長岡亮介のよもやま話301「状況という言葉も知らない“オピニオンリーダー”の蠢く日本社会の深刻な状況」

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 教師というのは、「教える師」と書きますね。“師”というのは“師匠”という言葉にも使われるように、非常に重要な意味を持った言葉でありまして、日本ではもう“師”っていう言葉を使うことが極端に減っていますけれども、中国では今でも先生という意味のことを、日本の年老いたという老に師を書いて、“老師(ラオシー)”、私は発音があまり良くないのですが、老師というふうに言うのが一般的です。年取っているということではなくて、相手を敬う言葉ですね。先生って言葉は中国にありますが、それは何々様という程度の軽い尊称で、教える人に対して、あるいは人に道を説くという崇高な仕事、あるいはおこがましい仕事、見方によっていろいろありますが、そういう先生という職業の人に対しては、中国では“老師”という言葉を使うわけです。

 日本でも、先生というのは少なくとも50年くらい前までは、ある種の侵しがたい尊敬を持って、扱われていたんだと思います。もっと70年前とか80年前っていうふうに言うべきかもしれませんが、先生というものが急に地に落ちたのは、太平洋戦争の敗戦を通じて、ついこの間まで軍国主義教育を血眼になってやっていたはずの先生が、突然「これからは民主的な教育だ」というふうに姿勢をひるがえした姿、それを社会にさらけ出したということでもって一気に信頼を失ったのです。が、私自身はまさに戦後に大学を卒業するという非常に若い小学校の先生に出会ったこともあって、戦争に対する負い目はかすかにあったんだと思いますが、それよりもむしろ戦前の軍国主義下での窮屈な暮らしから解放された喜びの中で、これから日本が進んでいくべき民主主義社会への希望を持って、教員になっていらっしゃった。そういう理想主義の先生に習ったのが私にとって大変幸運なことだったと思います。

 戦前からずっと教員を続けている先生たちっていうのは、自分自身の歴史の中で、自分が45歳までやってきたことと、46歳からやることが正反対。その姿を生徒の前に無様にさらけ出すわけですから、こんなに情けないことは人間としてありえないですよね。そういう厳しい体験を担わされた、あるいは背負わされた方々は気の毒だと思いますけれども、戦前の軍国主義教育にその人たちも自ら進んで協力していたということは、その責任は逃れられないと思うんです。そういう意味では、愛国心教育といって、それに協力的でない人に対して「非国民」という言葉を投げつけて、特高警察の手先として動いていた婦人たちも、同様に責任を免れるものではない。私は、国際婦人デーに際して、婦人の持っている大きな役割について語るときに、日本が今の北朝鮮と同じように、いわば当時の支配者を礼賛する、それに迎合することを自ら進んで実行していた。それに反対する人を自ら進んで弾圧する側に回っていた。そのことの責任は免れないということを指摘したいわけです。しかし一般に人々は、そのように醜い行動をとりかねない。そういう人間的な弱さを全ての人が持っている。体制がそのようになったらそれに従わないと生きていけない。生きていくための最低限の知恵として、自分の意思とか思想・信条と反して、というのは自己弁護でありますけれども、それであっても政治的な反対勢力を弾圧する側に自分もあり、言い換えれば、多数派の側に自分がいつもつくということでもって、生きていかざるを得ない。そういう悲しい存在であるっていうことを、私達は本当によく理解しなければいけないと思います。第2次世界大戦時のヒトラー政権が登場してくる中でも、女性が果たしてきた役割っていうのは、小さくないわけでありまして、その女性たちの支持があったからこそ、ヒトラーの政権はあそこまで巨大化したわけでありますね。

