長岡亮介のよもやま話303「よそよそしさとなれなれしさについて昨日考えたこと」

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 今日は、「親しみやすい」ということと「馴れ馴れしい」ということの、とても似ているけれど全く違う側面について、考えてみたいと思います。何かよそよそしく振舞っているとか、偉そうに振舞っているとか、そういう場面に出くわすと不愉快になりますね。何かよそよそしい、最近はネグレクトっていうような言い方もあるようですが、人と人との交わりっていうのは本来、なんていうか、奇跡的なことでありますから、その奇跡的な出会いの交わり、あるいは交わりの出会い、そういうものに出くわしたときに、それを心から慈しむ気持ちで大切にする、ということが基本ではないかと私は思うのですけれど、それをよそよそしくする、知らんぷりするというか、自分はそれと別世界の人間であるというふうに振る舞うということは、あまり好ましいことでありませんね。

 私も時々よそよそしく振る舞うことがないわけではありません。それは、ある種のグループに入ったときに、その人たちの言っている会話、あるいはその人たちの醸し出す雰囲気が、自分としてその中にいることがいたたまれなくなるそういうときに、自分はその集団とはちょっと違うところにいたいという気持ちから、あるいはその集団の醸し出す臭いから遠ざかりたいというような気持ちを真に感じて、それをつい「それは自分とは別のものだ」というふうに振る舞いたくなる。特に何というか、括弧付きな「上品な人たち」、括弧付き「上品」というのはものすごく下劣な雰囲気ということですね。自分の出た学校を、いい歳ながら今だに学歴について語っている。そういう人に出会うと、「本当にこいつ馬鹿だな」と思ってしまいます。学校を出たならば、その後どういうような苦労をして、あるいはどのような栄光の人生を歩んできたか、そういうことについて語るのはいいですけど、自分がどんな良い学校を出たか、そういう話をいい年こいて今だにやっている。「昔の思い出の中でしか生きられないのかよ、こいつら」って、そういうふうに思うことがないわけではありません。もちろん、昔の仲間と会ったときに楽しい思い出、語りつくせぬ思い出、それに夢中になって没頭して話すっていうことありますよね。

 それと私が言っていることは全く別ですね。私が言っているのは、「あれはどこどこの出だから。彼はどこどこの学科出身だから」、そういうような感じで、さも自分たちが偉そうなふりをしている。私は人間として、下劣このうえないことだと思うんですね。戦前の日本の文化の中に、ある意味でそういう学歴主義の非常に悪い側面があって、それが戦後70年以上も経って今だにそういう文化が生きているということ自身が奇跡的なんですが、要するにやはり学歴信仰というものの持っている人々に対する支配力、そういうものに頼らないと生きていけない人々の気持ち、それを考えると本当に情けなく、いたたまれない気持ちになってしまうわけです。そういうとつい私はよそよそしい自分を演じてしまいます。「僕は君らとは違うんだよ。僕が考えていることは君らとは違う。僕の関心はそういうとこにはないんだ。」そういうふうにしたくなっちゃうんですね。そういう自分が本当に自分の好きな自分、自分の肯定する自分というわけでは決してありませんけれど、ついそういうふうになってしまう。人にやはりよそよそしくするよりは、慈しんで接するその人たちとの出会い、それが自分の人生に持っていた意味に感謝しながら、私の場合は美味しいお酒を飲むというのが大きな楽しみであるわけです。けれども、その反対になってしまうってこともないわけではないっていうことを告白いたしました。

