長岡亮介のよもやま話300「本当のフェミニズム運動に際して私が思うこと」

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 女性の社会的地位の向上運動というのは、19世紀くらいから非常に活発になり、フェミニズム運動あるいはそういう運動の推進者たちをフェミニストというふうに言ったわけであります。そして、この「女性が男性と同等の侵しがたい基本的人権を持っている」という思想を普及させる上で、大きな力になったのは、皆さんはあまり好きでないかもしれませんけれども、共産主義という理想、あるいはその共産主義という理想社会を築くための社会主義の運動であったということは、歴史的な事実です。

 このある意味で人類の理想主義を目指した運動の過程で、非常に悲惨な事件が起きた。これも歴史的な事実でありまして、当初建国されたロシア中心とするソビエト社会主義連邦共和国、ロシア語ではСССР(エスエスエスエール)と言いますけど、英語にすればUSSR、それの建国直後の事態というのは、本当に人類の最も悲惨な歴史ですね。味方の裏切りあるいは味方の粛清という、本当に地生臭い革命が進行していったわけであります。理想主義というのが、自らの身内を粛清するという政治的な手段によってしか、達成することができないというくらい、人間というのは愚かな存在なのでしょうか。多くの革命において、本当に残酷な血が流されてきました。今は、7月14日を革命記念日として華やかにお祝いするフランスにおいても、その大革命というのは本当に血生臭いものでありまして、今のフランスのパリあるいはマルセイユあるいはリヨンが、そういう大都市が、お祭り騒ぎで沸くような楽しいものでは全くありませんでした。同じことは全ての革命について言えるわけで、ロシアだけでなく中国においても北朝鮮においても、そうであったわけです。最も私達の記憶に新しい革命の非常に悲惨なのは、カンボジアにおけるポルポト政権であります。本当に残忍なことが、理想の名においてなされていたということです。そういう意味では、残忍な政権の代表のように言われるかつてのフセイン政権、あるいは腐食の温床であったと言われるイランの政権パーレビ(Pahlavi)王朝ですね。アメリカの傀儡政権と言ってもいいかもしれませんが、そういう腐った政権のもとでさえ平和があって、それなりに平和が保たれていた。もちろん汚職などに伴うとんでもない事件があったことは間違いないことであります。そして、それにアメリカのCIAなんかが加担したということも、歴史的な事実でありましょう。

 歴史的な事実という言葉を語りましたけど、これはあんまり簡単な言葉ではなくて、いや言葉としては簡単かもしれませんが、それを歴史の中において正しく理解するということは難しいことでありまして、歴史の大きな流れの中に様々な要素が本当に混淆して混じっていますから、その中の本質的な事実を取り出すことはなかなか容易でないということです。いわゆる共産主義国家というふうに名指しされている国々は、私から言わせれば、共産主義国家ではなく全体主義国家あるいは中央集権国家でありまして、権力を中央の1人、極端な場合にはですね、そこに集中させる。あるいは1人を中心とする政治的な権力の中心に全ての権力を集中させる。そういうことに伴う全体主義国家の持つ共通の宿命のようでありまして、今のロシアは「選挙を実施して大統領を選ぶ」という形ばかりの民主制の裏に、「政敵を暗殺する」というようなとんでもない非道なことが平気で行われる。

 これは、いわば昔の歴史を繰り返しているということでありますけれども、では翻って、日本やアメリカ、イギリス、フランス、そういう民主主義を国の基本の価値と置いている国は、果たしてどうなのか。その民主主義という名にふさわしい政治が行われているかというと、やはりかなり危なくなってきているということを、みんな感じているんではないかと思います。アメリカでは、国民の世論が分断されている。極端な世論の方に国民が流れる。そしてその極端な世論に反対する人たちとの間に、大きな溝が生まれているということ。アメリカの中で、民主主義を成立させるための一番重要な「対立する意見どうしの間の対話」が失われている。一方の意見だけがものすごく大きく叫ばれていて、その意見を叫ばない人は共通の国民じゃない、もはや家族ではない。そういう社会になりつつあるということです。

 そのことを聞いたならば、私達が思い出すのは、まさに日本においてもそうであった時代がありますね。軍国主義に一辺倒に、本当に染まった時代。その軍国主義に抵抗する人間あるいは軍国主義を嫌う人間は、国民にあらず、「非国民」というレッテルを貼られて、その軍国主義キャンペーンに加わらざるを得なかったという悲惨な時代があります。今の北朝鮮を見ていると、まさに日本の戦前のいわば軍国主義の末期状態を連想してしまいますが、その末期状態のときに国民が本当に諸手を挙げて軍国主義を推進していた。それに反対する人を粛清するのに、国民自らがそういう人たちを密告するというような、まるで今他の国で行われているようなことが日本において行われていた。その先兵として機能していたのは、「憲兵」という国家の機関、というよりはむしろ「愛国婦人の会」というような、それまで政治とかなんかは男の人たちの仕事ということで表に出てこなかった、婦人たちであったということです。私は、婦人運動というのがとても大切だと思うのは、結局世の中が本当にそう崩れしていくときに、最後にまで健全な精神を保っているのは婦人であるということ。だから、その婦人を健全で強固にすること。十分な知性を持った人として育てること。これが、大変大切なことであると感じるようになったわけです。