 同様のことは、ソ連崩壊後のロシアについても言えるわけでありまして、私から見れば、本当にどうしようもないエリツィンというのは、政治的な一種の権力欲というのでしょうか、そういう政略に非常に長けていて、民衆の支持を集め、最初の、というか第2代の大統領になった。初代はゴルバチョフだったと思うのですけれど、歴史的には正確でないかもしれません。つまり、政権交代するために憲法も修正されてきたに違いないからです。エリツィンが実際上の新生ロシアの最初の大統領だったわけですね。私に言わせれば、彼は「民主化」ということを旗に掲げてはいましたけれども、実際的にやったのは旧ソ連の解体運動でありまして、壊すだけだったならば誰でもできる。そして、その壊すときによほどの叡智によらなければ大混乱を招くという、その歴史の教訓通りの大混乱をロシアにもたらしたわけですね。史上空前のインフレ、そして史上空前の貧窮者、貧乏な人の誕生。ロシアの老人人口が一気に減る。そういう大事件が起こったのもエリツィン政権の時代でありました。それは当然ですよね。あのペレストロイカをゴルバチョフが叫ばなければならないくらいソ連邦が経済的に行き詰まったとき、そのときでも軍人恩給とか、社会的な保険によって救われていた貧しい人々が、「民主主義、自由主義」という美しい掛け声の前で、餓死していくという姿が現実化したわけですから。そのことに対して、エリツィンは痛みも何も感じていない。「これは旧ソ連の体質がもたらしたものだ」というような言い方で、自分の責任を逃れようとしたんだと私は思っています。ともかく、言葉に対して慎重さがない。美しい言葉を使えば、それで人々がついてくる。そして、実際愚かなことに、大衆はその美しい言葉の掛け声に踊らされていってしまったわけです。実際は有名なユダヤ系の大きな資本家が、国家遺産ともいうべき、あるいは国家財産ともいうべき重要な資源の、独占あるいは寡占による巨大な金儲けを許し、その巨大な資本の助けを借りてエリツィンは政治生命を延命する。そういうみっともない最期を遂げ、そのみっともない最後を決して追求されないように、自分に対しては責任を決して追求しないという約束のもとに、プーチンを自分の後継者として選んだわけですね。そして、そのプーチンは何をやったか。エリツィンがやってきた腐敗政治っていうものの一掃という、非常に大胆な改革をしたわけです。独占資本の持っていた財産を没収し、その独占資本の巨大な財産を基金として、もう一度社会主義的な政策運営が可能になる資金を得た。ですから、国民に熱狂的な支持を得たわけですね。それまで生きるか死ぬかのスレスレのところに生きていた人たちに、普通の生活が戻されたわけです。普通の人が喜ばないはずはありませんよね。そのようなことが、ソ連の時代への復古主義的な傾向を持つ人も含めて、プーチン政権の政策に支持が集まった大きな理由だと思います。

 同じことは、日本が明治維新、鹿鳴館、文明開化と、ああいう阿呆みたいなことに惚けていた日本において、本当に文化的な堕落の極致に日本はいたわけですね。財政、富、あるいは財産っていうのは本当に一部の人に、豪商とか豪農とかかつては言われた人々に握られてしまい、90%以上を占める一般市民は貧困のどん底にいた。その中に軍国主義が登場した。軍人は私腹を肥やすということは、日本ではなかった。これが非常に奇跡的なことだと思いますが、軍人は天皇陛下のために命を投げ出して国を守るんだと。国体を護持するんだと。これを大義名分として、私利私欲というのに目もくれず、ひたすら軍国主義の道を歩んだ。ですから、その軍人たちが少々暴力的な事件を中国や朝鮮で起こしたとしても、国民がそれを熱狂して歓迎したというのは、その軍人たちがそれによって私利私欲を肥やしたとは思わなかった、ということが大きいんだと思います。これが、アフガニスタンなんかにあるような軍閥というような軍隊が、種族長のような、言ってみれば既得権限の組織であったならば日本の軍国主義化は決して成立しなかった。極めて奇妙なことに江戸時代の高級武士のように、明治以降の軍人たちは、括弧づきではありますけれど、「大変崇高な軍人精神」に指導されて、軍国主義の道をひた走りに走ったわけです。軍人たちが政治家や財閥を信用しなかったのは当然です。なぜならば、軍人たちは政治家や財閥、金持ちの腐敗を知っているからこそ、自分たちこそが、天皇を中心とする国家体制へと変換しなければいけない、そういう軍事クーデターを何回も試みていたわけでありますね。ある意味では括弧づき「純粋」なんですね。あまりにも素朴すぎる純粋主義ではあると思いますが、あまりにもひどい政治家あるいは財閥・富裕層の堕落を見ていれば、そのような気持ちに若者がなったとしても、自然なことですね。

 このように私達は、私達の過去を振り返るときに、様々な非常に厄介な問題があったということ。それをきちっと踏まえて、明日を見据えなければいけない。そういうふうに思うわけです。そして、昨日までの事柄の全体を一つの問題だけに凝縮して、「こいつの責任である」「軍隊が悪かったんだ」「陸軍大学校が悪かったんだ」と、こういうふうな言い方をするのは、全く間違っていて、悪かったものはいっぱいある。そしてそれが相互に複合的に要因が影響し合って、より悪くなる状況が生まれてしまったんだ。これを“状況”という言葉、フランス語でsituation(スィテュアスィヨン)と言いますね。英語でsituationということですね。状況という言葉は、単一の事柄ではなくて、複合的な事柄あるいは要因といった方がいいですね。その要因が絡み合って生まれる社会全体の総合的な状況と、それを指すのに使う言葉なのですが、私は、現代の日本人が、現代の日本の状況というものに関心を持たなくなっているということに、大変深い危機感を感じている。こんな「国民1億総白痴」、そういうような状況が生まれたっていうことに対して、私は危機感を感じている。もっともっと人々は知的にあるべきだ。もっともっと人々は知的である可能性が眠っているんだと、そういうふうに思う。知的な可能性を権力の力で眠らされている。いわば、本当に洗脳教育のように人々を愚弄している。そういうジャーナリズムに対しても、すごく頭にくるわけです。人々をもっと賢くしなければいけない、そういう責任を持つオピニオンリーダーという名誉ある職業に就いているんではないか。