 一方で、私は反対に馴れ馴れしい人、これは私は苦手なんですね。何でもとっても親しげに寄ってくるんですけれども、結局それは私に対して何かをしてもらいたい。どういうことか、例えば有名な人との紹介をしてほしいとか、商売へのきっかけをもらいたいとか、お金を斡旋してもらいたいとか、いろいろあるんですけど、私自身その力はありませんけれども、私の知り合いの中でそういう力を持っている人がいるに違いないということで、すり寄ってくる。そういう馴れ馴れしい人がいます。そういうときにある緊張感を持ってきちっと接してくれればいいんですけど、やたら馴れ馴れしい。その馴れ馴れしさによって、打算的な接近を正当化しようとしているんではないかとさえ思うんですね。やはりちゃんと名前できちっと相手を呼ぶというのは大事だと思うんですね。「俺、お前」という本当に気さくな仲であるということも大切ですけど、そういう気さくな仲でないときに、そういう気さくなふりをされるのは非常に不愉快に感じます。

 私がこのことをお話しようと思ったのは、先日テレビの学校ドラマで、学校の風景が映し出されて、学校の風景っていうのが今時の学校というのをまさに象徴するように作られていたからなんでしょう。学校の先生たちが言うことは実にくだらない、本当の知識の断片のようなことで、本当に一つ一つはくだらないわけです。そしてくだらないことを、「ここのところ大切だからきちっと覚えておきましょう」とか、「ここんところ大切だから、赤線引いといてね」とか。大体先生が生徒に向かって「何々してね」とか、「ポイントだよ」とか、そういう馴れ馴れしい言葉を使うということ自身が私から見ると気持ち悪い。子供にとって先生とはずいぶん年代が違うわけですから、友達言葉で話しかけるなよ、と私なんかは思うんです。生徒は生徒で、「先生、ここんとこわかんないんだけど」とか、そういうことを言う。「わかんない」とかそんなことを先生に向かって言うなんて、なんていうやつだと私は思う。「先生ここんところ、せっかく教えていただいたんですけど、どうしても理解できません。もう一度説明していただけますか。」そういうふうに言われたら、先生は「いいか、もう1回説明するからよく聞くんだぞ」という話になるなら、それはそれでわかる。私の時代であれば、「1回説明したことがわかんないないのは、お前が頭が悪いからだ。もう1回しっかり勉強してこい。そうしてから聞くんだ。」人に質問する前にまず自分で考えろ、と教えたと思うんですが、今は「質問ありませんか。大丈夫ですか」と、先生が言うんですね。前に話した話ですが、「大丈夫ですか」っていうのは、転んで怪我をしなかったか、そういうことを尋ねるときの言葉であって、「ここんとこわかってますか。大丈夫ですか」って、そんなこと先生が聞く方がおかしいと思うんですね。先生と子供たちの緊張関係っていうのが失われて、すごくだらしなくなっている。学校で勉強を終えて帰る子供たちに、「お疲れ様です」とういうようなもし挨拶言葉が交わされているとすれば、私はとんでもない言語道断だと思いますね。先生たちに向かって子供たちが、「今日もありがとうございました。しっかり家に帰って勉強します。先生の教えをありがたく自分の中で消化できるように努力いたしますのでよろしくお願いいたします。」そういう挨拶するのはよくわかります。それが、全くそういう緊張関係はない。

 小学生であれば、そんな緊張関係がない方がむしろ普通で、先生と親しく交わるということが理想的なのかもしれません。私自身は小学生の頃習った先生とは年齢の差で私が6歳で向こうが22歳だとすれば、16年の違いでありますが、もう圧倒的な差、絶対的な差でありまして、本当に先生は偉大な存在だというふうに思いました。偉大な先生が、決して「先生」のようにして、何とかいかにも先生らしく、ふんぞり返っているんじゃなくて、「亮介くん、今日は元気かい」って、そういうふうに声をかけてくださった。これも、とても嬉しい思い出の一つです。先生に声をかけてもらえた。それだけで嬉しい。しかし、近頃私がテレビで見た先生は、「ここはね、大事なとこだから、覚えておくように。これを覚えておかないと試験に出るよ」とか、そんな脅迫まがいのまるでヤクザのような先生だと私は思いました。でも、皆さんだったらどう考えますか。何か当たり前の常識がここまで破壊されているんだということを、たまたまテレビで知ってびっくりしたという次第です。

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