長岡亮介のよもやま話332「簡単でも簡単にわかるとは限らないこともあるということ:“and”と“or”の使い方」(病室から)

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 今回は、私達がほとんど理論的に見て区別がないと思われる「言葉の使い方」について考えてみたいと思います。それは、“かつ”、英語とすれば“and”と、“または”、英語で言えば“or”です。

 “かつ”、“または”というのは、それ自身もちろん意味は違うわけですけれども、否定を介して考えると、「$P$ であり、かつ $Q$ である($P\wedge Q$)」というのは「『$P$ ではない、または $Q$ ではない』のではない($\overline{\overline{P}\vee \overline{Q}}$)」という否定を二重に使ったものと同じになるわけです。同じように「$P$ または $Q$ である($P \vee Q$)」というのは、「『$P$ でない、かつ $Q$ でない』のではない($\overline{\overline{P}\wedge \overline{Q}}$)」ということになる。これは口で言うだけだとなかなかピンときこないかもしれません。耳で聞くだけではピンと来ないかもしれません。しかし、ちょっと指を動かして、今私が述べたことを、仕切り直してもらえば、誰でもが納得できることです。と、数学の人は考えています。“または”と“かつ”は、似たようなものだということです。否定という最も根源的な論理結合子、それを介することによって、“または”と“かつ”というのは、お互い移り合うという関係にある。これを「ド・モルガンの法則」というふうに言うこともありますけど、「法則」というほどのことはない。人間が誕生して、言葉を使うようになる。言葉を精密に使うようになるっていうことを覚えたときに、もう発生したんだと思うんですね。

 そのような誰もが持っている基本教養と言って良い、数学的な教養というよりはもう人間としての最低限の教養と言ってよいと数学関係者は思っている“かつ”と“または”なんですが、私がいろいろと見てきたところ、この二つは一般の人々にとって全然違うんですね。より正確に言えば“かつ”というのは、皆さんとてもよくわかる。でも、“または”というのは意外にわかっていらっしゃらない人が多いということです。昔、若い女性が自分の結婚相手として「3高」とか言って、「背が高い、学歴が高い、収入が高い」そういう3条件を述べていたことがあります。それを「3高」と言ったわけですが、馬鹿げた話でありますよね。そんな条件が満たされるだけで魅力的であるとすれば、本当に男性ってのはなんぼのもんじゃいっていうことになってしまいます。若い男性が女性を見るときも、美しくて、スタイルが良くて、頭脳が明晰で、優しくて、笑顔が可愛くて、こういう条件を、かつかつかつ、と上げている。そういうふうに条件を連立することによって、自分の好きな世界っていうのを空想しているのかもしれませんが、そのような世界が存在するかどうかもわかんなくなってくる。存在したとしても自分にとって疎遠なものでしかないという可能性も大いにある。結婚できない男性たちっていうのは、結婚できない女性たちと同じように、昔の言い方で言うと「高望み」、論理的に言えば「条件が厳しすぎてその条件を満足するものが空集合である」あるいは「極端に要素が小さい集合である」ということになるんだと思うんです。

 このように“かつ”の話はわかりやすいですよね。皆さんもおわかりになったと思います。でもそれに対して、“かつ”の条件は、かつかつというのを、“かつ”のブランチ、枝に相当するものを増やせば増やすほど条件が厳しくなってくるということはピンときますね。一方“または”の方は、$P$ または $Q$ または $R$ または $S$…と、こういうふうに枝を増やしていくと、どんどん条件を緩まっていくわけですね。背が高いか、収入が高いか、学歴が高いかというふうにすると、大体全ての男性は当てはまるというようなことになる。“または”で繋がれるものは、条件を増やせば増やすほど緩くなるということであります。

 この辺りまでは皆さんわかっているはずなんですが、「$P$ または $Q$」というのはどういうわけかわからないのは、「$P$ と $Q$ がともに真であるような場合も、『$P$ または $Q$』は真である」ということがわからないみたいなんですね。それは“または”という言語の使い方の日本語特有の狭さに起因するのかもしれませんが、少なくとも近代科学の洗礼を受けた人であれば、つまり中学校の理科とかあるいは小学校の算数を勉強した人であれば、“または”については十分理解が進んでいるはずなのですが、どうもそうでないらしい。“または”とついた途端にわからなくなる人が多い。

