長岡亮介のよもやま話311「濃度をめぐる宗教的倫理観」(3/31以前)

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 今日は希釈、薄める、という問題について考えてみたいと思います。例えば、濃い塩水に水を加えていくと、どんどん濃さが減っていく。塩味が薄くなっていくわけでありますね。皆さんよくご存知の通りナトリウムというのは、人間、あるいは動物の生命活動を維持する上で、必須の金属と言っていいわけでありますけれども、例えばナトリウムの体内の濃度、血液中濃度が極端に高くなると、生命の維持活動が困難になってくるわけです。人間はナトリウムを濃度が高くならないように、カリウム、生体にとっては非常に似た金属なわけですね。ナトリウムとカリウム、両方とも元素の周期表で、縦に並んでいるところです。ですから、よく似ている。カリウムっていうのは、フルーツにたくさん含まれているので、フルーツを摂ると健康にいいですよというようなことは言われる。もちろんカリウムの問題だけじゃなくて、ビタミンの問題なんかもあるのでしょう。フルーツは体にいいと言います。

 しかしながら、腎機能が低下した人にとっては、カリウムの濃度が、ある程度以上高くなると、循環器系にひどい害悪を、あるいは悪い影響を及ぼすので、カリウムを適当に排出する、というのが人間の腎臓の基本的な機能の一つと聞いておりますが、その腎機能が落ちてくるとカリウムが排泄できないために、血中内のカリウムの濃度が高くなりすぎて、非常に命に危険がある。したがってカリウムの摂取を制限しなければならない。人工透析を受けている患者さんの中には、大好きなフルーツを食べることができない。これが悩みの種だというふうにこぼす人もいらっしゃいます。それはよくわかりますね。好きなものを好きなだけ食べることができる、これは幸せの一つだと思います。そういうわけで、カリウムというのは、人間にとって大切なものであると同時に、濃度が高くなりすぎると危険である。そのために、腎臓でカリウムを排泄する、という機能が働いている。

 ナトリウムにしても、カリウムにしても血中における濃度が決定的に重要でありまして、薄すぎたり濃すぎたりすると大変なことになるわけです。日本人は一般に私のように長野県育ち、信州育ち、大体雪国育ちの人はしょっぱいものが好きですから、信州長野でいえば野沢菜というのを、本当に一年中食べている。野沢菜が本来はない季節でも、しょっぱくつけた野沢菜がありまして、それをお茶を飲みながら、それを長野では「お茶子する」っていうふうに言っていましたけど、本当に朝から晩まで、野沢菜を食べているわけですね。当然のことながら、塩化ナトリウム、食塩と言われているものに含まれている塩化ナトリウム、それの摂取し過ぎでありますから、長野県の人は、一般に心筋梗塞などで亡くなる割合が全国的に高いという指摘がなされていたことがあります。

 つまり、塩分を摂りすぎると、寿命にも関係してくるというくらい深刻なものなんですが、そのナトリウムが、実は人体の中でとても大切な役割をしている。よく夏の一般の報道なんかで、「脱水症に気をつけましょう」というふうなことが言われますが、脱水って水が抜けるっていうこと自身が危険というよりは、やっぱり血中におけるいろいろな金属ですね。それの濃度がとても大切であるわけです。金属って言ってもいわゆる私達が普通に目にする金属というよりはイオン化された金属でありますね。今お話したかったことは、濃度、濃さ density それが決定的に重要であるということです。どんなに体に悪いと言われる食塩も、適量がないと、適量とっていないとですね、それこそいわゆる脱水症状に似た、電解質異常、電解質の濃度の異常によって、極端な場合には生命さえ危うくなる、そういう症状になることがあります。私自身も、ちょっと頑張って講義をし続けたために、そういう症状を起こしたことが今まで何回かあります。私は少し血圧が高い方なので、ナトリウムを意図的に摂取を減らしているということも、夏のような時期には命を危険にさらすそういう行為であるわけですね。

