長岡亮介のよもやま話297「学校教育はなぜ退屈なのか?」

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 私はこれまでこのお話の中で、不登校の子供がいるということで、それを大騒ぎして問題にしている人がいるんですけれども、「子供たちが学校に行きたくない」というときに、そこにはそれなりの理由があるはずで、その理由を除去することなく、「学校に来るのがいいよ」というふうに言うのはおかしいし、「学校に行くべきである」というのはましておかしい。「学校なんか行かなくてもいい」って私はそう思うんですね。

 私自身は何回も申し上げてきたように、とても楽しい小学生時代を過ごしましたので、小学校の時代をもう一度やりたいなと思う気持ちもないわけではありませんが、あんな無知な時代に戻りたいとは、はっきり言って思いません。最も戻りたくないのは中学高校時代、特に中学時代でありまして、それは勉強がつまらなかったからですね。その頃もかろうじて、英語なんかは面白いと思ったことがいっぱいありますけれども、数学も含めて勉強はあまり面白くなかった。つまり、数学で言えば、方程式を解くような機械的な作業が多いわけですね。もちろん因数分解のように、小さな小技でありますけれども、その技を発見しないと解答が見つからない。こういうものは発見の喜びがあるだけに楽しかった思い出もありますが、それは本当に低学年の時代の話で、中学3年と高校1年とかそんな大人になってからやるほどのものではありません、と僕は思うんです。

 特に理科とか社会科っていうのは、中学校高等学校ではあまり面白いと思ったことがありませんでした。かろうじて物理とか化学とか、少し演繹的な議論が組み立てることができるという分野は救いの種でありましたけれども、それも本当に一部分だけで、ちょっとでもいわゆる学校範囲というのを超えると、もうあとは深い闇の世界で、学校の範囲に限定すると、それはやけに明るい。ものごとが全部わかりきっている。言ってみればおままごとの世界の明るさに満ちていた。そういうふうに感じるんです。つまり、解ける問題だけを問題にして、その問題が解けて喜んでいる。そういう馬鹿馬鹿しさが、中等教育、中学校とか高等学校のところだと、やむを得ないところがあって、数学がそれから比較的自由で、誰にも解けない問題に挑戦するっていうことができるっていうのは、数学の楽しさでした。もちろん苦しさでもあったと思うのですけれども、苦しさの思い出は楽しさも思い出に比べると、一瞬で忘れてしまう。楽しかった思い出がずっと心に残っているんですね。多くの人が数学がつまらないっていうふうに言うときに、おそらく楽しい思い出をお持ちでない。つまり苦しい思い出だけが残っている。というのは、もうちょっと頑張れば楽しい思い出になったのに、私はそれは勿体ないなと思うんですけれど、数学だけが人生でやるべきことがありませんから、他の分野において、大きな感動が得られるならば、別に数学はやらなくてもいいんじゃないかと思ったりもします。

しかし多くの人にとって、知的な好奇心というものを育む上で、数学はおそらくいわゆる教科の中では最適な科目だ、そういうふうに私は思っています。それは子供でも十分に味わえる深い世界であるからですね。それが、他の学問他の教科、例えば物理、物理のように、他の自然科学の中では最も演繹性が高い、あるいは数学的厳密性が高い。そういうものも、学校物理っていうふうに限定すると、ひどく狭い決まりきった話になってしまう。そういうところが、学校生活をもう1回振り返って、もう一度繰り返したいとは思わない私の最大の理由です。大学に行った途端に、私自身はそういうつまらない制約から一気に自由になって、いくらでも深く考える機会が与えられている。いくらでも長く考えることもできる。いくらでも自分の無知の源を探求することができる。そういう自由が与えられた気がして、本当に全ての学問が面白いというふうに感じました。

