長岡亮介のよもやま話326「Metaという言葉について、Metaを考えることの意味」(病室から)

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 今回はちょっと高級なお話をしましょう。それはMetaという言葉に関してです。M E T A、元々ギリシャ語に由来する言葉で、皆さんにとっておそらく一番身近なものとしては、metaphysics(メタフィジクス)形而上学というふうに日本語で和訳しますけど、難しい訳ですね。元々のmetaphysicsの意味は、ギリシャ語のμεταφισικα(メタフィッシカ)、fisicaというのは、physis自然についての学問、現代であれば自然学と訳すのがいいと思いますが、20世紀以降では自然学というのは物理学という形で、数学的な自然学として非常に十分な基礎の上に打ち立てられた数学的な体系を作っているわけですね。そういう数学的な体系をとる以前の物理学は、自然学というふうに呼ぶのがふさわしいと思うんですが、自然についての相対的な体系を作る。相対的な体系というよりは、総合的な体系っていうふうに言った方がいいでしょうか。そういう学問でありました。そういう自然学を体系付けるときに、その体系の背後にあって、体系を支えるいわば暗黙の前提となっているもの、それを精密に考え抜くという分野に対して、アリストテレスは、メタフィッシカ、自然学の裏にあって、背景にあって、自然学を支える学問として、メタフィジクスという言葉を使ったわけです。

 今日的にわかりやすく表現すれば、「哲学」ということになりますけれども、哲学っていうふうに言うときには、自然学を基礎づけるというだけではなくて、歴史とか、人間文化とか、そういうものが全部視野に入ってきますよね。それに対して、形而上学っていったときには、いわば「論理的な前提、哲学的な前提を明らかにしようとするもの」というニュアンスがあるように思います。このような形而上学は、近代にあって、人々が近代的な自然科学の精神に目覚めますと、もう古臭い議論のための議論をしているように思えて、19世紀頃には形而上学というのは、言ってみれば科学の正反対のものとして軽蔑され、あるいは排斥される。それが、文化の潮流になってしまうわけです。しかしながら私達は、科学を考えるときに、科学の限界とか科学が前提としても、それが、科学を研究する人であればあるほど、気になるわけですね。したがって、形而上学と訳されているもの。これは現代でも、最も重要な最先端の科学研究においてさえ、重要な思索のフィールドであると私は思っています。もちろんそういうことを嫌う人たちも現在では少なくありませんが、思索的な哲学者ではなくても、思索的な科学者は、形而上学的な思索を決して避けてはいないし、むしろ好む人も多いくらいではないかと思います。

 Metaというのはそのように裏にあるというか、その背景にある。そういう意味を持った言葉でありまして、皆さんに最もわかりやすい例は、私は今言葉について語っていますけど、言葉について語るときに、また言葉を使っています。そうすると、言語について語るときに、言語を使うとなると、同語反復のような自己撞着を起こしてしまうおそれがあるわけです。これに対して、言語の階層を区別して、それについて語られるところの言語を対象言語Object言語と呼び、その対象言語について語る言語のことをメタ言語Metalanguageそういうふうに呼ぶと言えば、わかりやすいんではないでしょうか。例えば、形容詞Long。それ自身はあまり長くないですね。短い1音節の形容詞です。ですから、「Longという形容詞はlongではない」と言ったときに、「Long is not long.」と言ったら、最初の“Long”の方は言ってみれば対象言語でありまして、それに対して“is not long”と言った後半の方の叙述は、Meta言語になっているということですね。このように階層を区別するってことになると、では、Meta言語を語るときにはどうなるかというと、MetaMeta言語と言うことになる。MetaMeta言語を語るためにはMetaMetaMeta言語が必要になるということで、無限に俎上が必要になる。ということになってしまいます。

 既にアリストテレスは、このような類の間違いというか、これをすれば永遠に終わらないっていうことを気づいておりまして、それを打開するために彼はいろいろな哲学的提案をするわけですけれども、現代的に割り切ってしまえば、これには解決があるはずもないわけです。つまり、言語というのは不思議なことに、自分自身を叙述する「自己叙述性」を持っている。自己叙述的であるということは、言語の持つ大きな特徴の一つであると思います。自己叙述的であるということ。これを仮にautological(オートロジカル)と呼んだとすると、その形容詞の否定型非自己叙述的non-autological、あるいは他の言い方もあるかもしれませんが、そういう形容詞も考えられます。autologicalではないという形容詞ですね。non-autologicalという形容詞は、「autologicalなのか、それともnon-autologicalなのか」という問題を考えると、実はこれが簡単にわかるように、逆説を含んでいて、non- autologicalという形容詞は、autologicalであるとすると矛盾。しかしnon- autologicalであるとしても矛盾。ということで、要は論理の罠にはまってしまってそこから抜け出すことができない。

 我々は、言語に対して、対象言語とMeta言語に区別するとわかりやすいと言ったけれども、それは無限後退を生んでしまう。それを避けるために、言語の中に階層の異なったものが混じっているとすると、今のようなパラドックスが生まれてしまう。言語のように私達の必須の身近なツールと考えられているものは、このように恐ろしい深い暗闇、論理の暗闇の世界に繋がっていくということを、私達はたまには反省すべきだと思うんですね。というのも、今浮ついた言葉の使い方が一般化していて、人々がその言葉遣いが間違っているとか正しいとかっていうことに対してさえ、関心を払わなくなってきている。「そんなこと、わかればいいじゃない。通じればいいじゃない」という風潮が一般化していると思うんです。でもその風潮は、実は恐ろしいことなんだということですね。ただ、言語の問題という非常に身近なものを捉えても、それについてきちっと理解しようとすると難しい。数学ができることは、きちっと使うことが難しいということを人々に教えてくれるということではないかと思います。残念ながら、多くの人はそこに難しさがあるということにさえ気づかないで、日常生活を過ごしてしまっていると私は感じています。

コメント

  1. shin より:

    長岡先生、お具合はいかがですか? 私は専ら「読者」に徹するつもりで拝読してきていたのですが、早く退院していただきたいという願いを込めて今回はコメントを書きます。

    先生が言語について考察しておられること、私自身もひとつのテーマとして考え続けています。Wittgenstein は「主体を語ることはできない」と言っていますが、まさにその通りだと思います。

    私は自然科学に携わっていた者(携わっている者)として、「自然の一部である人間が自然を記述すること」の限界について、ずっと考えてきました。まだひとつの文章として仕上げるほどにまではなっていませんが、今も思索を続けています。
    そういう観点から見て、先日先生が「自分がボケていると自覚すること」について書いておられるのを大変興味深く読ませていただきました。

    長岡先生、お元気になられたら、久しぶりにお会いしていろいろお話ししましょう!そのためにも、早く元気になって戻ってきてくださいね。

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