長岡亮介のよもやま話286「子供の大人への成長を阻害する社会」

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 しばしば外国のお客さんが日本に来ると、日本の感想を聞かれて、「みんなとても親切で心が優しい」と、肯定的に語ってくれることがあります。確かに私達は、外国人が必死日本語で話そうとしているときに、その拙い日本語を何とか補って、その人が言いたいことを理解しようとし、その人のためになることをできたらやってあげたいと、自然に思いますね。外国人が来たから、それをもってそそくさと姿を隠すというよりは、どちらかというと能動的にそれをやる。そういう国民だと思います。

 国民性というものもいっぱいあって、例えばイギリス人のように、大体の話を聞いてわかっていれば、英語が標準だというふうに思っているんでしょうが、英語で説明してくれる。丁寧に説明してくれても、British Englishに慣れていない人にとっては、それが一部聴きづらかったりしてわからないことがありますけれども、概して親切です。それに比べると、フランスの人というのは、フランス語が多少わかる私達が話しかけると、非常に流暢な良いフランス語で答えを返してくれますが、その良いフランスに対して、こちらがフランス語であまり適格な質問を返せないときに、「ハアー」っていう、それがわからないっていう態度をはっきり示します。私の経験では、フランス人は90%しかわからないと、10%わからないということに対して、その10%をわからないと表明するんですね。これは何でも明確に理解しないと気が済まないというフランス人気質を代表していることであって、フランス人が決して意地悪なわけではない。ただ10%がわからないということに対して、彼らは自分が100%わかってないっていうことを表明する。そういう気がします。反対なのはイタリア人で、同じラテン系の民族なんですけどずいぶん違う。イタリアに行くと私のイタリア語はもう全然駄目ですから、本当に片言しか言えないんですけども、10%わかると90%は無視して、「いやー、わかった。わかった。」そういうふうに意気投合してくれます。ですから、本当に懐かしい話でありますが、昔々、ローマに行ったときに、たまたまそのローマのその日はゼネストの日だったんですね。レストランなんかは空いているんですけれども、普通の商店街はやっていない。そういう運の悪い日に出会ってしまった。ストライキというのは労働者の基本的な権利だというふうに理解されている西洋諸国では、「ストライキに出会った。それは気の毒だったね。汽車や電車での移動とか何かができなくなるから」、そういうふうに同情してくれましたけど、私が日本から来たって言ったら、「日本とイタリアの間には深い関係が歴史的にいろいろあった。今は労働者も団結のために一緒にデモしよう」と、デモに誘われまして、私はおっちょこちょいですから、ついその言葉に乗ってデモンストレーションを一緒にしました。私は、日本イタリアの労働者の団結のためにということで、労働者の新聞の取材まで受けている。そういうことになってしまって恥ずかしい限りでありますけど、楽しい思い出です。

 このように国民性の中にいろいろある。日本はどちらかというとイタリア的で、10%であるか5%であるか1%あるかわかりませんが、本当にひと言ふた言わかると、もうそれで本当に親切にしてくれるというのが一般的ですね。外国人が珍しかった、あるいは外国人に対して用心というのか警戒心を標準的には持っていなかった。そういう時代が長く続いたっていうことがあるかと思います。またごく最近の百数十年で言えば、外国から入ってくるもの、これが無条件に良いものというふうにして、外国文化崇拝、舶来崇拝、私の子供の頃は「これはすごいよ。舶来品だからね」「これはイギリスの繊維、あるいは布で作った背広だから、高級品なんだ。これイギリス製の洋服なんだ。イギリス製の帽子なんだ。」と、こういう舶来品というのが珍重されていた時代を知っています。そして戦後になって私が生まれてからは、アメリカ製品というのはこれまた無条件に良いものというふうに言われていました。アメリカの電気冷蔵庫なんか今から考えれば電気の効率なんかひどくて、そんなものよく日本人で買ったなと思いますけれども、巨大な冷蔵庫が家に鎮座ましましていた。そういう文化の中で生きてきた人、それを誇りに思って生きてきた人がいたことは事実です。

 今すっかりその文化的な状況は変わりまして、日本はかつてはGNPが世界第2位というほど輸出でお金を稼いでいることが出来た。Made in Japanというのが、蔑みではなくて、品質保証というようなニュアンスを持って使われていた時代があるわけです。その時代、日本人はずいぶん世界に対して、高慢ちきな国民になったような気がしますけれども、それは言ってみれば、世界情勢を知らないほんの一部の日本人の傾向でありました。私自身が日本人の団体観光客とホテルで一緒になったときに、本当に目から火が出るほどというんですか、顔が火照るほど恥ずかしい日本人の横暴な振る舞いを見て、悲しくなったという思い出もあります。でも、そういう日本人の外国との関係の短い変遷を見ても、「全ての日本人がこういう傾向持っている。例外なくそうである」というようなことはなかなか難しい。いろいろな日本人がいるということです。同じことは、日本に来ている外国人に対しても言えるわけで、日本に来て、本当にしょうもない製品を爆買いしてくださっている近隣の国の人々、爆買いをするということにはそれを支える文化、歴史、そして今社会の状況っていうのがあるに違いない。そういう想像力は別として、小さな店の中で大声で怒鳴り散らしている外国人を見ると、「なんていうことだ。これはまさに、3,40年前の日本人がパリやロンドンに行ったときにした振る舞いなんだろうな」というふうに思います。私はそういう意味で、いろいろな外国人を見ていますから、ニュートラルというよりはいろいろな人がいるんだという多様性を考慮して、お話をするのです。

