長岡亮介のよもやま話310「論理と理論、似ているけれど、全く違うというお話」(2024/3/31)

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 今日は、私を含め数学を教える立場にいる人がしばしば使う“論理的”という言葉と、“理論的”という言葉。これについて考えたいと思います。日本語で中国の文字を使ったいわゆる漢字で書くと、“理論”と“論理”っていうのはひっくり返っているだけですね。構成している二つの文字が全く同じです。どちらが論理で、どちらが理論だということを混同する人がいてもおかしくないわけですね。

 “混同”という言葉も、やっぱり“混と同”2文字でできていますけど、“混”は入れ混じる、混じるという単語であり、“同”は同じくするということですね。異なるものを混じえてしまう。これが混同ですから、これを“同混”と間違える人はあまりいないと思うんですね。なぜかというと、中国の言葉はいわば英語と同じで、目的語は動詞の後ろに来る。例えば“読書”、読書っていうのは書を読むわけですね。we read books、あるいはwe read documentsという英語の表現とそっくりで、動詞の後に目的語がある。日本語も中国の言葉遣いを真似て作られましたので、元々本当の大和言葉はちょっと違いますが、中国の漢文に倣って作られた私達の基本的な単語の合成の仕方っていうのは、中国語と同じ。“読書”って言ったら書を読むっていうことのわけです。

 そういうのを漢文で昔皆さん習ったと思うんですが、“理論と論理”っていうのがひっくり返っているのが、非常に不思議な話でありますね。ということはどういうことかというと、実は“論理”という言葉も“理論”という言葉も、かなり最近になって具体的には明治維新以降だと思いますが、要するに海外の言葉を日本語に対応するものに置き換える、そういうことを通じてしか理解することができないということを考えて、翻訳言葉を造語してしまった。作ってしまった。元々、中国語に論理と理論という言葉、それがあるかどうかについて私は知りません。中国人が考えたとしても“理論と論理”というのがもし中国語に対応して存在しているんだとすれば、これはもっとそのルーツを探るのは面白い研究課題ではないかと思うんです。私は、おそらくその二つがこのように混同されていることからして、それがヨーロッパの文化文明を理解するために、近代の西洋文明、西洋文化に疎かったアジアの人、特に日本人が作った言葉ではないかと思っております。もしかしたら中国人が既に先駆的にそのようなことに取りかかっていたのかもしれません。

 文明・文化っていう言葉を使いましたが、この言葉も非常に翻訳言葉としてはあまり正しくない。文明って訳されているのはcivilizationということですね。civilization、英語で言えばcivilization。civilizationとはcivil、civilとは市民ということですね。「市民化している」ということです。地域の中に人々が集まって、そこに文明を作っている。これがcivilizationでありますから、もし言葉をそのまま訳すとすれば都市化、あるいは今日本でいえば都市圏集中化とか、そういうようなニュアンスを持った言葉であって、“文明”、文章が開かれる、文が開かれる。これは全くおかしな話で、そのcivilizationという言葉に出あった初期の知識人たちが、やっぱり圧倒的な西欧文明に対して、非常に心を突き動かされ、あるいは劣等感に苛まれて、その中で“文明開化”というような言葉をキャッチフレーズにしたのに違いないと思いますが、何かその文章で作られた歴史が開かれていく、開明的なそういう雰囲気。これが“文明”という言葉の翻訳に隠されているような気がするんです。本来の意味でのcivilizationというのは、要するに人々が集まって、そこで大きな都市のようなものが形成される。都市が形成されることによってそこに人々が集中しますから、当然そこで知の蓄積というのもあるわけでありまして、その知の蓄積成果をcivilizationっていうふうに言ったのだと思うんですね。言ってみれば、都会の大文化に憧れる田舎の青年たちから見たときの都会のあり方、それがcivilizationの元々の持っている言葉の語感だと思います。

