長岡亮介のよもやま話304「論理という言葉を気楽に使うことにあえて逆らいたい」

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 テレビなんかのニュースを見ていると、そういうところで喋っている人、おそらくご本人たちはオピニオンリーダーと思っていらっしゃるんだと思いますけれども、オピニオンリーダーたるべき人の喋る言葉として、あまりにも不正確ではないかと思うことがあるんですね。私はこういうことを言うからといって、決していわゆる「言葉狩り」というのが好きなわけではありません。ちょっと人の揚げ足を取って、その言葉に傷つく人がいる。その心もとない言葉使いが人々を傷つけているということに気がついてない。パワハラとかセクハラとかアカハラだとか、そういうことを騒ぎ立てるというつもりは全くありません。むしろ私は、人と人とが懸命に一生懸命になって語っているときには、当然相手の感情を害すような表現も含めて、いろいろな言葉が飛び交う方が自然であると思っています。そんな時に一切相手の心を傷つけない。最近の人は、「心が傷ついた。ちょっとがっくりする。自分としては頭にきた」というのを、トラウマに囚われたと、大げさな表現を使うんですね。私は子供の頃はノイローゼって言葉がやたら使われました。最近はそれに代わって「トラウマ」って言葉が使われます。元々由緒ある言葉で、ほとんどの使い方が間違っていると私は思っているんですが、今回はそのお話はいたしません。

 今世界で、全世界と言ってもいいと思いますね。地球のあらゆるところで、決して小さくない紛争、本当に人々が何人も犠牲になる、そういう戦争が起こっている。皆さんもよくご存知のことだと思います。私はこのよもやま話で、ロシアとウクライナとの間の争い、これもずいぶん取り上げてきました。そして我が国における報道があまりにも一方的だという話もしてきました。今、世界の注目は、イスラエルとガザの問題に移っているような気がします。私は、それと同じくらい、本当はものすごく深刻なRed Sea紅海って言われているところに、イエメンのフーシ派と言われる勢力、これはイエメンの少数派なんですけども、大きな領土を支配していて、実際は国の中での内戦状態、内戦と言ってもかなり大がかりなもの。そのフーシ派と言われる人々が、紅海を通る一般の商船に対してミサイル攻撃をする。とんでもない挑発行為をしているわけでありますね。アメリカ軍がそれに対して、実際はミサイル攻撃はなされていないという話も含め、風フーシ派のミサイルの拠点に対する爆撃攻撃なんかをしているという話も聞きますが、これは決して宗教の問題ではない。イスラム原理主義者たちが、西側諸国に対して戦いを挑んでいる。キリスト教諸国対イスラム諸国の戦いというのでは決してない。ましてユダヤ教対イスラム教の戦いというのでもない。イスラム原理主義者を名乗る人々とアメリカ型の秩序を維持しようとする西側諸国との大きな対立、それを軍事的な対立にまで深めることによって、世界全体の世論に対してある一定の圧力を行使しようと思っている人々がいるという現実だと思うんです。その現実も私達は国際報道で入ってくる。日本で目にするニュースだけではなくて、例えばイエメン情勢、イエメンの子供たちがいかに飢餓に苦しんでいるか、そのイエメンで戦っている、本当に勇気ある戦いをしている国境なき医師団のドクターたち、あるいは看護師さんが頑張っている姿は、全く私達の方には入ってこない。表面的な軍事的な対立だけが話題になっていると思うんです。

ちょっと前置きが長くなりましたが、このようなときに、その評論家と名前のつく人々が、極めて奇妙な言葉遣いをしている。それは、「ガザ地区に住むパレスチナ人の論理に立つと」、「イスラエル側の論理に立つと」、あるいは「ネタニヤフ政権の論理に立つと」、「フーシ派の論理に立つと」、「論理」っていう言葉を、言ってみれば、「その人たちの立場からすれば自然出てくる発言」というものを、勝手に「論理」っていう言葉に置き換えてしまっているんですね。私はそれに対してものすごく腹立たしい思いがするわけです。なぜかっていうと、「論理というものは常に、自分の持っている論理に欠点がないかどうかということを緻密に点検することを通して、普遍性を目指す。決して自分の内なる論理だけで完結しない」というところが論理の大切なところでありまして、論理が言葉と言われること、ロゴスという言葉に起源を持つ通り、まさに「人の言うことを聞く」というのが大前提になっているわけですね。言ってみれば、屁理屈あるいは理屈と言ってもいいですね。一方的な理屈、それはあってもいい。よくある話です。子供の屁理屈。子供は「みんなこういうふうにやってるよ。みんなやってるよ。」「みんなやってる」って子供たちが言うときには、そうやってる人が少なくとも1人存在するという程度の意味ですが、子供たちはしばしばそういういますね。そういうのは子供の理屈です。子供はそういうふうにして大人にはむかう。理屈を述べる権利がある。そういう屁理屈を通じて、次第しだいに大人になっていく。屁理屈では通用しない世界に出会って、本当に緻密なロジックを組み立てなければならないということに気づいていくわけではないでしょうか。

