長岡亮介のよもやま話288「役に立つことと役立たないこと」

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 今の世の中では、「役に立つ」という言葉がとても重要な言葉としてしばしば使われています。「これはこんなに役に立つんだ」というような言い方であるとか、あるいは反対に、「こんな役に立たないもの」というような否定的な使い方ですね。こんなに役に立つということを主張する人は、「こんなに役に立つのだから、もう少し政府の予算が来てもいいんじゃないか」というような論理展開。役に立たないものというふうに言う人は、「こんなに役に立たないもの継続しても会社の利益に繋がらないんだから、早く辞めてしまえ」とか、「こんなに役に立たないことやったって意味がないじゃないか」というふうに、否定する立場で語られるわけですけれど、役に立つ・役に立たないということを、そのような肯定のための根拠、推進のための根拠、あるいはそれを放棄することの根拠として使うことはいかなるものか、ということについてお話したいと思うのです。

 役に立つということは、役に立たないことに比べれば、一見より良いことのように思われます。確かに「役に立たないことよりは役に立つことの方が手っ取り早く、意味があるよね」という考え方は、特に幼い時期にはそうなのかもしれません。お腹が膨れる。寒さから暖かくなれる。幸せな気持ちになれる。そういうふうに直接、何らかの意味で役に立つということ。それが役に立たないと言われることよりも、より良いことであると。これは、その言葉が使われる場面によっては、ある説得力を持っているし、普遍性を持っていると認めざるを得ないと思うのですが、一方で、この言葉が切り離されて、「役に立つということが一方的に良いこと」であり、「役に立つことが、見えないことがよくないことである」というふうに思われて使われるならば、結局は私達を貧しい方向へと導くものでしかないということをお話したいと思うんですね。

 例えば、宇宙探査、月面探査はもうアメリカによってずいぶん行われていて、中国でさえもやっている。日本もちょっとそれに関わろうとしている。やがて火星探査、あるいは非常に難しいと思いますが木星探査、いわゆる太陽系の惑星探査というのが、次第次第に遠くまで行くようになるでしょう。今のような小惑星といったものの研究が日本では盛んですが、もう少し本格的な惑星探査があるかもしれない。そういうときに必ず地下資源に有力なものが存在するとか、あるいは木星の衛星は、巨大な木星の引力によって引っ張られている関係もあってか、まだ生きていると。生命体が存在する可能性がある。それは私達の人類の起源についての大切な情報を与えてくれる。こういうものであると。あるいは小惑星のように、星の欠片のようなもの、太陽系の言ってみれば材料となるカスのようなもの、そのようなものなかに水のように生命に不可欠なものが存在していた。そういうことが、生命の起源の発見に役立つんだと。こういう言い方をする人がいっぱいいますけれど、それはそういうふうに役立ちうると主張して予算を取りたいというだけであって、本当は惑星探査がしたくて仕方がないという気持ち。惑星探査をしたからだからなんだ、ということがすぐにわかるわけではないんだけれども、それはそのような驚きの発見に繋がる可能性があるということですね。可能性があるということを聞いて、多くの人が誤解しているんですが、その可能性が大いにあるという意味では全くなくて、その可能性がないとは言えないという程度の可能性でしかないと思うんですね。NASAのボイジャーのような大きな計画でさえ、全く考えてもいなかったような大発見に魅した。ということは、計画を作る段階では、そのような成果が得られるということについて、誰も詳細には理解してなかった。それがとんでもないご褒美がついていたということを語っているわけです。そのようなものであるからこそ、大発見というのはウキウキするものなんですが、衛星打ち上げる前から、「この衛星の打ち上げにこういう役立つ意味がある。実用性があるんだ」と、こういうような言い方をするというのは、ある意味でちょっとはしたないというか、国民を馬鹿にしているというか、そんなニュアンスを私は感じてしまいます。

 科学というのは、言ってみれば科学者の子どもっぽいといっても良い、いわば好奇心に基づくものでしかない。その好奇心を持っているということが、人間の素晴らしいことだと思うのですが、その好奇心を満足させるために研究をするわけですね。成果が上がるか上がらないかわからない研究をする。成果は上がるか上がらないかわからないというような、言ってみれば非常に心もとない研究をするのは、ある意味で天才的な人と愚鈍な人とにわかれるんだと思いますが、天才的な人というのは、うまくいくかいかないかわからないということの中に深い問題を既に発見していて、その問題を解決するっていうことを最初から目指している。偶然発見するっていうんではない。それに対して愚鈍なタイプの人というのは、本当に日常的な研究の繰り返しの中で、ふと面白い現象に出くわすという幸運に恵まれている人、そういうふうに大雑把に言っていいと思うんです。でもいずれにしても、科学というのはそのような好奇心に基づくもので、人の役に立ちたいというような道徳、あるいは経済学に基づく活動ではない。経済学に基づく活動、利益を大きくしよう、儲けようと、その儲けたお金でこのことを次のことをやろうと。こういうのは、人間として持っていておかしくない利益に対する衝動、こういう活動が役に立つ活動と言ったとすると、この役に立つ活動を全面的に否定することはもちろんできません。