 ロシアにおいても、日本においても、韓国においても、婦人が先頭になって愛国主義の宣伝をしている。これはほとんど全体主義国家の末路の状態でありまして、そういうふうに国民が追いやられていくときに、自ら国民がそちらの方向に行くように国民的な運動をするのは婦人たちであるということです。その婦人たちが、本当の意味ではそういう運動を決してしないように、最後の最後の抵抗の砦になってくれるように、婦人たちの知的なレベルを十分高く維持するということが、民主主義国家においてはとても大切ではないかと思うのです。

 最近は家事を夫婦で分担するとか、あるいは女性が出産するときにはその大変な負担を男性の方も等しくあるいはそれと上回るくらい分担しなければいけないというような風潮が盛んでありまして、男性が今まで女性に押し付けてきた仕事を分担することが、女性解放の決め手である。そういうふうに言われることが多いのですけれど、私は、もっともっと婦人たちを、「知的に大活躍する政治や社会、そして自然科学の研究、社会科学の研究、そこにおいて男性に十分伍する研究者を輩出する」ということが、これから本当に求められていることだと思うのです。しかし不思議なことに、婦人運動とかそういうのに熱心な人というのは、学問的な活動とか政治的な活動とかで立派な経歴を残しているというんではなくて、どちらかというとどうでもいいような研究、どうでもいいような活動の中で暇つぶしをしているような活動、そんなことを言ったらもう本当に今の世の中ではひっぱたかれるということかもしれませんけれども、あえて言わせていただけば、婦人たちが本当に男性をリードするような輝かしい仕事をしていくということが、本当の意味で婦人解放であって、私は「男性に家事労働を分担させるというようなことが、婦人解放の基本になる」というのは、情けないことであると思います。

 かつて古代ギリシャの時代にアリストファネスという有名な喜劇作家がいましたけれども、アリストファネスの書いた『女の平和』というのは、まさに「婦人たちが知的に優秀になれば、男たちが進める戦争を止めることさえできる」ということを予言的に言ったわけでありますね。むしろ婦人たちが「愛国婦人の会」のようなものに夢中にならないこと。今で言えば、子供たちを、カッコ付きですが「偏差値」の高い大学に進学させる、「偏差値」の高い会社に就職させる、そういうことが保護者としての使命であると思い込んでいる時代錯誤から目を覚まし、子供たちを真の意味で、「次の世代を担うに足る十分知的な存在にする」ということに、重要な使命感を感ずるような人になってほしい。

 高い教育費を払いさえすれば子供たちが立派な人間になるというような「作られた幻想から目を覚ます」ということこそ、大切なことなのではないかと思います。そういう意味では、明治時代の女性運動家たちはみんな立派な方であったというふうにつくづく思います。そしてごく最近まで政治運動していた女性の中に立派な方がいらっしゃるということもつくづく思います。そういう立派な歴史を日本は持っているだけに、今の状況に対して、例えば育休制度を推進するとか、赤ちゃんを育てる子供たちを優遇するということが子育て支援になる、というような表層の現象、うわっつらだけの支援。そういうものでは全くない、そういうものでは全くない本当の意味で知的な女性支援の運動っていうのをしていかなければいけないのではないか、というふうに私は思います。女性の日に際して、そんなことを強く思わざるを得ません。日本は、本当の意味で「女性解放がどのようにして達成されるか」ということをほとんど考えない愚かな後進国である、と私は感じてしまいます。

 私は、もし21世紀になったならば、女性解放の決め手は、「中学・高等学校・大学において、女性がいわゆる理系と言われる自然科学分野において、輝かしい成果を収めるように、中学高等学校で数学の勉強に邁進する」ことを推進することではないか。そう考えて、私は、TECUM、ラテン語の“te=君(親しい二人称の格変化)、cum=とともに(前置詞)”に由来する言葉で、“君と一緒に”という言葉を使ったNPO法人を作ったわけですが、前にちらっとお話したかもしれませんが、このtēcumというのは、AveMariaという有名な曲の最初に出てくる言葉なんですね。 “AveMaria, Gratia plena, Dominus tecum マリア様、恩寵に満ち満ちているマリア様、主は御身とともにあります。”そう日本語に訳される言葉の冒頭です。

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