 けれども、それは今の学校教育にはなかなか期待できないことなのかなと、いろいろな報道に接するにつけ強く感じます。学校で教えていることが、ますますつまらなくくだらなくなっている。そんなんではやってられないなと思うんですね。特に集団学習っていうんでしょうか、チームラーニングっていうんでしょうか、みんなで意見を出し合って、結論をグループでまとめるというような勉強が、小学校とか中学校とか、ときには高等学校まで含めて、中心になっているっていうのを聞くと、そんな無駄な時間の使い方をするために学校に行くんだったら、やっぱりやめたいなと思うんですね。つまり、中学生や高校生という幼い時分は、「真理は一つ」という単純さの中に生きていて良い時代があると思うんです。そのくらい真理を単純化しないと、子供の世界ではなかなかわかるものではない。大人の持っている、大人社会のある難しい問題の持つ深みを理解した上で議論を精密に組み立てるということは、大学生以上の話であると思うんですね。典型的なのは、小学生が大好きな勧善懲悪の物語「正義は勝つ」というようなストーリーですね。「正義は勝つ」というストーリーが通じるほど世の中が単純であれば良いんですけれども、こんにち毎日報道されているいろいろな世界情勢にまつわる問題一つ見ても、こうこうこうすべきだっていう結論を簡単に引き出すことはできない。私自身は多くの日本人と同様に、「戦争は絶対避けるべきである。戦争をやることは最も悪いことである」とそういうふうに感じていますが、今行われている戦争は次々と拡大する流れの中にいます。しかし、それが第1次世界大戦、第2次世界大戦のような大きな戦争にならないように心から願っていますが、そのためにその願いのために、私たちは今何をすべきか。今戦争をやっているのは誰が悪いからか、勧善懲悪みたいな簡単なロジックで割り切ることってできないわけです。

 つまり、現在を知るためには、過去の歴史、経緯、そういうものを知らないといけない。単に歴史的な経緯を知っているだけでは駄目で、社会を成立させている多くの人の間に共通に共有されている考え方の基本、考え方の枠組み、いわゆる文化・伝統といわれるものですね。そういうものについての知識も不可欠だ。そういうふうには思います。とりわけ、イスラエルとパレスチナの問題に関して言えば、「武器を持っている方が悪い。武力を行使する側が悪い」というふうに私達は単純に考えがちでありますけれども、それがそれほど簡単ではないっていうことは、ニュースを聞いていても、皆さんわかっていらっしゃる通りです。そういう難しい問題があるということ。その難しい問題に対して、単純な結論を急ぐのではなくて、十分な知識あるいは知恵、それを背景として議論を組み立てる能力、そういうのを持つということはとても大切なことであり、中等教育というのは、そういうための基礎となる学力を養う場であると思うんです。

その基礎となるものは決して単なる機械的に暗記されるような知識ではないんですね。そんなものは実は全く役に立たない。そんなくだらない知識、例えば社会科で年号と人の名前を覚える。そんなことだけで歴史が済むんだったらば、テレビの歴史ドラマでも見ていた方がよほど良い。あるいは歴史小説を読んだ方がよっぽど良いということになりかねません。テレビの歴史番組とか、あるいは歴史小説を読めばそれでいいのかっていうと、もちろんそんなことにはならないわけで、そのような描かれ方をした歴史には、必ずそれを描いた人の主観が強く投影されている。その主観が投影されているということをわかった上で、その主観を相対化する。その主観を取り除くようにして、勉強しなければいけない。それは一般に、例えばテレビの視聴者とか一般の読者に要求できることではありませんよね。そのためには、多くの番組を見、多くの人から話を聞き、そして、多くの言語について学び、多くの歴史について学び、無限に近い努力が必要とされるわけです。ですから、そういう意味で、学問はとても大切で、その開かれた学問の世界へ皆さんが入っていくために、基礎となる学力をつけることは大切なことだと思うんですが、残念ながら学校でつけられているのは、基礎学力という名前の単なる初歩的な知識にすぎない。初歩的な知識はいくら集めても所詮初歩的な知識にすぎないということ。例えば、ちょっとひどいかもしれませんが、ゼロは無限に足してもゼロということです。