 他方、文化っていうのはcultureって英語で言いますね。“カルチャー”とカタカナで書くと、何か非常に軽薄な感じで軽々しい。しかしこれは元々cultivate耕作する、耕すという言葉と同じ語源でありまして、ドイツ語で言えば、まさにcultureに相当する言葉kulturクルトゥワっていう言葉の翻訳なんですが、私達が農耕する、田畑を耕す、そしてそこに食物を植え、育てる。長い時間をじっくりそこでかけて、実りを得る。そういうのを文化と言ったわけです。このような例えば稲作文化、これは1人や2人の工夫、発見できるもんじゃないですよね。すごくたくさんの人々のたくさんの叡智あるいは涙と汗と、本当に苦労の結晶のようなものでありますね。そういうふうにして人々が脈々と受け継いできたもの。それを“文化”というわけで、その文化の中には、風習とか習慣とか、あるいは昔からのなんていうんですかね、伝統というかそういうのもあるでしょうし、そういう風習の中には、祭りとか踊りとか祝いとか儀式とか、そういう人間生活を支えるありとあらゆる要素がそこに入っているわけですね。それを「文が化ける」というふうに訳した人は、どういう感覚だったのかわかりませんけど、おそらく“文”という言葉が当時の人々にとっては、知的な作業を、人間の知的な作業、知的な叡智って言った方がいいかもしれません、それを象徴するものだったんでしょうね。文字を通して、何かを残す、あるいは何かに伝えるこれが、基本だったんでしょう。ですから、文明にも文化という言葉にも“文(ふみ)”という字が使われています。

 このように、“文明・文化”という訳にしても、本当はよく考えてみるとおかしいんですが、私が典型的におかしいと思うのは“理論”と“論理”です。そして、その二つはどういうふうにすれば整合的に説明がつくのか、中国語の専門家がいらっしゃれば伺いたいところですが、私はそれについて考えることは好きですから、それについて唯一の正解があるとは思っていないので、むしろ「それは誤訳である。訳として翻訳として間違っているんだ」というところから出発したいと思うんです。まず皆さんにとってわかりやすい“論理”ですが、“論理”は英語ではlogicと言います。logicっていう言葉、最近では「logicalに考えようよ」と、logicalだなんて言葉も日本語になってしまって、本当にこの人はlogicってことを知っているのかなって心配になることがあります。なぜかというと、logicの語源になった言葉は、実はラテン語ではなくてギリシャ語のlogos(ロゴス)という言葉でありまして、logosという言葉は、この単語は非常に難しい言葉で、いろいろな意味がある。最も有名なlogosの意味は“言葉”という意味で、新約聖書のヨハン伝の冒頭に、「最初に言葉があった」という、その言葉があったと訳されている言葉とは、logosなんですね。「最初に言葉があった」とヨハネが書いたのは、それがどういう意味であったのか。おそらくその日本語訳聖書を読むだけだと意味が通じないと思うんです。それはlogosという言葉が持っている多義性、つまりいろいろな意味ですね。そのことについて全く理解してないと通じないということです。この中でクリスチャンの方はlogosに関するいろんな神学的な注釈を聞かされていると思いますが、それともちょっと違うお話をしたい。