 それが論理であって、局所的に自分の内、自分の見方、あるいは自分に都合の良い人々の間でだけ通用する、そういうのは屁理屈あるいは理屈であって、論理とは言ってはいけないと思うんですね。論理という、いわば私達の個人を超えた非常に普遍的な大きなものに対して、私達は常に謙虚に向かっていかなければいけない。これが話し合いとか平和というものの基礎であって、私達がもし「私達の理屈というのは全てである」と、こういう立場に立ってしまった途端に、私達自身もまた一つの原理主義にとらわれているということになってしまうのではないかと思うんです。「あんたの理屈はわかった。しかし私の理屈も聞いてくれ」と、お互い理屈をぶつけ合って、その理屈の中から本当に普遍的な論理というものを探る。ときには妥協ということもあると思います。折り合いをつけるということも大事かもしれません。しかし本当に大切なのは、お互いに心から納得する。そういう結論に落ち着くことですよね。でも実際には、私たちの世の中では、理屈をぶつけ合うだけで相手の言うことは聞かない。そういう一方的な理屈。そういう屁理屈が、論理の名前でまかり通っている。現実の社会というのはそういうものだと思いますが、現実の社会にある論理を論理と言ってはいけない。

 論理学というものはアリストテレスの時代、古代ギリシャの時代からあるのですけれども、その論理学が近代になって数学的な論理学として整理される時代が来ます。それが本格的に整理され始めるのは19世紀の後半からなんですが、残念ながら19世紀後半に始まる論理学、数学的な論理学が一般の人々の常識になっていないのは、とても残念なことですが、近代的な論理学に向けて最初の一歩を踏み出した、非常に小さな一歩でありますが、「真と偽」という二つの論理、二値の論理に踏み出したのは有名なライプニッツであるわけです。ニュートン、ライプニッツというと微積分の祖というふうに言われて、数学者として有名だというふうに思っている人が多いんですが、私に言わせるとニュートンとライプニッツは、自然科学あるいは数理科学全般に関しては、比較にならないくらいニュートンが偉い。ライプニッツがやったことは、ニュートンのやったことのほんの一部分でしかない。これを並列的に論ずるのはいけないと思います。しかし、ライプニッツにはライプニッツの偉大さがいっぱいあって、その一つが、ライプニッツは外交官の仕事をしていたということもあって、国同士の間の対立を収める上でできるだけ冷静に論理を進めることが必要である。そういうふうに考えたんだと思います。そしてこんにちの言葉で言えば、「命題論理」と言われているものの基礎、コンピュータで計算できるような論理、あるいは人工知能で計算できるような論理、そういうものの基礎づけというものに彼は関心を持っていたわけです。「真と偽」と言われるものですが、西洋人にありがちな「真と偽は完全に裏表であって、真の世界には真だけが、偽の世界には偽だけがある」というのではなくて、真と偽が入れ替わるような、言ってみれば東洋的なというか、韓国文化的な「陰陽の思想」、そういうようなものにも関心を持っていたということでありますから、ライプニッツの論理学に関する洞察はなかなか先駆的なという面もあったというふうに思います。けれども、ライプニッツ自身は論理学をきちっと体系づけるっていうことはできませんでした。もちろんライプニッツは、今のコンピューターの元祖と言われるような仕事を残しているわけですが、こんにちのコンピューターには遠く及ばないものしか想像することはできませんでした。

 私達はこんにちコンピュータを用いて、言ってみれば生成AIと言われているものに相当するような、ああいうものを論理と言っていいかどうか私は甚だ疑問でありますけれども、それでもちょっと複雑そうに見えるロジックを使いこなすというところにまでは来ているわけでありますね。全くボンクラな人間よりはよほどまともなことを言う。しかし、よほどボンクラな人間と比べればという修飾が必ず必要で、本当に聡明な人に打ち勝つというものにはなっていない。残念ながらそれが人工知能の現状でありますけれど、今後100年もたてばどうなるかわかりません。

 しかしながら、少なくとも局所的に自分の身の回りで通用している理屈、そういうものをイスラエルの論理とか、パレスティナの論理とか、あるいはフーシ派の論理とか、イランの論理とか、そういうふうに言うべきではないと思うんですね。それはローカルな理屈にすぎない。子供の屁理屈にすぎない。そういうふうに、論理というものをもっともっと大切にしていく。こういう姿勢こそが重要であり、そしてその論理、普遍的な論理での合意を達成するために、私達がまず必要なのは相手の言うことをよく聞くこと。そしてよく聞いた上で、きちっとした反論をすることですね。その理屈に入った途端にもう相手の言い分に100%屈する。そういうのは論理に従っているんではない。言い分に負けているだけだと私は考えるんですが、いかがでしょうか。

 ちょっと今日は腹立たしいことを聞いたので、論理という言葉を気楽に使う風潮に対して、あえて非常に厳しく反応させていただきました。理屈と論理っていうのは変わらないじゃないか。論理ということをその程度にしか思ってない人にとっては、私が何をそんなにしゃかりきになって怒っているのか、通じないかもしれません。でも私にとって論理というのは論理だけが全てではないということを知りつつも、私にとって論理というのは最終的に人と人との平和を実現する上で最も大切にしなければいけないもので、決して屁理屈で相手の論理を認めてはいけない。あくまでも平和のための論理を目指して、頑張って調和点を見いだしていく努力を継続しなければいけない。そういうふうに考えている次第です。皆さんきっと反論があると思いますので、がんがん反論をいただきたいと思います。

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