長岡亮介のよもやま話292「関係性、自己責任とか変な表現だと思いませんか」

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 今回は、私がとても気にしていながら苦手な分野である「正しい言葉遣い」という問題について、考えてみたいと思います。私自身も決して日本語が豊かな方ではないわけですけれども、したがって現代人の一人として反省しなければいけないことも少なくないわけですが、最近一般のテレビあるいは公共放送ですら使う言葉遣いにちょっとそれはあまりにもおかしいんじゃないかと思うことがあって、今日はそれに関するお話です。

 それは、“関係”という言葉、relationshipっていうふうに英語で言いますが、その関係という言葉について、これは典型的ないわゆる抽象名詞ですね。関係があるとか、関係がないとか、主語になったりするわけですから典型的な名詞だと思いますが、その抽象名詞に“性”をつけて、“関係性”って言葉を使う人が最近すごく増えていると思うんです。“関係”という言葉自身が抽象名詞なんですから、それに“性”を付けるっていうのはどういうことか、私は理解できない。例えば、“抽象”って言葉があります。抽象・具象 abstract / concrete ってことですね。これは抽象的あるいは具体的っていうふうに日本語では“的”という言葉を使って文法的には形容動詞っていうんでしょうか、要するに名詞や動詞を修飾する修飾語として機能する。抽象とか具象とかという言葉に“性”をつけて抽象性・具象性。 それは、abstract / concreteって言葉、それ自身は英語では形容詞ですが、それにnessをつけてabstractness / concreteness、そういうふうに使うということはわかります。例えばhappyっていうのは、「私は嬉しい。私は幸せだ」っていうことですから、その幸せさということを抽象的に言うときにはhappinessというふうに言います。英語ではhappyが形容詞だから、happinessって言葉があるわけですね。でも日本では、“幸福”という言葉は必ずしも形容詞ではありませんね。幸福ということ自身が一つの名詞として、「幸福を目指す」とか、「人生の幸福」とか、そういうふうに言ったりします。だから“幸福性”という言葉を使ったら、それはおかしいと思いませんか。この“性”という言葉は、日本語で西欧の文化を吸収するときに、明治の私達の先輩が一生懸命作った言葉なんだと思うんです。男・女って言えば済むものを、わざわざ男性・女性と言う。男らしさ・女らしさという、言ってみれば弱い表現、柔らかい表現をもう少しきつくしたものですね。「らしさ」というかわりに、抽象性を簡潔に表現したと言ってもいいでしょう。そういうわけで“性”がついてもおかしくないんですが、例えば“男性性”とか“女性性”とか言ったらおかしいですよね。今はそのmale/femaleという概念は一種のタブーであって、ジェンダーっていうふうに言わなければいけないというアメリカの流行が日本にも渡ってきています。こういうアメリカ文化をありがたがって見習おうとする。良い面を見習うのはとても良いことだと思いますが、アメリカのお先棒を担ぐようなものは、本当はみっともないっていうふうに思います。

 特に日本では、私はジェンダー問題はあまり深刻に考えなかったんですが、アメリカで流行ってきた“新保守主義・neo-conservatism”という新しい流れで、これは政治だけではなくて、文化・経済に渡る大きなトレンドであります。ネオコンというふうに省略されます。ネオコンという言い方は、ネオがつけば何でもいいということで、ネオナチとかにも使うわけでありますけど、ネオコンというのは、私の短い歴史観の中ではレーガンという共和党の大統領、アメリカが本当に追い詰められていた時代でありますが、アメリカを復興するというために、共和党政権でありますから、国を強くする、社会を強くするために、民主党と違って、要するに小さな政府を作る。税金も軽くする。政府職員も大幅に減らす。それによって、政府のサービスも減らす。そのことによって国を全体として強くする。こういう発想でありました。そういうレーガン大統領の時代の社会改革の思想、それをより純化して、neo-conservatism新保守主義という風潮が現れた。

 日本にもそれが早速導入された。いろいろな冒険的な活動をして、その冒険のために命を失う。その冒険が自分の個人的な野心を満たすというものではなく、他の人を助けるための、あるいは世界平和を達成するための努力であったとしても、日本政府からその国への渡航はしない方がいいという勧告が出ているところに、自分から行って事故に遭う。場合によっては殺されるとか拉致されると、そういう被害に遭った人たちに対して、自己責任であるというような言葉が盛んに発せられました。“自己責任”、何ていう表現なんでしょうね。私は言葉遣いがそもそも間違っていると思うんです。他人の責任を追求するのはよくやるみっともない最も恥ずかしい行為で、責任 というのは自分で責任を取って、江戸時代だったら切腹するっていう話ですね。その責任を取るだけの力を自分に与えられていたんだから、その責任に応じて責任を取らなければいけないということだと思うんですね。

 最近の風潮は、何かそれとは全く関係ないですね。無責任な人が、責任あるはずという立場の人の過失につけ込んで、あるいは過失っていうのではなく明確な意図があった、だからその意図が許せないということもあるかもしれませんが、ともかく他人の誤りにつけ込んで、正義のふりをして、まるで石を投げつける刑罰。今でもアラブ諸国の中にそのような古臭い刑罰を実施している野蛮な国が存在しますけれども、それが法律で決まっているんだから合法的なんですね。でも合法的だからといって野蛮であることには変わりない。こういう立場を私達は持つべきだと、私は思います。「それは、近代国家に住んでいる人間の、勝手な傲慢なイデオロギーの押し付けだ」という言い方をする人がいますが、私達はまさにそのような近代社会を目指して生きているわけですから、そのような社会が伝播していくように、当然その地域地域の文化に対する尊敬を忘れてはいけませんけれども、私自身が大切にしているもの、本当に大切にしているもの、それが踏みにじられているような場面にあったら、どんなことがあっても発言すべきですよね。それを、内政干渉であるというような言い方、あるいは文化に対する干渉であるというような言い方をするのは、私は、そもそも文化に対する失礼を犯している、文化に対する非礼であるというふうに思うんです。

 話を元に戻しますと、いろいろなところで使われている“言葉”、私は今日二つ言いました。「何とか性」っていう言葉、“関係性”というのは最もおかしく、しかもよく使われていること。それから、最もよく使われているのは“責任”という表現。元々権力がなかった人の責任なんかないんですね。権力あった人に対してこそ責任は追及されるべきなんです。権力と責任というのは裏表であるという当たり前のこと。このことについて私達はあまりにも歴史に関して無知なのではないでしょうか。そんなことを考えて、私達が日常的に使う言葉、それについても常に反省をし続けなければいけないということをお伝えしたいと思いました。

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