 それは、このlogosという言葉は“理性”と訳される言葉でもありまして、“合理性”というような言葉ですね。人間が持っている論理的な推論。ですから、「初めにlogosがあった」と、そのlogosは“言葉”と訳さずに、「初めに“論理”があった」と訳しても間違ってはいないわけですね。“言葉”と“論理”、これは表裏と言ってもいいくらい密接な関係を持っていて、言葉による表現というのは、極めて精密にきちっと相手に情報を伝えることができる。自分自身に情報を伝えるのを、自分で考えるというふうに言うわけですが、その自分自身で考えるときにも“言葉”というのが重要な武器になる。ですから言葉を大切にしない人は結局考えてない人ということになりますが、そのギリシャ語のlogosという言葉、単語、その単語の中に、“言葉”という意味と、“理性”あるいは“合理性”、そういう意味がある。さらにもっと意味があるですね。logosには “比”という意味がありまして、その“比”のことをlogosと言ったわけです。その“比” logosをラテン世界ではratio(ラティオ)というふうに翻訳しました。私達の英語とかフランス語とかはラテン語をベースにしていることがしばしばあります。ギリシャ語が語源のものもあるんです。でもラテン語に由来するものが多いので、例えばratio(レイシオ)という言葉はgear ratio(ギアレシオ)って言葉、ギア比ということは自動車のギアチェンジのときのギアですね。その歯車の数の比、歯数の比っていうのをgear ratioって言います。“比”という意味もあるんですが、ratio(レイシオ)という言葉には元々のギリシャ語のlogosにあった“言葉”とか“合理性”って言葉が背景にあって、ratio(レイシオ)あるいはラテン語のratio(ラティオ)、ratio(ラティオ)という言葉には、その“理性”とか“合理性”という意味も隠されている。さらに“比”という意味も隠されているんですね。ですから、「比を持つ数」、二つの整数の比で表される数。普通私達は“有理数”と訳していますけど、これは無教養な先人を私達は持ってしまったという不幸であって、別に有理数は「合理的な数」という意味ではない。「理性がある数」でもない。そうではなくて、単に「整数の比で表される数」というだけの話なんですね。それがrational  No. rational というのはもちろん英語には合理的なっていうのもあるわけです。それはラテン語ratioって言葉が元々持っていた語源の意味を考えればわかるわけですね。

 そういうわけで、「論理ということは何か」ということについて語るときに一番重要なのは、それは私達が普通に使うとき、「言葉を正しく使っているかどうかということについて、精密に考えている」ということです。言葉をいい加減に使ってないということですね。私が最近の言葉遣いについて何か文句をやたら垂れるのは、最近の風潮を嘆いているんではない。そうではなくて、言葉を正確に使うという習慣がない人は、結局論理にも疎いということになってしまうのではないか。私達からもし“論理”という武器を剥奪されたら、私達は権力に迎合することしかできない。しかし私達は、“論理”というこ言葉を武器として、最後の最後まで正々堂々と、胸を張って戦うことができる、と私は考えているんです。

 ですから、「論理的であるということはとても大切だ」というふうに考えるんですが、一方、数学は論理的であるということ、これは数学において証明を書くときに必須要件でありますが、数学において「論理が最高の価値と数学者は考えているか」というと、全くそうではないんですね。そのことが世間ではあまり理解されてません。数学をやっている人はみんな論理的かというと、私の知っている限り、私の身の回りの数学者たちはおよそ論理的って言うタイプの人が少ない。例外的にしか存在しない。むしろ非論理的非合理的な振る舞いをする人が少なくない。もちろん数学の証明を行うときには論理的ですけど、日常生活からして、あるいはその人の生活信条からして、論理的であるかっていうといささか疑わしい。私自身も含めて、“論理”は私達が権力とかそういう力と闘うときの道具であって、私達の目的ではない。私達が証明を書くというのは、「その証明でもって定理を人々に説得したい」と思うからであって、決して私達自身が考えるときに、いつも論理的に考えているんではない。むしろ心の中での、そのイメージってよく日本人は最近いますけど、心象風景っていうふうに言った方が少し正確でしょうか。心の中で描かれたデッサンのようなもの、そういう景色をより確かなものとして他の人と共有するために、定理を書き、証明を書くわけです。そのために使われるのは“論理”という道具なんですが、論理学というふうに論理そのものを対象とする学問というのは、数学外にあります。