 最初に述べた先生というのは、まさに子供たちの中に眠っている知的な可能性を開発する。その知的な可能性を発見し育てる。そういう特別のミッションを持った職業だと思うんですね。可能性であって、現在性つまり現在の能力ではない。現在の力だったら年取った先生の方が高いに決まっている。しかし、人間としての可能性っていうことで言えば、学校の先生というのは大学教授も含めて、一般に教えている学生の方に能力が高い学生が存在する。そのことに夢と希望を持って行う職業のはずで、自分たちよりも能力の低い学生たちを集めて、お前たちは馬鹿だからと言っているようなのは、教師の風上にも置けないと私は思うんですね。そういう意味で、オピニオンリーダーというのが大人に対する先生であるとすれば、子供に対する先生が学校の先生ということになります。オピニオンというものが子供たちの中に生まれてくる。それを促す。それが先生の仕事ですね。オピニオンを押し付けるなどというのは先生ではない。まして、現代科学の名において、科学的な教養を人に押し付けるなどというのは、ほとんど教育テレビのレベルの話でありまして、これは最低最悪の教育ですね。今世界では教育とはいうのは何か、TeachingとかEducation、そういう言い方では駄目だ。そうではなくて、Learningなんだというのが世界的な風潮なんです。Teachingがあるとすれば、Teaching of How to One、あるいは先生teacher’s、Teach How to One学び方を教える。それが先生の仕事だ。そういう言い方が一般的になっている。日本は未だに先生が、ただの知識をひけらかしているだけですね。それも陳腐な、何の意味もない知識。何の意味もないというのはいささか大げさで、中には私はいつも言いますが、0.1%の例外の先生はいらっしゃる。それは私もたくさん知っている。しかしながら、本当に大切なのは自分たちの教えている子供が自分たちよりも能力が高い。そういう尊敬すべき相手に対して、先生をさせていただいということ。それを自覚することが、教員としての第一歩だと思うのに、何か自分が専門的なことについて学んだことを振りかざせばいいと思っている。そんな子供たちは専門家ではない。専門家になる前の前の前、そういう段階なわけですね。そういう若い学生に対して、先生たちは何をすべきか。子供たちの中から、知識ではなく知恵が育っていくことをリードする。そういう仕事です。

 同様に、放送とか新聞とかっていうマスメディアの人は、世論を少しでも知的にするように、少しでも相手の意見をよく聞き、自分の状況をよく判断する。そういうことができるようにするために知の世界を広げる責任を負っていると思うのに、そのオピニオンリーダーであるべきものが、実は今日なんですけど、地震があって、その地震があったおかげで、地方局のアナウンサーがいきなりきちっとした台本もなしに喋ることになったせいだと思いますけれど、「現在の地震の状況はいかがでしょうか?」というような、意味のないセリフを平気で言っている。“状況”ということは先ほども言ったように、そんな軽く使われるものではない。例えば、地震が起きて、巨大地震の被害が大きく、そのことによって建物が崩壊する、人が亡くなる、そして重要な社会的な拠点活動に被害が起きる。そういうことによって起こる社会の一般的な諸事件、それを総合したものが“状況”であるわけですが、「現在の状況についてはいかがでしょうか?」こんな馬鹿な言い方を公共放送のアナウンサーが平気で喋る。情けなくて涙が出そうでした。そして、こういうような被害があるたびに、「まだ余震があるかもしれませんから、皆さんには十分気をつけて行動してくださるようお願いいたします。」皆さんが気を付けるのは当たり前ですよね。それを何で人に言われてやらなければいけないのか。それとも人が言わないと、皆さんは慢心して、「地震なんか大したことない。だから平気だ」というふうに舐めてかかって被害に遭うに違いない。そういうに心配してくれているんでしょうか。私は、もしそのように心配してくれるならば、やることがまず先にあるのではないかと。具体的には、「被害について私達は全容を掴んでおりません。小さな情報でも結構ですから、どんな情報であろうとも、詳しい適格な情報を集めたいと思いますので、局に協力してください。情報を次のようなフォーマットでお伝えください。」例えばそういうふうに発信するということには大いに意味があると思うんですね。しかし、肝心なことをせずに、「他から入ってくる、例えば気象庁発表何時何分発、それじゃ大本営発表何時何分と何も変わらない」ということに恥ずかしさを感じないという精神に、私はこんにちの社会状況の危機を感じてしまうのです。

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