しかしながら、実は面白いことに、「役に立つ活動というのに集中していれば、それによって大きな利益を売ることができるのか」というと、そうではないという逆説がある。ここが大事なポイントです。役に立つこと。それを最大限追求すると、実はものすごく小さな利益でしかないということです。反対に、突拍子もないアイディアを探求することの中から、ものすごい利益を生じさせるような産業が生まれること。これがよくあるわけです。ある意味で、近代科学が切り開いた自然科学研究の世界、それを実用的なものに応用し、工場を作り、あるいは生産物を作り、それによって社会を一変する。産業革命はその典型的でありますが、その第1次の産業革命、スチームエンジンの時代から見て、第2次産業革命つまり内燃革命、内燃機関をいわゆるガソリンエンジンの発明で、これは産業革命という名にふさわしい非常に大きな革命であったでしょう。そして、20世紀になって、一層進行した第3次産業革命、電気電子の革命ですね。電気エネルギーのもたらした革命、それから電子通信技術のもたらした革命、これも本当に巨大なものであろうかと思います。そういうものが、全て最初からこのような大きな儲けになるということを考えて、電気や電子のことを研究した人がいたんだろうか。あるいは、水蒸気のもたらす爆発的なエネルギー、これが巨大産業を生み出すという研究を最初から目指していたのだろうか。というと、科学史が明らかにしているところでは、金儲けを目指して、そのような研究に勤しんでいたのではないということは、ほとんど明らかなんですね。

 20世紀後半になってからこそ、一発狙って研究をするというような、利益追求型の学者が出てきたこととこれは事実でありますが、科学というのは元々そういうものではないということ。それに対して役に立つということを考える、その考えることの中に、100に1個くらい大当たりするものがあるわけですね。大当たりするということは、これは人類に革命をもたらす、あるいは幸せの量を大きくするというようなことも十分にあるわけでありますけれども、不幸にする面もありまして、私達の歴史は、いわば人類の歴史は戦争の歴史であったと言ってもいいくらいでありますが、その争い・戦争が悲惨なものになったっていうのは、第1次世界大戦後はっきりしたことで、要するに殺立兵器が残虐なものとして、大きなエネルギーを効率的に使うものとして洗練されたということと大いに関係するんだと思うんですね。つまり、科学の成果が役に立つことに応用され、それが私達の命までも奪うというような不幸に繋がったということを、私達は忘れてはいけないと思うんです。一見役立つと思うことが実はとんでもないことになる。一見役に立たないと思われることが大変な利益をもたらす。こういう人類文化のパラドックスを忘れてはならない。

 特に私達は、今はすっかり沈静化したと思われているCOVID-19コロナウイルス感染症2019年型、国際的にはSARS -CoV-2と言って、SARS、突発性呼吸器症候群のコロナウイルス2型、そういうふうに分類されているもの。これによって大変な生活を強いられた数年間でありましたが、今でもそれが克服されているとは私は思わないのですけれども、どういうわけか国民はそれが全く数年前の昔話のように、笑い飛ばしていますね。政府もそうです。実におかしなことです。そして、その間に被害を受けた人、もちろんそれで亡くなった方筆頭として、いわゆる免疫をつけるための薬剤によって被害を負った人、場合によっては職業を奪われた人、いっぱいいらっしゃるわけですが、その傍らしこたま儲けた連中がいっぱいいるっていうことも、私達は忘れてはいけないと思うんですね。そして、私達がそういう新しい病原体に出くわしたときに、私達特に日本においてはそれに対して戦っている人さえ非常に少なかったということ。これを厳粛に受け止めなければなりません。私はたまたま私の近い人にウイルスの研究家がいて、「ウイルスが本当に進化したときには大変なことになる。そしてそれに対する対策っていうのを取るのは非常に難しい。ウイルスを人間の手で作るっていうことはできるんだけれども、人間の手で作るようなウイルスはみんな馬鹿で、ほとんど役に立たない」と。それに対して、自然界のウイルスというのは物すごく賢く、自己変容を遂げていってたくましい。自分の子孫、と言っていいかどうかわかりませんが、ウイルスのような生物と言いづらい。遺伝子そのもののようなものっていうのは、生物とは言いづらいわけですが、生物と非生物のギリギリの限界にあるもの、それが私達に対して、本当に文明を破壊するような致命的な破壊力を持っている。それに対して、研究者がほとんどいないという我が国の基礎研究の底の浅さを露呈しているわけですが、このような災厄に見舞われた後であっても、医療では臨床と一緒にあるいは臨床以上に基礎研究が非常に重要である。国立大学の非常に難しい入試を突破したような人々は、そのような「基礎研究に本当に邁進しなければいけない」というような理解が、国民の中に盛り上がらないというのは、やはり役に立つということと、基礎ということの関係が理解されてないからではないかと思うんです。

 その日本の状況を嘆くというよりは、私は未来に向かって、私達はこの手ひどい失敗を通して私達も一人一人なにがしかを学んだはずだ。そういうふうに思いたい。少なくとも私の世代の人間は、技術の発展あるいは利益の増配ということに対して、楽観的すぎて、結果としてどちらも取り逃していたんだと思います。今頃になって、GNPが下降してきた。国債を増刷して、あるいは大発行して、国の財政をまかなうというようなことをやっていますが、それが長期的に見てどうなのかっていうことを、これをきちっと見る、あるいは批判するという眼差しがあまりにもない。とにかく役に立つのは何か、というふうな発想で、財政問題に対しても私達は非常に軽薄に対応しているということ。そのことを反省すれば、この手ひどい災厄を私達は未来に対するレッスンとして、前向きに捉えることもできるんじゃないか。私はあまり楽観的すぎると叱られるかもしれませんが、今日はあえて楽観的に捉えてみたいと思います。

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