 面白いことに、その論理学という昔からの哲学の一つの本流でありますが、その「論理学さえも数学的に語られねばならない」ということが19世紀に発見されるわけです。19世紀に、本当に19世紀冒頭に、イマヌエル・カントが「論理学に関してはアリストテレス以来なんの進歩もない」というようなことを言ったとか言わないとかっていう話がありますけれど、「20世紀になっても、哲学はプラトンのコメンタリーの集積にしか過ぎない。」そういう名言もありますが、それは置いとくとして、論理学に関して全然前進してないとカントがそういう名言を吐いた直後に、論理学は偉大な革命を成すわけです。論理というのは、いろんなレベルの論理があって、皆さんがよくご存知の「真であるか偽であるか。その二つしかない」というのを、二値論理、二つの値を持つ論理と言うのですが、その二値論理だけであれば話は簡単なんですが、私達が使う言語っていうのはそれよりももっと複雑なわけですね。ですから、論理的に思考するといっても、二値論理だけであれば、かなり素朴にきちっとした体系を作ることができ、数学の範囲内であればほとんどそれでカバーすることができる。「ほとんど」っていう言葉がちょっと怪しいところがありますね。「全部」って言わない理由は、論理学の視野というのは、19世紀の先人たちが開拓した論理学の世界の地平線よりもはるかに超えて進化しているわけです。そして、論理学自身が数学化したことによって、数学的に厳密になりましたけど、厳密になるということは、最終的には“公理”というのを決め、そして推論規則というのを決める。そのことによって何が推論されるかっていうことを数学的に演繹するということになります。しかし、公理的な方法の最大の欠点として、公理で使われている単語の意味について、突っ込んでそれ以上考えるということについては、方法論的に思考停止する。それについてはあえて考えないことにするという、いわば論理的な限界があるわけです。

 そういう意味で、数理論理学というのも大いに発達してきていて、数学ではそういう分野も一つの分野として研究している人もいるくらい重要な分野の一つだと私は考えております。そのように論理というものは、素朴に私達がこれは論理的っていうふうに気楽に言うほど、論理的に明快ではない世界であるということです。にも関わらず、私達は素朴な意味での「論理的に推論する。論理的に語る」ということを通じて、私達は、私達の思想、考えている内容、それを他の人に的確に伝えることができるんだということです。そういう意味では、数学的な論理学、数論理学によって偉大な前進があったんだと言いましたけれども、その偉大な前進で全ての問題が解決したというわけでは必ずしもないということですね。にもかかわらず、通常の意味での、つまり私達の日常生活を送るそういうレベルでの“論理”に関して言えば、私達はそれを十分精密に語ることができるというふうにみんな確信している。そしてそこへと精進しているということです。

 しかし、それは数学における最も大切な価値ではないということです。今日最初にお話した“理論”とは何なのか。“論理”をひっくり返したんだから、論理的でないことを“理論”というのか、というともちろんそうではないですね。英語では、theoryという言葉があります。theoryという言葉はギリシャ語から由来する言葉で、θεωρία(テオリア)というギリシャ語。昔はテオリアの翻訳として、“観照”というふうに訳した人もいるくらいでありますが、要するに世界の中にある本質を反省的に捉え返して、それを一つの認識の大きな枠組みの中に組み入れて理解するということ。言葉を使ったことを定義するのは難しいんですが、theoryは普通、理論と訳され、theoreticalは理論的と訳されますが、「理論的とはどういうことか」というと、それは言ってみれば、「数学的」といいましょうか、あるいは「自然科学的」っていうふうに今だったら言ってもいいでしょうか。ある前提に基づいて、この前提条件のもとであったならばこういうことが結論することができる。そういうこと。それを説明するのが“理論”でありますね。例えば、重力っていうのは働いている。とこういうふうに考えることによって、月が地球の周りを回転している。あるいは地球が太陽の周りを回転している。これを説明することができる。これはまさにニュートンがやったこと。偉大な大議論であります。別に、地球が太陽の周りを回っていようと、地球の周りを太陽が回っていようと、そんなことは神様から見ればどうでもいいことで、Galileo Galileiの地動説を教会が弾圧したなんていうのは全く作り話でありまして、そんなことはどうでもいい。そう思いませんか。ところで、理論としてどちらが優れているか。これはなかなか難しい点でありますけど、Galileo Galileiのレベルだと、どっちでもいいって言ってもいいくらいなんです。しかしながらニュートンのレベルに来ると、やっぱり地動説というのは明らかにかなり偏った思想であると。むしろ太陽の周りを太陽系の惑星が運動しているんだって考える方が、都合がいいわけですね。

