長岡亮介のよもやま話325「ひねくれ者の人間観」(病室から)

*** 音声がTECUMのオフィシャルサイトにあります ***

 環境の変化に対してそれに適応するための能力と、その環境に適応できないという能力。無能力っていうのも一つの能力だと思うのですけれど、例えば人間が、住居環境において、18度だったら寒い、20度だったら暑いというような感じで、許容範囲が非常に狭くなってきていますね。特に都会暮らしの場合にはそうでしょう。ある意味で、私達の許容範囲、最も寒い温度というか涼しい温度とこれ以上暑くなったらたまらないという暑苦しい限界。もちろん、気温だけではなく湿度なども総合的に人間は感じるのですから、気温だけというわけにはいきませんけれども、単純化して気温という指標で考えると、私達の持っている許容範囲の驚くほど狭いことに気付くわけです。

 私は小学校の頃、世界の気候とかっていうことで、インドでは、夏になるというか、年がら年中夏のようなところもあるわけですが、ムンバイと言われるようなところですね。私が子供の頃は、ムンバイっていう言い方じゃなくてボンベイって言い方でありましたけれども、その辺りは、言ってみれば四季を通じて、四季という言い方も通用しないくらい、常に暑い。子供の頃に聞いた話では、気温が何と36度もあるのですね、人間の体の体温が37度ぐらいですから、体温とか変わりない。そんな暑いところによく人が住んでいるなと、私はびっくりしました。そんな暮らしづらいところに暮らしているくらいならば、別の場所に移った方がいいのになんていうふうに単純に物事を考えたりもしましたが、今、東京は私が子供の頃に習ったムンバイの気候よりもよっぽど蒸し暑さが増している。単に気温が高いだけではなく、蒸しているということを入れると、私が子供の頃習ったインドの気候よりも、東京の気候の方がよほど非人間的です。

 本当に余計なお世話だと思いますが、公共放送が貴重な電波を使って、「水分摂取に心がけ、体温が熱くなりすぎるようであれば、適当にエアコンを使いましょう」というようなことをみんなに呼びかけたりしている。エアコンを使うか使わないかって、個人の勝手ですよね。エアコンを使うようにしましょうっていうこと。そういうことによって、弱者に対する心遣いを心がけているというふりをしている。口ですむ親切だったならば、そんなものが全く上辺だけのもので、本来意味がない親切心、余計なお世話というやつだと思うんです。人のお節介をやたらに焼く。「地震がありました。津波があるかもしれませんから高いところに避難してください。」高いところがある人は、それはいいですよ。高いところがない人もいるし、避難したくても避難し損なう人もいるわけです。そういうときに、「人命が大事です。まず自分の命を救うように行動してください。」こういうふうに呼びかける。そのことによって何かが動くんでしょうか。例えば役場で、防災を呼びかけている職員が、「このような情報がテレビで配信されたから、私は勤務はまだ時間が残っているけれども、勤務を途中で、人命救出、自分自身の命を救うために任務を途中で放棄して、私自身が逃亡します。」そういうことを自ら選ぶ人がいたとすれば、それはその人の自由だと思いますけれども、その人としては働きがいを一つ失っているんだと私は思います。

 「自分の命を賭して他の人の命を助けようとする」、そういう気高い精神の中で、人間はしばしば人間とは思えないくらい英雄的に行動するのだと思います。そういう人間が気高く英雄的な存在となる千載一遇の機会を、もしそのような放送によって奪うとすれば、それもまた情けない話ではないでしょうか。もちろん、気高く英雄的であることだけが人生の徳ではありません。ふてぶてしく生き残るということもときに大切だと思います。私はそれぞれの人がそれぞれの価値判断に基づいて行動する。それを認め合う社会が大切だと言っているだけであって、逃げるべきだとか逃げるべきじゃないとか、それを一律に強制して呼びかけるのはいかがなものか。しかも自分は安全な場所に身を置いていて、そういうメッセージをかけさせすれば自分の任務が終わったと思っている。そのことに私は無責任さを感じるんですね。

 つまり責任というのは、私達は決して人間ですから無限に追うことはできっこない。無限に負うことはできっこないけれども、それを自分のできる範囲で可能な限りやる。尽くす。これが人間の人間たるところでありまして、合理的な価値基準に基づいて人間が常に行動するわけではない。しかも合理性というのは、自然科学的な合理性というのではなくて、この世は生きていく上での合理性、いわば生命の存続に関する合理性、そのようなものでしかない。ということを考えるならば、そのような一種の呼びかけでさえも責任逃れでしかない、という私の非難をかわすことはできないのではないかと私は考えているのです。責任を追及しているんではないということに注意してください。私は、人間は、不完全なもので、あまりにも不完全なもので、責任は追及するなんてことはできるはずがない。どんな人の責任も追及することは非常に難しい。

 しかしながら、自分の責任だと思って一生懸命頑張っている人のその努力を、揚げ足を取るようなことをすべきではない。よく英雄的な献身的な活動を通して、命を失う方がいらっしゃいます。そういう人は本当に英雄なのであって、その人たちの英雄的な行為に対して、私達は感謝し、かつ礼儀を尽くして、その人の恩に報いる生き方をしなければならないと思います。そういうくらいの影響力を持った行動、これが英雄的な行為なんだと思うんです。平凡な「命を尊重する政治」なんていう、そんな薄っぺらい歌い文句で、この英雄的な生き方の素晴らしさがかき消されてしまったら、私はとんでもないことではないかと考えています。ちょっとひねくれ者の意見でした。

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