 ごく最近でありますけれども、混んでいる電車に乗って、外国の人、おそらくその風貌からしてアジア系の人に、席を本当にさっと譲ってもらい、本当にありがたい思いをしました。私は圧迫骨折をやっている関係で背中が曲がっているということが外見からもわかるのかもしれませんが、私はリュックサックを背負っていましたから、その上オーバーコードも着ていましたから、普通にはわからないはず。しかも帽子をかぶっているので白髪も見えないはずです。でも、私の全体的な動きから、この人は身体が障害者であるというのは大げさかもしれませんが、不自由しているということは、さっと見て取れたんですね。そして、本当にぱっと席を譲ってくれた。でもそれに対して、若い日本人は、それがいわゆるハンディキャップを負った人々の席であるにもかかわらず、携帯電話を足を踏ん反り返してやっていました。私の存在には気がつきもしなかったのでしょう。私はその違いを見たときに、結局、育て方の違いというか、子供をおとして立派に育てることを失敗してきた日本人ということを、痛切に思いました。外国で、日本に来て活躍しているという人は、いわば労働力として来ているという人も多いのですが、ある意味でビジネスマンとしてエリートとして活躍しているという人も少なくないと思うんです。そしてエリートとして活躍している人は、当然エリートとして振る舞わなければいけないという最低限の教養をしっかりと身につけている。

 それに対して日本人の方は、今は本当に学校教育がここまで普及して、いわば学校教育というより大衆教育になっていて、教育という言葉はついていますが、相手が大衆なので、大衆のレベルに合わせた教育ということになると、結局これは教育ではなくて、大衆に対する娯楽時間になっている。大衆の水準に合わせて娯楽を提供している。学校がそのようなものになってしまっている。ですから、例えば、年取った方が電車の中に入ってきたときに、その瞬間に当然自分の体の中に走るべき衝撃的な電気が起きないんですね。それがごく普通の風景で、自分が座って携帯電話で情報をやり取りしている、あるいはゲームをしている、その自分の特権が嬉しくて仕方がないのですね。私はそのことをさらに痛感したのは、なんと困ったことに今の日本の社会では、親たちが子供を座らせるんですね。確かに子供が立っていると危ないということもありますけれども、子供は場合によっては、交通費、切符の料金を払っていない。小学生までは半額なんですね。私の子供の頃は、子供は、子供はガキと言われていましたが、「ガキは電車賃の半分も払ってないんだから立ってろ」、そういうふうに大人たちから言われたものでありました。確かに本当に安く、私達は旅行することができたわけです。そういう子供の特権を与えるということは、いろいろな意味があって、簡単にこれは語り尽くせないと思いますが、「子供にはできるだけ多くの体験を、経済的な負担を軽減してもさせるべきだ」という考え方が基本にあるんだと思います。その子供たちが、自分たちが席を奪うかのように座る姿を見ると、本当に悲しく思います。子供たちを育てる親、その教育ができていない。子供たちには責任はないんですね。子供たちは親の姿を見て育っている。子供を育てるということは、私達人間の最も重要な責務dutyでありまして、そしてそれは、大人にとって子供を育てるということが大きな喜びでもあるわけです。自分の子供が立派な大人として成長していく姿、これが最も誇らしいことであるはずなのに、今の親たちは、私が見てびっくりしたのは、塾に行く子供たちの勉強を見ている。親が電車の中で塾に行く子供たちの勉強を教えている。あるいは子供たちは、親が教えられないレベルまで達している子供たちは、親が監視しているもとで塾の勉強に夢中になってやっている。そういうふうに電車の中の時間を過ごすことが、親も子供も当たり前に良いことだと思っている。空いているならばそれは時間の有効活用という点で良いことなのかもしれません。しかし、子供のときにしか学べないこと。それは、「自分たちが半人前の人間として育っている。それゆえに、大人に対してせめて席を譲るという栄誉は感じなければいけない。」そのときに大人たちから、一人前の子供として「ありがとうさん。よく譲ってくれたね」と、その言葉を一言かけてもらうだけで子供たちは大きく成長するはずなのに、そういうチャンスを奪われている。

 そういうことをいろいろ考えてみているうちに、昨日たまたまあった機会でありますが、ミニコンサートのようなものがありました。席が用意されているんですが、決して十分ではありませんでした。そのなかで、子供たちがみな席に座り、年取ったおじいさんおばあさんが立っている。そういう姿を大人たちも見えたはずなんですね。でも、子供たちに、「座るのをやめて、立って大人たちに席を譲りなさい」という親は、多分1人もいなかった。あるいはそこにいたかもしれませんが、その場に恥ずかしくていられなくなってしまったのかもしれません。今、少子化時代っていうふうに言われていて、子供を大切に育てるということは一番大切な我々の義務となっていますが、その「大切な子供たちを一人前の大人に育てる」ということが本当に大切なことで、子供を甘やかす社会の中で育ててしまったら、この先、財政も破綻して真っ暗な日本が来ることが統計的に明らかな時代に、子供を甘やかしてちやほやして育てるということが、果たして子供の発育に良いことなのかどうか、子供たちを迎える未来の社会が灰色にくすんでいる、そういう時代にあって、子供たちに真の未来を開くことを考えるならば、大人たちとして本当に立派な大人として子供に接するということが大切なのではないか、と改めて思いました。やはり、電車に乗ったときも、子供たちの、特に私立の学校の子供たちのキャーキャーした態度とこういうのを見たら、これからはおじいさんとして厳しく注意しようと私は心に決めました。皆さんのお考えを反発でも何でも結構ですから、聞かせていただければと思います。

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