 しかし、それは理論であって、真実がそこにあると、ニュートンもそんなことは誰も主張してない。本当の事実としてどうなのかということは問題にしてないんですね。そうではなくて、いろんな惑星の不規則な運動、見かけ上不規則な運動というのは、どのように単純な数学的な原理に基づいて説明できるか。「現象を説明する。」これが理論なんですね。今の科学も基本的にそういうことで、その理論があって、現象を説明ができる。現象を説明するために議論をいかに精緻に組み立てるかっていうのが、言ってみれば理論者さんたちの活躍する舞台でありまして、その宇宙論なんかにしても、宇宙始まって以来138億年とかいう計算がありますけど、それも理論的に計算した数値でありますね。その理論が正しいかどうかっていうのは、壮大な理論体系が、言ってみれば観測とか観察とそういうデータを説明し切ることができるか、説明できないような現象が絶対ないっていうふうに断言できるかどうか。そういうことで、理論の力強さが決まっているわけで、分野によってはこのときはこういう理論、このときはこういう理論でこういうふうに使い分け、そういう科学の分野がいっぱいありますけれども、それは科学が未成熟だからで、本当は一つの理論でもって全部を説明したいとみんな考えている。

 でも、その最先端の物理でさえ、素粒子レベルの本当に微地な世界。そして、私達を取り巻く日常的な世界。そして、広大な光も届かないような宇宙の果ての世界。こういうような世界、三つのいわば層の異なる世界を統一的に説明する理論というのは、未だにできていない。特に宇宙論で、今一番重要な話題となっているブラックホールとかいう話と、素粒子、原子核の中にある陽子とか中性子そういうものを作っているさらに小さな粒子。そういうものとの振る舞い、それを記述するレベル、それと統一するっていうことが絶望的に難しいんですね。

 そういうわけで、一つの理論で全てを説明できる。これが、私達の夢と言ってもいいわけです。人類共通の夢でありましょう。しかし理論というのは所詮そんなものでしかないわけです。でも壮大な理論を作りたいというのは、全ての科学者、数学者も含めて、学者のみんなが持つ夢ですね。願い、願望あるいは野心です。何かを発明して特許を取って一発儲けよう。そんな小さなせせこましい野心を持っているような人たちは、自然科学の研究にはふさわしいとは思いません。そういうちっちゃな野心ではなくてもっと壮大な野心をみんな持っているということです。theory、理論というのは、所詮そのようなものでありますから、絶対的な真理じゃありません。それは人間が作ったものですね。人間が心の中で感じた風景、それに過ぎない。だから、英語はまさにそうなんですが、英語でtheoreticalというふうに言うと、理論的っていう良い意味もありますけど、机上の空論、実際には意味ないんでしょっていう、そういう否定的なニュアンスもあるんですね。日本では、理論物理学という言葉に象徴されるように、理論というのは非常に尊敬するべき高尚なっていう、そういうニュアンスを持って使われていると思います。しかし、英語のtheoryとかtheoreticalという言葉には、ちょっと侮蔑の意味が含まれている。そういうこともぜひ知っておきたい言葉だと思います。しかしながら、私達は、数学という世界。論理だけで語れない世界。しいて言えば、数学的美の世界。数学的美っていうとキザですから、数学的な秩序を探求する世界、数学的な高い山脈の連なる美しい世界。そういうものを論理と理論という二つを道具として、開拓していくわけです。ある意味では、英語のtheoreticalに象徴されるような否定的なニュアンスも、あるかもしれません。所詮数学者は頭の中だけの世界で満足してるんでしょ。そういう否定的な見方もあるかもしれませんが、しかし、数学における数学者がいたくあらゆるイマジネーションあるいはクリエーション想像力的な世界、それも実は現実世界の様々な事象、その中にある本質を見抜こうという努力の中で築かれている理論なんだということを、皆さんにお伝えしたいと思って少し長くなりましたが、このお話をさせていただきました。

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