その一点だけに力を注がなければならないということになってしまう。それではライオンと戦うコロッセオの闘士と同じではないかと、私は思うんです。それは栄光に満ちているように見えていて、実はエンターテイメントのための芸人でしかない。芸の道を究めるというのも素晴らしいことであるけれど、その人がその芸以外に持ってる才能、豊かな才能を犠牲にして、その芸に専心してるとすれば、それは少し寂しいんではないかということです。

 オリンピックのような華やかな舞台で大活躍をして、それによってちやほやされて、人生を誤ってしまう。そういう若者が多いことは、様々なスポーツ関係の不祥事を見ても明らかですね。大学スポーツでさえ出てくる本当に馬鹿げた日本のスポーツ界の風土、これはある意味でローマのコロッセオで戦う闘士のように運命づけられた人々、他のことを考えることができないところに追い詰められた人たちがちやほやされた結果であると思うんです。マスコミは、そういうプロフェッショナルのスポーツ選手を、それが活躍したときはちやほやしますけれども、その活躍が止むや否や冷たく去っていくわけですね。そして、そのことは大多数の99.99%の選手に対して全員当てはまる。過酷な現実であるわけです。冷酷な現実と言った方がいいかもしれません。

 クーベルタンが近代オリンピックを創始したときに、アマチュア精神というのを非常に高く掲げたことの背景には、スポーツが持っていることの弊害をきちっと理解していたんだと思うんですね。「スポーツを通して、若者が戦うことを通じて、精神的に成長し、そして知的に豊かな世界を開拓することができるようになる」ということをクーベルタンは夢想したんだと思いますが、今のプロフェッショナルなスポーツ選手にはそのようなものがない。知性と遠ざかかれば遠ざかるほど、スポーツ選手として成績が上がる。スポーツ選手の成績が上がることしか期待されていない。これが残念です。最も最近サッカー、外国ではフットボールと言いますが、フットボールのプレイを見ると、選手たちが本当に上手になっている。一昔前ちやほやされていたカリスマのプレイヤーなんかとは比較にならないくらいみんな上手ですね。本当に毎日毎日練習するとこんなすごくなるのか、そしてしかも頭脳プレイが目立ちますね。頭脳プレイっていう言い方も古いですが、プレイしているのはみんな頭脳であるに決まっているわけで、みんな反射神経でプレイしているわけではない。でもすごく知的なプレイを見ることができます。

 その知性がスポーツを離れても生きるということが大事なのに、今のプロフェッショナルなスポーツ選手にはそれが求められていない。そして、せいぜい「知的な仕事」だと言えば、括弧づき知的なでありますけれども、スポーツの中継番組の解説をする。訳のわからない解説であるといつも思いますけれど、そういうわけのわからん解説をして、自分がわけのわからんことを言っているということにさえ気づかないというレベル。そのことに気づくだけの姿勢を涵養するチャンスを失ってしまった人々であるというふうに思います。そしてそれは彼らだけの責任ではなくて、むしろ彼らをちやほやして、それを商品として消耗してきたその業界の人々、そしてその業界の提供する番組を喜んで見ている一般視聴者の我々、その責任が大きいと思うんですね。私達はプロフェッショナルな人々のすご技を見るときに、プロフェッショナルな人々がその技を磨くために使った時間、流した汗、流した涙、それに思いを馳せなければいけないと私は思います。プロフェッショナルになるっていうことは、大変大きな代償を払って、その境地に達しているんだということです。

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