長岡亮介のよもやま話293「言葉を使うに大切にすべきなのは心を込めること」

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 前回、「奇妙な日本語の使い方が目立っている」というお話をいたしましたけれど、私達が本当に真剣に考えなければいけないことは、正しい言葉の使い方ではなくて、「真心のこもった言葉とは何か」という問題ではないかと私は思うんです。というのは、最近能登半島で大きな自然災害が起きました。私にとって輪島は、私の親しくしていた漆の国際的に著名な作家から案内していただいて、少し長い時間滞在したということもあり、特別の思い出のある場所で、火事で大きな被害をこうむった地域も含め、ずいぶん何回も通わせていただいたところであるだけに、特に心が痛み、災害に苦しんでいる人のために、できることが何かないだろうかと思うこと、それはしばしばなのですが。

 私がそんなことを考える度に嫌になるのは、全く無料で発信されるコマーシャルのEメールですね。いろいろな会社が、宣伝のために勝手に送ってくる。全く私にとって有用な情報でないですから、拒否した方がいいのですけれど、拒否するのも面倒くさいのでスパムメールとして扱っておりますが、そういうものをちらっとでも目にしたときに、「能登半島で被災された皆さんに、心より同情いたします。どうか1日も早い復興がなされることを祈っております。」というような文章が書かれているのを見ると、私は生理的ともいえるような嫌悪感を強く覚えてしまいます。そういうことを口先だけで言うくらいだったならば、その会社から寄付を能登半島の人に対してするという行動を起こすべきではないでしょうか。

 口先だけで、「その被害に対して寄り添っています」というようなことを言うというのは、全くひどい話ではないかと私は思うんです。心がこもっていない言葉でも、形式的にそのように言っておけば安全だということなのかと私は想像するのですが、そうであるとすればなおさら問題である。言葉を軽々しく使うということ。口はただだからというような発想が支配しているんだとすれば、これは文化に対する冒涜である、と私は思うんです。こういう軽々しい風潮が、私達の国の中で次第次第に支配的になっていくということに対して、私はとても悲しく思っています。

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