 そういう空虚なものの積み重ねに、今の高等学校以下の教育が傾きつつある。数学まで含めてそうだという話に、本当に腹立たしいというか、悲しいというか、何とも言えない気持ちになります。最近聞いた話では、日本のある県のあまり良くできない中学生だと思いますが、N角形の内角の和、内角の和と言うより内角の大きさの和と言うべきだと思いますが、学校数学ふうに内角の和って言いましょう、それがどういう公式だったか忘れてしまったので答えられなかったということがあったという話を耳にして、そんなものを教科書に太文字で、ゴシック体といいますが、印刷している本があるかと思うと恥ずかしくなりますね。それは基本的な事柄であるから、確かに太文字で書く価値はあるのかもしれませんが、N角形とはそもそも何か、そもそもN角形っていうのは非常に抽象的な概念で、私達は三角形とか四角形とか五角形っていうのは、具体的にその辺が与えられれば、そういう図形の一つは描くことできますが、例えば四角形一つとって一般の四角形を書くことってできないんですね。四角形だって無限の多様性があるだけで、絵に書いた四角形は無限の多様性の中の一つの具体例にすぎない。私達は実は四角形とか三角形の概念でさえわかってないんですから、N角形とかっていうことがわかるだけでも、それは大変なことだというふうに思います。これは数学的な抽象化というものの一番の出発点であり、小学校と中学校の数学との大きなギャップであると思いますが、そのギャップを人々に乗り越えるために先生たちは気をつけてほしいと思うんです。N角形なんて別に教えるまでもない。「頂点がN個ある多角形のことだ」くらいにしか考えてない。頂点がN個決まると多角形として本当に決まるのかというような問題さえ、多分考えたことがないんだと思いますね。

 一般に多くの人が連想する凸N角形、それは「N個の点が与えられたときに、必ず実現できるのかどうか」と考えると、もう既に難しい問題にぶち当たっているということに気がつくでしょう。実はN個の点の与えられ方によっては凸多角形はできないことはありうるわけですね。そんなこと考えたりすると、この問題1個取ったって本当は難しいんですが、「凸N角形の内角の和」という公式を覚えることは、そういう意味に比べれば実に馬鹿げたことでありますね。大体それを(n-2) ×180°とかって教えらしいんですが、それを公式として覚えること自身が馬鹿げていますよね。つまり、三角形の内角の和が180度であるということを知っているならば、四角形だったらば三角形の2個分だと、五角形だったら三角形3個分だ。そういうふうに類推すればN角形だったら、三角形の何個分かって考える。こういうふうに考えればN角形に迫ることもできるというところが面白いことなのに、そういうことを教えずに、「N角形の内角の和の公式」っていうのを覚えさせる。

 これが、こともあろうに、数学の最も基本的な本である教科書に書かれている。そして、それを覚えることが数学の勉強だと思っている。そういう子供が存在するという話を聞いただけで、私は寒気がするほど恐ろしいと思ってしまうんですね。そういう子供たちを育てて先生ずらしている人間がいるということが、そもそも許せないと思う。私は最近、教育機会均等が平等の基本だという話をしましたけども、そういう子供たちに対して、数学に接する機会を平等に提供してないということは、私達大人のあるいは私のように老人の、本当に大きな責任であるというふうに思います。教育に十分な人材を送り損なってきた。私達は経済を大切にし、人を作るということをないがしろにしてきた。そういうふうに私自身は、私自身を責めるわけです。私は私自身を責めるあまり、最近は、このようなだらしない私達の前の教育がしっかりしたとすれば、それは何よるのであろうかというルーツを訪ねて、なんと私が最も嫌いな教育勅語というようなものにまでたどり着きました。そしてその教育勅語というのは、起草された、天皇の名前で出されたわけですが、実際に原稿を書いた人がいるわけで、何回も何回も推敲が重ねられているに違いない。いろいろな反対論があったに違いない。そういう最終形だけしか見ておりませんが、その最終形の中に様々な苦労の跡を私は見ることができて、しかし、学校教育に関しては、「なぜ教育をしなければならないか」、その教育の目的とか目標を、教育勅語はその前後にきちっと挟んでいるんですね。それがさすがであるなっていうふうに、私は感心した次第です。これについては、今日は時間が長くなりましたので割愛して、またいずれ別の機会に教育勅語の構成についてお話したいと思っています。

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