 濃度が大切だということについて、もうこれだけで十分わかっていただけたんではないかと思いますが、「濃度を薄めればそれで済むという問題じゃない」っていう議論を最近よく耳にするのですけれども、「その濃度の問題ではなくて絶対的な量そのもの、あるいはその存在こそが重要である」という議論は、私は一種の宗教的な潔癖さを語っているものではあると思うんです。例えば、罪を犯した人、1 人の人を殺した人と 3 人を殺した人。これは考えてみると、一生の中で何人殺すか、濃度とは違いますけれどもそれに近い議論でありますね。それはやはり、たくさんの人を同時に殺すというようなことがよほど罪が重いと言いたいところですが、一方で宗教的な倫理感から言えば、たった 1 人の人の命を奪うことでさえ、100 万人の人の命を奪うのと同じように、罪深いことであることには変わりない。そういう宗教的な倫理感、潔癖な倫理感というのがあることは事実です。悪いことをたくさんしていて、その悪いことの中で、殺人というのは相対的に濃度が薄くなる。そのことによって、殺人が許されるというようなことには決してならないということですね。

 1 回の罪は、100 万回の罪にも相当するということです。罪を犯した人を、今でもイスラム圏の国の中にはそういう刑をやっているひどい国がありますけれども、「石打ちの刑」というのがある。みんなで石を投げつける。そしていたぶり殺すっていうことですね。そういうことをやっていたときにキリストがそばを通りかかって、その石を投げている人が、「この女は罪を犯した女である。だから、法律に基づいて、このような刑を執行しているのだ」というふうに言ったところ、キリストは、「ではわかった。この中で、自分が罪を犯したことがない人だけが、石を投げなさい。」そういうふうに言ったそうです。そしたら、石をそれまで投げていた人が、自らの投げようとしていた石を落として、その場から立ち去ったっていう有名な話が、新約聖書に載っているんですが、それは 1 回でも罪を犯した人間というのは、もうそれによって汚れた存在として、場合によっては、永遠に許されない。そういう宿命を背負っているはずだということですね。キリスト自身が言いたかったことは、そのような罪人でも、自分の罪を悔いるならば、それによって救いがあるということだと思いますけれど。そのことはちょっと今置いておいて、そのような 1 回でも罪を犯せば、善行をどれほどしようとそれは関係ないというのは宗教的な潔癖性であります。

 このことは、十分考慮しなければなりませんが、しかし、科学的に物事を見るというときに、私達は、様々な物質が互いに影響し合って、このように存在しているということを知っていますが、そのときに影響の強さを決めるのは、言ってみれば濃度のようなもので、その濃度が、薄くなれば、ほとんど影響がないというふうに考えて良いわけです。私達は月の引力あるいは太陽の引力によって引っ張られている、ということをあまり感じていませんね。なぜか。それは、私達にとってそれが私達の生活をしていく上で、非常に微小な力であるからです。地球の重力、地球から引っ張られる力の方が遥かに大きい。なぜ遥かに大きいか。私達は地上に暮らしているからですね。私達が地上からちょっと離れたところにいけば、地球の引力の影響もだんだんに弱まる。でも月くらいまで離れていても、月が地球の周りを回っているのは、まさに地球の引力に引っ張られて、常に地球に向かって落下するという現象であるわけですから、遠くに行ったからといって、影響が全くなくなったわけではない。ただし、現象を考えるときに、例えばアポロという宇宙船で月に着陸した宇宙士が月の上を飛び跳ねるように、というのは月の重力は地球と比べると小さいからですが、飛び跳ねるように動いているとき、そのときには地球の引力は、その飛び跳ねている宇宙士は感じない。そういうものであるということですね。つまり私達は、物質の持つ影響というのを考えるときに、物質の質量であるとか、あるいは物質の濃度であるとか、そういうものを十分に考慮しないと、宗教的な潔癖さでもって語っては、とんでもないことになる。ということであります。二つのことについてお話しました。一つは科学的なものの見方。その合理性、科学的な物の見方に反する語り方をすることの非合理性。もう一つは、科学的なものの見方を本当に 180 度逆転させるような宗教的な倫理観の問題。これは決して濃度の問題ではないということですね。

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