長岡亮介のよもやま話296「よもやま話を続けてきて嬉しいこと」

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 このような試みを考えてみると、ずいぶんもう長く続けているなと自分でも自分の愚直さにあきれ返るほどでありますが、時々嬉しいことがあります。それは、思わぬところから、思わぬ反応をいただいたときです。当然のことながら、私の考え方に対して全面的に賛成という人はむしろ少数派で、部分的に共感するところがあるというだけで、しかし、その部分的な共感であっても私の言葉が聞いた人の心に何か小さなさざ波できれば、大きな感動の大波を呼び起こすようであれば、大変光栄なことだと考えるのです。

 私が今日お話ししようと思っているのは、数学というと、どうしても数学が得意という人が聞くことが多いと思うのですけれど、私に言わせると、数学という世界はスポーツと同じで、ずっとやっていれば自然に深くなっていくものである。小学生の6年間で学ぶ算数は所詮大したことない。中学校高校6年間で学ぶ数学も大した話じゃない。そういう意味では大学4年間で学ぶ大学の数学、普通よく現代数学なんていうふうに言う人がいますけれども、歴史的に考えれば大学の4年間で勉強するような数学は古典数学であって、現代数学とはほとんど縁もゆかりもない。大学院に行きますと、非常に小さな分野ではちょっと現代に接近するところがありますけれど、本当に現代的な数学の全領域を、大学院の修士コース前期課程という2年間、後期課程の3年間、合わせて5年しかないわけで、そんなところでやれることは、ごく狭い領域に関する、ごく狭い領域だからこそ他の人がまだ研究してないというだけの、歴史的に見たらどんな価値があるかわからないというくらいちっぽけな研究をしているに過ぎない、一般にはですね。中には天才的な人がいて、修士論文の頃から非常に重要な問題の解決に挑戦する人がいます。本当に立派なことであると思いますが、多くの人はそうではないですね。残念ながら、数学という世界においても天才的な人、本当の意味での天才ですね。そういう天才と天才的って名前がつくレベルの人と、それからそういう名前さえつかない私のようなぼんくらとでは全く違う世界だと思うんですけれど、ほとんどの人が言ってみればぼんくらの中で、ずっと長くやっていると多少なりとも専門的な知見というのは身に付いていくということです。数学が素晴らしく良いところは、どんなによくできる人であっても、自分が知らないことがたくさんあるということを自覚している。そういう謙虚さを持たざるを得ない。そういう分野であるということですね。ちょっとしたことで仕事をして、それで偉そうなことを言う人が時々いますけれども、数学の世界にはそういう人はめったにいない。よほど周りが見えていないか、歴史に学んでいないか。そういうとんでもない人以外は、そういう傲慢な人っていうのは数学の世界には存在しないわけです。

 ですから私は皆さんに数学の世界へといざないたいというふうに思いますけど、数学の世界っていうのはとっても孤独なつらい世界ですから、そういう世界に皆さんをぜひ巻き込みたいと、そういうふうに思っているわけではありません。そうではなくて、皆さんも時々はそういう数学の厳しくもまた深遠な世界、そういうものにちょっとでも触れるのは、人生において良い経験になるに違いないと思うことです。そして、そのような深遠な数学にぜひとも少しでも接近してもらいたい。この「少しでも」というのが大事なことであって、それは小学生のときだって、中学生や高校生のときだって、少し接近することができるんです。大学以前の数学は受験数学だから覚えれば済む。そういうふうに豪語する人がいますが、まさにこの豪語っていう言葉は「傲慢の傲」であると同時に「豪傑の豪」であるかもしれません。しかし、私から言わせれば、それは大変に無知なことでありまして、小学校や中学校の数学、本当はなかなか難しいんですね。あんな難しい数学、よく自分でも理解してきたなって思うくらい、むしろ大学以上の数学の方がずっと易しいと言ってもいいくらいなんです。というのは、大学以上の数学になりますと、非常に言葉がしっかりしているので、あんまり怪しい表現でないですね。高校以下だと、これは子供たちにはわからないからというカッコ付きでありますが「教育的配慮」というのが働いて、言ってみれば間違っているんだけど、子供たち相手なんだからいいじゃないかという「甘やかし」というんでしょうか、その「甘やかし」っていうのは決して子供に対して甘やかしているのではなくて、教える自分自身に対して甘やかしているという印象を私は強く持っているんですけれど、そういうインチキな要素が入ってくるので、かえってわかりづらい。大学以上になりますと、そこが精密に書かれるので、あとは自分の努力によってその世界に接近していくことができる。最初のうちはすごく難しいと思うかもしれませんが、次第次第にその急峻な気険しい上り坂の山道が快適な毎日の散歩道のように感じられるようになってくるわけです。もちろん本当に高い山に登るのは常に本当に大変なことです。でも、それはそれとして、とても楽しいことであるわけです。そういう楽しさを少しでも理解してもらえるような日々を送ってほしい。そう願っていますけれども、今は学校という制度のために、数学にしても、数学以外の科目はもっとそうかもしれませんが、単なる知識だけが教えられている。知識としての数学っていうのは、私の言い方を使わせていただけば、それは出来上がった数学、もっとわかりやすく言えば死んだ数学であって、「生きている数学」というわけではない。