 それは教育の問題にも原因があって、例えば、2次方程式「$x^2=1$」。この2次方程式の解はというと、「$x=\pm 1$」と書く。「$x=\pm 1$」とは何を意味するのか、ということについては、ほとんど説明されていない。これが「$x=1$ または $x=-1$」という意味であることを理解している人は、高校生の中でも少ないのではないでしょうか。

 同様に、「$x^2<1$」という2次不等式の解は、しばしば高等学校で話題になるのは「$x>-1$ かつ $x <1$」。こういうふうに“かつ”で結ばれている条件を、一つの不等式「$-1<x<1$」と、三つの辺を並べて、左辺、中辺、右辺という形で並べて書く。これは非常にわかりやすいわけです。それに対して、 「$x^2>1$」という不等式になると、この不等式を解くときには「$x < -1$ または $x > 1$」になる。ここが“または”で繋がるはずなんですが、それがわかってない人が実に多い。これは高校生がわかってないだけじゃなくて、高等学校の先生方の中にも危ない人がかなり多い、ということを知って愕然としたことが何度もありますが、そういう誤解をもたらしている原因の一つは、教科書の中における2次不等式も解の書き方にも問題があるんですね。つまり「$x^2<1$」というときには「$-1<x<1$」というふうに一つのまとまった式で書くのに対し、「$x^2>1$」という不等式に関しては「$x < -1$,$x > 1$」。「,」で表すんですね。これはすごく悪い習慣だと私は思っています。そう慣れた人であれば、それが“または”で繋がれているということは自明なんですが、慣れてない人は、それが“または”で繋がっているということがわかってない。

 私は、人々が“または”については理解してないんだなっていうふうに改めて思ったのは、ある公共放送のテレビ番組で、例えば不動産屋がお客に対して、強引に不動産の契約を取るために誘引する。誘い入れて契約の締結にこぎつけるということをすると、それは宅建何とか法違反っていうことになって、その違反をすると「30万円以下の罰金または、免許取り消し」、そして驚いたことにその後に、「または、30万円以下の罰金かつ免許取り消し」、それを3番目の選択肢として、そういう処分に会うことがある、そういう解説を聞いて、なんとこの脚本を書いている人は、人々が“または”という意味を理解してないということまで理解しているんだなとそれは感心し、改めて“または”という言葉の使い方について、人々が誤解しているっていうことを確認した次第です。ひょっとすると、その脚本家もそれをわかっていないのかもしれない。しかし、“または”という意味をもしそんなふうに解釈したら大変ですよね。例えば「人を殺めたる者は、死刑または無期懲役に科す。」こういうふうな刑法の条文があったとすると、「無期懲役かつ死刑にする」では無期懲役になりませんね。

 つまり、「$A$ または $B$」というのは、「『$A$』または『$B$』または『$A$ かつ $B$』」ということを意味しているんではなくて、それが同じことですけど、「$A$ または $B$」といったときに、『$A$ と $B$ がともに起こる』という場合も含んでいる。当たり前のことであるわけです。そして、それが最も単純な場合についてお話しましたが、無限個になった場合、それが “かつ”で繋いでいった場合は「任意の $x$ について,『$x$ は $P$ である』」。例えば、「任意の人間について人は動物である。」例えばそういう文、その否定はどうなるかっていうと、「動物でないような人間が存在する」となるわけですね。数学では、「任意の」と「存在する」というのは、言ってみれば「かつ」と「または」の関係として頻繁に出てくるんですが、「存在する」というのがわからない人が実に多い。

 その証拠に、例えば「$\sin x =0$」という三角関数に関する最も基本的な方程式を取り上げると、多くの教科書に「$x=0$, $\pm \pi$, $\pm 2\pi$, $\pm3\pi$, $\cdots$, $\pm n\pi$, $\cdots$」こういうふうに、「, 」で繋がれて書かれている。それはまだいい方で、ひどいのになると「$x=n\pi$」、ひどい書籍になると「$x=n\pi$($n$ は整数) 」こんなふうに書かれている。元々の方程式の中に$n$という文字が入ってないのに、答えの中に$n$が入っているということ自身がおかしいということに気づく人は少ないですね。実は何でもない話でありまして「$\sin x =0$」という方程式と同値なのは、「$x=n\pi$ となるような整数 $n$ が存在する」ということに過ぎないのですが、そのことがわからない。

 このように、論理的には全く水平的なことに、「片方わかるが、片方はわからない」ということはよくあることなんですね。私達が本当に理解するというのは意外に難しいことであるっていうことを、この事例は物語っているように思います。

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