長岡亮介のよもやま話330「本当は不随意がたくさんある私たちの日常ーPTさんを介して私が学んだこと」(病室から)

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 私のような老人が病院にちょっとの期間でも入院すると、ベッドでの生活が続くために、それですっかり弱ってしまうという話をよく耳にしますね。この問題について、今回は考えてみましょう。といっても老人問題が主題などではありません。それは、いわゆるrehabilitation(リハビリテーション)、日本ではリハビリと略すことが多いと思いますが、このrehabilitationという一種の社会復帰活動によって、入院生活ですっかり能力を失ってしまいがちな老人の体力が、もう一度自力で生活できるところまで戻す方ができる。そういう話で、日本全国でそういう活動が行われているわけですね。そういう指導するためのPhysical Trainer(フィジカルトレーナー)、PTと略すこともありますが、日本ではどういうわけか、Physical Trainerを“理学療法士”と訳しています。Physicalという言葉には、“物理”という意味の他に“身体”という意味があるのですが、Physical Trainerはいうまでもなく、“身体訓練士”、そういうふうに訳さなければいけないところ、どういうわけか“理学療法士”と日本では訳されているわけです。誤訳の典型例でありますけれども、あまり世の中に普及しないうちに、早く修正してもらいたいものだと思っています。

 ところで、Physical Trainerの役割について、決して低く見積もっているんではない。むしろ高く買っているという話をしたいんです。私自身はそのような活動が嫌いで、これまで入院しても、rehabilitationのサービスは断ってきたんですけれど、それは「子供扱いされるのは馬鹿馬鹿しくてやってられない」というふうに思ったからです。しかしながら、圧迫骨折というのをやって4,5年、いわば10センチ身長が減った生活を続けているうちに身体能力が甚だしく衰えている。そういうことをrehabilitationで改めて思い知らされました。驚くことはいわゆる筋力の衰えとかということではなくて、それはもちろん衰えているんですけれども、それ以上にびっくりするのは、バランスが悪くなっているってことなんですね。バランスが悪くなっているっていうのはどのくらいのことなのかというと、左右にふらつくとか前後にふらつくとか、そういう話よりももっともっと基本的な、足踏みをする、足を規則的にタプタプタプかかとを上げるとか、あるいは足の先端の部分を上げる。かかとを軸にしてつま先を上げる。こういうのを規則的にぱっぱっぱっぱとやる。こんなことは何にも難しくないことだと思っていたんですけれど、これが何とも難しいんですね。驚くほど難しい。どういうふうに難しいかっていうと、パタパタができないわけではない。ところがパタパタを規則的にやろうとすると、リズミカルにやろうとすると、そのリズミカルに動いているはずの足が、どういう訳かリズムに反してふらついて動く。

 人間の体には皆さんご存知の通り、フィードバック機能というのがありまして、例えば手を伸ばすときに手を伸ばして何か物を取るっていうときに、もっともっと先だよって言って、手をもっともっと先まで伸ばそうとする。同時に、あんまり伸び過ぎたらもう伸びすぎだからそろそろ縮めてという、そういう反対向きの運動が入るってことですね。人間の歩行というのは、典型的なそのフィードバックがうまく働いているわけで、そのフィードバック機能を実現することができなくて、2足歩行のロボットっていうのはなかなかできなかったわけです。しかし今ではそんなものは簡単にできていますね。それは、コンピュータの発達に伴い、フィードバックというアルリズムを簡単にコンピュータの中に組み込むことができるようになったっていうことが大きいんだと思います。

 老人になってきて、しかも寝たきりの生活を続けたりすると、フィードバック機能が衰える。筋肉が衰えているのか、神経がやられているのか原因はわかりませんけど、とにかくフィードバックが働かない。自分がやろうと思っているのとは異なる方向に向かって動いてしまう、という自分を見出すわけです。びっくりしました。私が思っているように動けないということ。それは能力的に動けないんではなくて、動かす能力を持っているのに、能力の範囲内で動かそうとすると、それと反対向きの方向に動きが途中で始まってしまうということです。こういうのを「不随意の運動」と言いますね。随意じゃない。意のままではない。意に従う運動が「随意運動」ですね。意に従わない運動を不随意の運動と言いますが、不随意運動をしてしまう。不随意運動、ありとあらゆるところが不随意運動するかというとそうではなくて、私の場合腕の方は随意に動くわけです。ところが、足がもはや随意に動かないということを今回発見しまして、すごく面白いなと思いました。

 そして、それを随意に少しでも近づける方向に向けて、それを助けてくれるPTという仕事の方がいらっしゃるわけです。献身的にやってくださって感謝していますけれども、そこで行われることというのは、私はむしろ教育的効果が大きいと思うんですね。「もうあなたは、本当に社会復帰をするためには、このようなことができるようにならなければならないんだ」ということ、どんなにできないかっていうことを、本人が自覚せざるを得ないっていうところで、明らかにしてくれる。ある意味で教育と似ているなと私は思ったわけです。つまり、「できるようにさせる」ということが謳い文句ではあるんだけど、それはあくまでも謳い文句であって、私達は簡単にできるようにはなりっこない。不随意の運動するわたしの足が隋意に動くようになるというのは、よほど大変な努力が必要なんだと思うんです。ということは、そんな簡単にはできない、あるいは絶対できないって言ってもいいようなことなんですね。しかし、その目標を提示することによって、提示していただくことによってと言うべきですね。それによって自分がその目標からは遠くにいるんだっていうことを自覚する。これが大いに意味があるということであります。

 考えてみると、私達は本来ほとんどの運動が随意でできているように思っていますが、それは錯覚で本当は不随意の筈なのですが、どういうわけかうまくいってきた。随意に自分の身体を制御している。という幻想の世界に浸って生きてくることができたということ。その幻想から私は今覚めざるを得なかったというお話なんですね。皆さんの中には、自分の体は自分の勝手に動くっていうふうに思われるかもしれませんが、皆さんの中でもし体育があまり得意でない方がいらっしゃれば、例えば鉄棒で懸垂下がりができないとか、あるいは後ろ回りができるけれども前回りはできないとか、あるいはいろんな鉄棒の基本的な技がありますね。私にとって蹴上がりというのは一つの夢でありましたけど、こんな私でもある時蹴上がりができるようになる。一旦蹴上がりができるようになると何回でもできるようなんですね。だけど今は懸垂さえもできませんから、蹴上がりなんか夢のまた夢であります。そういうふうにいわば一つの高い目標に対してできないことがあるっていうことは、人間は理解できるんだけれども、自分ができると思っていることができないっていうことを発見すると、これがまた大きな喜びに繋がるというのが私のお話なんです。

 若い人からすると、体が隋意に動かないという事は想像がつかないでしょうから、皆さんは勉強のことを考えるといいと思うんですね。勉強一つ取ってみても、なかなか随意に勉強がわかるようにはならない。若いうちはやることがいっぱいありますから、全ての勉強について、完璧にやるということはできるはずがない。言ってみれば、人間は生まれてから不随意に囲まれて生きている。にもかかわらず、いつの間にか自分が随意に世の中を渡っているような錯覚に陥っている。非常に傲慢ですね。そういう傲慢な錯覚に陥って生きている。でも時々、それが傲慢な錯覚にすぎないっていうことに、はたと気づくこと。これは悪いことではないんじゃないか、と私は思ったというお話でした。

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