 「数学が生きている」ってのはどういうことかっていうと、自分自身で発見していく。自分自身で発見していくということが、数学の大定理そのものを独力で発見できるなんていう人は、ほとんどいるはずがない。子供でも知ってる「ピタゴラスの定理」、今では誰でも知っていますけれども、その厳密な証明を理解している人が、まずいないのではないでしょうか。古代ギリシャ人が達成したレベルの厳密さで理解している人はほとんどいないわけです。そして現代数学では、そのピタゴラスの定理にしても、はそれが証明できるための前提条件を考えるならば、それは証明するまでもなく、自明な定理だ。こういう言い方ができるんですね。これが非常に面白いことであります。ですから、例えば中学高等学校で勉強を終えてしまった人は、ピタゴラスの定理が成り立つ世界、これが当たり前だ。そういうに思って人生を終えてしまうわけですが、大学以上の数学を勉強すると、そういうような世界はユークリッド的な世界、はユークリッド平面とかユークリッド空間と呼ばれる古典的な空間なんですね。現代物理学ではそういう古典的な空間では済まない世界を探求してるわけでありまして、そういうことに関しても、ちょっとでもかじることができるための準備を中学や高校までにきちっとしてほしいと思うんですね。そして、発見というのは必ずしも新しい定理を発見するっていうことではなく、その定理の理解を発見する。この定義はこういうことを意味していたのかということを自分自身で理解するということですね。

実に恥ずかしい話ですが、私は小学校6年のときにこのよもやま話で何回も話してきましたが、信州長野の田舎の小学校から横浜市港北区のところにある区立の小学校に転校してきました。そして横浜市の小学校では、もうみんなクラスメイトが、私にとってはわけのわからないことを言っている。やれ大化の改新は「むしご」であるとか、小野妹子とか、中大兄鎌足とか、もう難しい言葉ばっかり喋っている。何言っているかさっぱりわからない。その中で私がかろうじてわかったのは算数の世界でありますが、その算数の世界でも、私の知らない概念を使っているんですね。円の面積は半径×半径×3.14だと。私は、円の面積って、円っていうのは知っていましたけれど、それに面積があるということさえ私は理解していませんでした。大体直線図形でない、正方形でも長方形でもない、そういう図形に面積っていうのを考えることができるんだろうか、ということ私はまず不思議に思いまして、なんで円に面積があるんだろうとそういうふうに思いました。正確に言えば円の面積は、円は円周のことですから、円で囲まれた部分の面積というべきですが、囲まれた部分っていうのは、曲線図形ですから、どうやって面積を計算するんだろう。なんで3.14なんだろうと、不思議で仕方がありませんでした。しかし、横浜のよく勉強のできる子供たちはみんなそういうのを暗記しているんですね。暗記して答えを出すっていうことが良いことのように、横浜では言われていました。私も「郷に行っては郷にならえ」で、そういう勉強方法をいたしましたけれども、でも私にとって円の面積ってのは一体何なんだろうと、そういうふうにずっと不思議に思っていました。そして、ある時は私が発見したのは、私にとって円の面積を介して、面積という概念を発見したんです。その私の発見っていうのは本当に子供っぽいものでありまして、このようなものです。図形の面積というのは、それを塗るペンキとかあるいは絵の具あるいはクレヨン、その量で決まる。例えば、減りやすいクレヨンを使っていると、ある図形を塗り潰す、綺麗に塗り潰すとクレヨンが減るわけですね。その減ったクレヨンの総量、言ってみれば使ったクレヨンの体積でありますが、その体積に応じて面積が決まるんだと。直線図形であろうと円であろうと曲線図形であろうと、クレヨンでその範囲を塗り潰すとクレヨンが減ります。その減った量で測ることができる。私はその頃、あんまり顕微鏡など覗いたことありませんでしたから、クレヨンで塗った絵画がどのようになっているか、そういう顕微鏡で知ったわけではありませんけども、言ってみれば、ある領域の面積っていうのは、それを塗り潰す絵の具の総量に比例するものとして考えることができる。これが子供の頃の私の発見でした。今から考えると、絵の具というのはある厚みを持っているわけですから、面積ではなくむしろ体積なんですね。ですから、絵の具の厚みで割ったものが面積というふうに定義しなければならないわけですが、私は絵の具やクレヨンで塗り絵をした者に厚みがあるということは考えていなかったので、それで面積がわかる。そういうふうに自分自身で納得して、そこからは円の面積だろうと半円の面積だろうと怖くなくなりました。同様に円の周の長さについても、それは周を塗ったときのクレヨンの減った量で測ることができる。もちろんそのように測ることができるのは円ではなくて、円と円で挟まれた、言ってみれば円盤状のリングですね。太さがあるからこそ、人間の目には見えるわけで、本当は円というのは、数学的な円というのは太さがないわけですから、本当は絵の具で塗ることさえできないわけですけれど、子供ですからそういうことはあんまり考えなかった。

