長岡亮介のよもやま話295「数学を通じてつながる人の輪の不思議さ」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 人生を長くやってきていると本当に不思議なことに、人との出会いがあります。考えてもいなかったような方と偶然出会う。あるいは縁もゆかりもないような方と、このよもやま話を通じて繋がる。こういうことは、不思議と言う他ないわけで、私から見ると、そのような新しい出会いに恵まれたということは、「天啓」、天の恵み、天の知らせ、そんなような大げさに聞こえるかもしれませんが、そんな大変に大きな幸運だ。そして、それは自分の力でつかみ取ったものではなくて、天から与えられたものだ。そういうふうに、感ずることが少なくありません。

 最近世の中にはありとあらゆるしょうもない情報があふれています。そういうしょうもない情報の中で、「何とかすると得だ」とか「何とかしては絶対いけません」とか、そういう馬鹿げた情報があふれる中で、「この問題は簡単に解けます」とか、「こんな問題は小学生でもできます」とか、そういうような類の情報に接すると、日本も相変わらずだなっていうふうに思うことも少なくありません。なぜかというと、子供用の数学の問題、それは大学入試にしても、言ってみれば短い時間の中で数学がわかっている人だったならば解けるに決まっているだろうという程度に問題を作っているからですね。出題者は決して数学の研究のように、世界で最も新しいことを、この入試問題で試そうとそんなことを考えているわけではない。言ってみれば、基本的な事柄が十分よく消化されているならば、この程度の問題は解けるだろう。そういう意味で作っているわけです。中には多少解きづらいものもありますが、その解きづらい問題が解けることが数学にとってとても大切なことかというと、必ずしもそうでない。そういう数学の世界に長く生きていると見えてくる現実。それが、一般に数理世界から遠く生きている方にはなかなか通じないんだということ。つまり、いわゆるお受験の問題が解けるとか解けないとかっていうことで人生が決まると思っている人が、未だにいるということに驚くことは多いのですが、そういうことには残念ながら、少し辟易とする気持ちもありますけれど、一方で、大学以上の難しい数学と思われている数学の世界を楽しく紹介しているビデオ番組などを見ますと、立派なことだなと。人々に理解を促進してもらうために、こんなに努力している人がいるんだと思うと頭が下がる気もしますが、そういうビジュアルに理解するということ、それが数学の理解の全てであるというわけでは決してない、ということが忘れられているのではないかなという気がして、少し消極的な気持ちにもなります。

 私がインターネットを通じて、そういうものとは全く違うものすごく大きな喜び、あるいは驚愕を感ずるのは、最初に申し上げた、とんでもない人と繋がるということです。私が個人的に面識があるわけでもない。しかしながら、私のいろいろと今までやってきたことを通じて、私が最も伝えたかったことが伝わっている。そういうような人に出会うと、本当にありがたいことだなと、私はつい思ってしまうわけです。ありがたいことというのはちょっと宗教がかって聞こえるかもしれませんが、私はそういう不思議な幸運に恵まれたときに、まさに天に感謝するというような気持ちになる。これは紛れもない事実なんですね。そして、このよもやま話のようなものを続けてきても、これはこれなりに私は楽してるようでいて、それなりに大変なんですけれども、でもやはり続けてきてよかったなと思うことがあります。その最大なものは、今まで全然直接出会うことがなかった人、これからもう直接出会うことがない人、そういう方とインターネットを通じて共感の輪が広がるということ。これに対して大きな喜びを感じています。

 そして、こういう共感の輪が、実際の実践の場つまり学校の先生方、数学を教えている人々、そういう人々の間に、本当に深い共感として伝わるならば、問題が解けて嬉しいというレベルの数学から、数学が今までよりちょっと深くわかってとても魅力的に見えた、そういう喜びに満たされているというような感想を聞けるのではないかという気がして、私はとても嬉しく思っております。1人1人の方にメッセージを差し上げる余裕は残念ながらないのですけれど、こういう形でこれを聞いてくださっている皆さんに、私からの心からの感謝を伝えたいと思いました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました