長岡亮介のよもやま話294「理論と応用の本当の順序」

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「学校教育には非常に深刻な限界がある」という私のお話はずいぶん皆さんの人気を得たようで、事務局が喜んでいるのですけれど、私に言わせれば、子供たち相手の学校教育において、インチキや嘘はいわばつきもので、それを避けることはできない。言い換えれば、「学校の様々な教育の側面において、あるいはその局面において行われている学問的な意味での嘘を、いちいち目くじらを立てて取り上げるということをすると、とりわけ小学校段階ではどうしようもない」という問題があるということを皆さんに確実に理解していただきたいと思っています。

 そもそも子供たちが、「数の概念をつかむ」ということでさえ、私達が自然数を初めて定義できるようになったのは19世紀の終わりから20世紀の最初にかけてでありまして、数学の偉大な、現代数学の出発点ともなった非ユークリッド幾何学のような先駆的な研究が行われたのは18世紀の末から19世紀の当初にかけてであったということを考えると、微積分の17世紀からずいぶん時間が経って、本当に基礎的なことがらが、そこに重大な問題があるということに数学者が気がついたということであって、それ以前の数学が意味を持ってないのかっていうととんでもない話でありまして、アイザック・ニュートンあるいはレオンハルト・オイラー数学の仕事というのは、たとえその数学的な基礎に論理的な欠点があるにせよ、実は偉大な大発見であったっていうことは誰も疑いのないところであります。

 ですから、数学は論理的な厳密性とか緻密さを重視していますけども、それ以上に重要なのは「良い数学的な発見。素晴らしい数学的な神秘の発見」であり、その発見に至る道筋あるいはその発見を示す道筋や証明の道筋と言ってもいいですが、そこに多少の間違いや思い込みがあったとしても、それはその時代であったら仕方のないことである、ということを私達は知っているわけですね。現代人なら誰でも知っている。現代数学を知っている人だったら、少なくとも誰でも知っていることであると願っています。特に学校の先生たちは、そういうことがわかって、あえて嘘を教えなければならないという苦しみ、それに耐えながら、子供たちを愛し慈しみでいると私は信じたいと思っているんです。

 私自身にとって、前にお話したように、学校というのは小学校の低学年のとき、低学年からいわゆる中学年にかけて、小学校1年生から小学校4年生まで私にとって最も輝かしい時代であったと何度も申し上げましたし、そこで教えていただいたことが論理的にどういうことであったのかということは、私自身も理解していません。私が当時「数」というものをどのように理解していたのか、特に難しい分数などというのをどのように理解していたのか、今の私自身が思い出そうとしても思い出せません。ですから、いわば幼児期から小学校の間くらいまでの教育に関して、何か専門家面して偉そうなことを言うというのは、ちょうど絵画の歴史において、数ある天才たちが生前にはほとんど冷たい仕打ちを受けていた。評論家からめちゃくちゃな暴論を言われていたということを考えると、それと似たようなその絵画市場の大革命を行った人々に対して、罵詈雑言を浴びせたような評論家たちと同じような過ちを犯しているんじゃないかと私は考えて、小学校の教育については、特に小学校の算数教育については、私は立ちいらないっていうことをずっと自分の人生のモットーの一つにしてまいりました。こんなことを知っていれば小学生でも一瞬で解けます、難問と。そういうものも私はあえて触れないということにしておりました。所詮子供相手の話なんだということで、目くじらを立てることはない。子供たちはちゃんとよくできる子供たちであれば、そういうものの薄っぺらさ、あるいは薄っぺたさ、それも理解していくであろうし、生涯それで騙されることはない。そういうふうに信じているということもあります。

 しかしながら、学年が進行するにつれて、だんだんだんだん人間の理解も抽象性に向い、論理的に厳密な方向に向かう。これは、発達段階においてとても大切なことであると思います。中学生のときのいわゆる初等幾何と言われる、初等的な総合幾何というふうに言うのはいいんですが、図を書いて考えるという初等的な数学との出会いは、私自身にとっても衝撃的でありましたし、きっと多くの人にとってもそうだと私は信じています。その初等的な総合幾何っていうのが、学校教育の中でどんどんどんどん薄っぺらくなって、実用的な幾何学の方に道を譲っているというのは、私はとても残念なことに思っています。なぜならば、中学生になったときに初めて「証明」という概念に出会ったときの私の大きな喜びは、何ものにも代えがたいと思うぐらい大きなものでした。そしてそれは決して私だけではなくて、多くの哲学者、思想家、あるいは政治家も、学校教育を通じてそのような体験をしてきているわけです。前にちょっと触れたかもしれませんが、リンカーンの演説なんかを見ますと、本当にリンカーンが数学、特に幾何学を尊敬したんだということがわかって、とても嬉しく思います。また、マルクス・エンゲルスの身近なエッセイの中にも、彼らが数学的な思考をいかに重視していたか、彼らにとっての数学体験っていうのは、私から見れば非常にプアなというか、たいしたことない初等数学のレベルなんですが、その初等数学との出会いの中で彼らが彼らの哲学的な感性を大いに刺激されているという記録を見ることができて、私は感動するんですね。これほど偉大な人に対して、数学教育が大きな意味を持っていたっていうことを、私は誇らしく思うわけです。

 その初等的な数学、総合幾何と言われる分野でありますが、それがどんどんどんどん実用化している。実用的な数学、数学が役に立つか役に立たないかという議論があるんですが、三角比が役に立たないと思っている人がいっぱいいるんですが、三角比こそ古代よりあの壮大な建築を可能にしたものは、まさに三角比であるわけでありまして、そのような方法を古代文化あるいは古代文明と言われる人々が、ほとんど全てのところに精密な天文観測とか、その天文観測に基づく巨大な建築とか、そういうのを残していることを見ても、歴史、書かれた物が残っているのを歴史といいますが、その歴史が始まる以前、つまり書かれたものは何も残ってない石器時代とか、そういう考古学的な研究でしか迫れないような人類の中にも、そういう数学的な思索の跡というのを見出すことができるわけですね。それは決して厳密な論理的な体系としての数学ではなくて、物を測る、現象を再現する、そのために数学的な思考を使う。応用数学でありますね。応用数学の方が純粋数学よりも遥かに起源が古い。古くまでさかのぼることができる。このことを知らない人がいて、純粋数学をしたらその後に応用数学が始まると思う人はいるんですが、それは大きな間違い。まず最初に応用があって、「その応用の中から一番重要な革新的なものは何か」という本質を抽出するという作業を通じて、数学が誕生してきたという歴史があります。

 これを最もよく証言しているのは、タレースに関する伝記ですね。タレースっていうのは、古代ギリシャの哲人、哲学者と言われて、「万物は水である」と言ったという言葉が社会科の教科書なんかに書かれています。そんな一つのフレーズで語られるような、そういう凡人ではないんですね。その言葉の中にいかに多くの意味が込められていたかということ、これについてはまた別の機会があればお話したいと思いますが。そのタレースは商人であったので、商人は移動の自由を持っていますね。その移動の自由によって、エジプトなんかにも旅行した。そしてエジプトの巨大建築を見て、彼は本当に驚嘆するわけですね。エジプト人たちの土地測量に関する技術、土地測量の技術ですね。それが三角法って言われているもので、こんにちでも土木建築で使われておりますけれども、その測量法を見て大いに感動して、エジプトでは職工さんたちが数学的な事柄について携わっていることに感銘を受けて、彼はそこの中に潜んでいる数学的な原理を抽出しようとしたわけです。そして、初めての幾何学と言ってよい体系を作ったんだと思いますが、その書いたものそのものは全く残っていませんから、私達はいろいろな伝承、語り継ぎから想像するだけでありますが、タレースが最初に取り組んだものは「相似」のようなものであったと思います。ピラミッドの高さを測るのに同じ時刻に人間の姿が作る影とピラミッドの作る影、その長さを比較してピラミッドの高さを求めた。こういう話があります。正確にはなんとちょうど身長と影の長さが等しくなる時刻に、ピラミッドの影を測って高さを推定したとあるんですが、別に直角二等辺三角形じゃなくても相似性は成り立つわけですから、その伝承は、タレースが相似の原理を理解したときに、その相似の原理を最も純粋に取り出すために直角二等辺三角形に注目したということなんだと思うんですね。

 現在の中学生にも合同の幾何学が最初に教えられ、相似が二番目に教えられます。私の時代には中1で合同、中2で相似っていう順番で習ったように思います。もしかしたら中2中3だったかもしれません。「中点連結定理」という定理があって、皆さんご存知だと思いますが、この話前にちょっとしたことがあると思いますが、三角形において、2辺の中点を結ぶ線、それを書くと第3の線に平行で勝つ長さが2分の1になるって有名な定理なんですね。これは合同を使って証明することができますから、中1範囲の知識で解けるわけです。ところが最近は、掃除に関する議論が一部高等学校に移ったこともあって、なんと「中点連結定理」を相似の応用として教える検定教科書が登場してきているんですね。それは何重もの意味で驚きです。なぜかっていうと、「中点連結定理」が相似の応用だったならば、相似に関する数学的な理論をどうやって構成するんだということ、それを問題にしなければならないからですね。タレースは、エジプト人の建築屋さんたちがやっている相似の考え方の基礎に、理論的な基礎に合同の幾何学があるということを見抜いて、合同の幾何学を構想したわけです。

 つまり、実用的なものの背景にある理論的な基礎というのは発見した。これが偉大なことなのに、今や合同が相似と切り離されて、「中点連結定理」や相似の特別の場合と教えられる。相似の基礎が全くない、何のために合同の幾何学をやったかもわからない。これほどまでに初等幾何学が舐めきられている。というのは、教育学者といわれる人たち、あるいは教育の専門家という人たちが、歴史とか、文化とか、そしてそれを支える数学的な思索、あるいは人間の真に重要な論理的な思索、哲学的な思索、その重要性というものに全く気づいていない。そういうものを尊敬する心を失っているということに他ならない、と私は少し怒りをあらわにして思うのですけれど。実用性というものが、理論によって支えられているということ、これが明らかになったのは近代になったからでありました。近代は自然科学が、それを応用した技術によってどれほど大きな力を発揮するかということを、万人の目に明らかにしたわけであります。実は、理論が極めて重要であるということ。それを明らかにしたのに、そういう歴史や思想史、そういうものを全く理解しない人たちによって学校が占領されているんだとすれば、それはとんでもないことであると私は思うのですが、いかがでしょうか。

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