 でも、そういうふうに自分なりに理解を発見したわけです。その発見は、中学生になったときの自分から見るとたわいないな、実に馬鹿げているなと思いましたけど、高等学校に行って面積や体積を勉強すると、私の考え方が次元に関してもう少しきちっと考慮しなければいけないということがわかり、面積と体積っていうのは本質的に次元が異なる量であるっていうことがはっきりとわかる。そして、次元が異なるものというのを、次元を無視して簡単に数値で表す。それはとんでもないことだというのを、物理などを通して勉強いたしました。1kgの重さと、1kmの長さ、これを二つ足し合わせるということは馬鹿げたことである、と理解いたしました。そしてそのことが理解できると、今度は例えば数学の試験を100点満点でやる。あなたは72点である。あの人は95点である。この人は15点である。こういうふうに点という単位で表現することも、どの問題ができているかによって同じ10点でも意味が違うわけですから、それはメートルとグラムを足し合わせるのと同じように、間違っているんではないか。人間がやっていることは、このように科学的に見て合理的だとは思えないことを、昔からの習慣で何も疑わずにやっているということに気付くわけですね。高校生の頃の私はその単位が違う量を加え合わせるということの、根本的な間違いに気づき、私はできたらそういう嘘をつかない人生を生きたい。そういうふうに思いました。

 そんなこともあって、私はずっと数学をやってきてはいるんですけれど、ですから多くの人と比べると、多少は数学についてより詳しく知っておりますし、現代数学のめくるめく世界についても、少しわかっているつもりでありますが、そういう現代数学の世界について知らないと世の中のことはわからない、というつもりは全くありません。むしろ初等的な数学を初等的なレベルで、しかしまるで数学者のように勉強するということが大切だと、そう思っています。それは例えばバッハの曲。立派な演奏がいっぱいある。その立派な演奏でなくても、自分なりに演奏して、「これこそバッハだ。バッハが言いたかったことはこれなんだ。彼が残したかったことはこれに違いない」っていうことを発見すると、似た喜びではないかというふうに私は勝手に考えています。そういうわけで、話が長くなりましたが、私は数学に関して、「自分はあまり数学に詳しくはないのですが」とか、「数学に関してはアマチュアなんですが」という方に対しても、その人たちが数学の世界に強い憧れを抱いててくれるという話を伺うと、それだけでとっても嬉しく思うんですね。数学の知識をひけらかすなどというのは、自分が持っているお金を見せびらかすのと同じように、はしたないことだと思うんです。自分の持っている知識を人にわかりやすく広める。これは、啓蒙的な精神として尊敬しなければいけない面もあるかもしれませんが、世の中には何か知っていることを言いたくてしょうがないという人がいるようで、私は、最近はとにかく美味しいものを食べても、素晴らしいことに出会っても、それをできるだけ自分の内なる感動として、心の奥にしまっておきたいと思うようになってきたんですね。

 ですから数学に関しても、皆さんが一人一人が数学の喜びに目覚めたという話を伺うと、それだけですごく嬉しい。私自身は数学についてあんまり上手に喋ることができませんし、上手に伝えることもできませんが、皆さんが数学について本当に強い憧れの心を持っているって言うことを伺うと、人間ってすごいなと思います。人間の定義として、遊ぶ動物であるとか、道具を使う動物であるとか、いろんな定義があります。私は、人間を定義するのに、これを言うと差別発言だっていうふうに言われてしまいそうですが、「数学する動物である」という定義が一番いいと思うんですね。「数学する」っていうのは、決して数学の勉強をするという意味ではない。先ほども言ったように教科書とか学校で教えられる数学はもう死んでしまった数学なんです。それは完成した数学なんです。それについてはやることがもうない。新しくやることは、自分で数学を発見すること。教科書に書いてあることは「本当はこういうことなんだ」と納得すること。私はこれを「納得の発見」って言っているんですが、納得の発見であれば誰でもできることではないかと思うんですね。そしてそのように全ての物事の根拠に、合理的な納得の根拠があるというふうに考え、そのような思索を深めることを『数学』って言うんですね。

 日本では「数の学問」というふうに書くので、計算することが数学だっていうふうに思っている人がいるんですが、計算することはコンピュータでもできる。機械でもできるんです。でも、物事の本当の深い根拠をどんどんどんどん突き詰めて考えていくということ。これが数学でありまして、数学に相当する英語はmathematicsというんですね。mathematicsという言葉の元々の言葉はラテン語とかギリシャ語なんですが、その古い言語でmatthesisという言葉。これは元々どういう意味だったかっていうと、「学ばるべきもの」、「勉強しなければならないこと」ということなんですね。私はそれをわざと誤訳して「修身」って訳すのが一番いいと思っております。修身というのは、修めなければならないものということですね。「人間をして、人間たらしむ最も基本的なもの」という意味です。そういうわけで、どんなレベルの方でも、数学的に考えて嬉しいっていうふうにそういう体験を持っていてくださると、そういう話を聞かせていただくと、私はとっても嬉しいわけです。

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