長岡亮介のよもやま話323「経済の明日を展望する愚かしさ」(病室から)

*** 音声がTECUMのオフィシャルサイトにあります ***

 このよもやま話を続けてきて、ようやく気づいたことがあります。今日はそれについてお話しさせてください。人はなぜ、経済の明日をわかりやすく展望するというような話を聞きたがるのかということに、私は初めて気がついたということです。なぜそんなことに初めて気づいたかというと、私から見ると、どう聞いても面白そうな話じゃない。そういう話を人々が一生懸命聞く。その姿が私には奇異にしか映らなかったんですが、考えてみるとその人たちは経済の動向を人より先に知り、それによって経済的な利益を得ようとしていたんだと。人の言うことを聞いて、その情報をもとに人より先に行動すれば、それによって利益を獲得するであろうという、野心というか、野望というか、欲望、それが働いていたんですね。純粋な知的好奇心だけからすれば、とても楽しい話とは思えない。その話に人々が群がるのは、こういうことが背景にあるからだということに、はたと思いついたわけです。

 こんなことに今更気付く私も馬鹿と言えば馬鹿かもしれません。いや、馬鹿であることは元々わかっているのですけれど、こんなにも人々との間に、私も落差があったんだということを感じて、はたと思っているわけです。「なんだ、みんな得したかったの。人よりちょっと先に動いて、人よりもちょっとずるをして、それで儲ければ得をする。そういう人生を生きたいんだ」ということに、はたと気づいたんですね。考えてみるとそんな生き方って、ずいぶん情けない生き方ですよね。正々堂々と自分の仕事に自信を持って生きている。そういう人が人間としても頼もしいし、楽しそうだし、周囲の人々にも幸せを伝播させる能力がある、と私は思うのです。人を出し抜いてそこでニヤニヤと、あるいはニンマリとしている、そういうような人は友達もいないですよね。そんな生き方のどこに楽しさがあるのだろうと思っていたんですが、昨今ではそういうような生き方をしないと損だと思っている人がだんだん増えているようで、それ少しでも手っ取り早く経済の動向を知りたいというニーズがあるんだ、ということに気づきました。

 そういう人たちであれば、例えばジニ係数、社会の貧富の格差を表現する数学的な指標、数学的な手法というより経済学の人は経済学的指標と言いますが、要するに経済学で使われる数学的手法というのは、所詮アリスメティックの範囲の概念でありますから、数学的指標というほどのことはないんですけれど、その基になっているアイディアが数学的なものなので、私はつい数学的と言ってしまったんですけど、そういう係数について勉強するととても面白いですね。日本が、ジニ係数がいかに小さな国であるかということ。これは国際常識だと思いますけれども、日本人は案外知らない。案外知らないどころか、それを知らされないことをいいことに、政治家や行政が私達の納めた税金を使いまくっている。私達も納めた以上の税金、私達が納めた税金よりもその2倍近くものお金を国債として発行して、垂れ流している。国債といっても国債が売れているわけじゃない。国債で調達するお金の

 そういうことがわかってきたならば、私達が今後どのような社会を展望すべきか、ということについても、本当に腹を割って、腰を据えて議論を構築しなければいけないと思うんですね。そんなときに、わかりやすい話、結局それは耳に心地よい話に過ぎない。そして、耳に心地よい話というのは、結局のところ誰も責任もきちっと負うことなく、負わせることなく、円満にシャンシャンと手打ちをする。そういう議論になるに決まっていると私は思っているのですけれど、かつて痛みを伴う改革というのを旗頭に、ずいぶん大改革をしたような気分になっていた政治家もいましたけれども、日本郵政が分割され民営化されたということによって、本当に良かったと思っている人はどのくらいいるのでしょう。政治家の言っていることは、最も改革派の人が言った場合でさえこんなものでありまして、今のようなバランスをとってかろうじて自分の政権を保つというような弱体政権になると、本当にポピュリズムに押されて、あるいは自らそのポピュリズムの流れの中に入って、にっちもさっちも動きがつかなくなる。そういう状況が続いているんだと思うんです。

 でも、それを許しているのは結局のところ、日常的にせせこましい利害打算にとらわれて生きている私達庶民ではないか、と思うようになりました。つまり、くだらないわかりやすい経済の話なんかに人々が群がるのは、それはアリが蜜に吸い寄せられるように、人々が金儲けというものに対して憧れを抱いているからだと思うんです。私はイーロン・マスクとかビル・ゲイツとか、そういう大金持ちのことをそんなに尊敬はしておりませんが、彼らが作る会社名が、イーロン・マスクの場合はXであるとか、Facebookの場合は、Metaであるとか、そういうちょっと哲学的なメタファーを感じるような名称であることは大変興味深い話です。つまり、彼らは彼らがやっていることが虚業であるということがわかっている。その虚業の世界から表舞台に躍り出ているわけです。イーロン・マスク氏などは、本当に得意満面でありますね。フェイスブックのザッカーバーグの方がよほどインテリゲンチャーではないかと思いますが、そういうIT長者の人たちが、自分たちがやっていることが、人類の明日の日常生活に大いに影響するということをよく理解しながら、しかしそんなことでビジネスをするのは、そもそも虚業であると。そういうことが理解されているからこそ、やっぱり自分たちの会社はフェイスブック、フェース表立っているってことですね。表面(おもてめん)ということです。そうではなくて、その背景にあるMetaときたか、というのが私の印象なんですが、なかなかメタファーが効いていて面白い言葉ですね。Metaという言葉についてはいずれまた別の機会にもう少し掘り下げてみたいと思っています。Xにいたっては、アルファベットの後ろの文字3文字の先頭ですね。X・Y・Z、その最初の文字がXでありますけど、しばしば未知数を表すのに使われてきました。教育の世界ではですね。本当は未知数をXを置く必要は全然ないんで、未知数をAを置いたって構わないし、未知数をBと置いたって構わない。だけど、Xで表す。デカルトという哲学者以来の伝統と言っていいわけですが、伝統の中で、Xときたか、というのが私の印象でした。

 つまり、何者であるのかわからない。何者であるのかは、やがて歴史の中で証明されるであろうという不気味な表現のような気がして、私は気味が悪い印象を持つのですが、結局やはり実際に物を作り、新しい文化の創造に寄与しているとは必ずしも言えない。人が作ったものを組み合わせて、それによって製品を組み立てる。アセンブリをしているだけだという思いがあるからではないか、というのが私の勝手な邪推です。これは気楽な私の邪推と思って聞き流していただければ十分です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました