長岡亮介のよもやま話285「本当の豊かさ、押し付けられた贅沢の虚構」

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 今日は、「高いとか安いとかという言葉」について、ちょっと考えてみたいと思います。そういうふうに考えたのは、私達はともすると、安売りとかというものに対してすごく脆弱な国民性を身に着けてしまっているのではないかと思うからなんです。典型的なのは、いろいろな商売が「マイレージビジネス」と私がかつて呼んでいた航空会社のマイルが貯まるというやつが、全ての小売業者に適用されて、それも業者ごとにやったんではやはり信頼性がありませんから、日本全国で統一的な「何とかポイント」というような形、大きなポイント会社がせいぜい10個くらいなのであろうと思いますが、ありますね。そしてそこで「ポイントが貯まる」。ポイントが貯まるって言っているうちはまだいいんですけど、「ポイントを貯める」とこういうふうになると、ポイントを貯めるということが言えば目標になってきている。つまり、本当は市場経済のロジックの中で誘導されている。あるいは釣られているという立場にいる私達一般の消費者が、自らその市場でポイントを貯めるという能動的な行為をしているかごとく行動している、ということに対して警戒心を持たなくなっているということを考えたいわけです。

 割引というのは、その割引をしてもまだ儲かるだけ利益が出ていたんだということを、普通は考えると思うんですが、一般にいつもの平常価格に比べると、これで1割得だとか、あるいはときには1%得だとか、そういうもので釣られてしまう。ということは、私達が安いとか高いとかということに関して、健全なる感覚を失っている証拠ではないかと思うんです。そもそも価値があるものであるならば、その価値というのは、必ずしも貨幣価値で測られるべきではないと思いますけれども、どんなに苦労してでも手に入れたい、そういう重要な価値というのが世の中にはありますよね。それに対して、そんなものを本当に1円でもいらない。そういう自分にとって無価値なものというのもあるはずだと思うんです。安いとか高いとかっていう貨幣価値に換算することによって、私達は本当に重要な価値というもの、英語で言えばValue、それについて無頓着になっている。いわば貨幣価値に還元されるようなものにしか、価値を感じられなくなっている。そういう恐れがあるのではないかということです。どんなに貨幣価値として、高いものであってもお買い得というのはあるはずであるし、反対にどんなに安くても損なものというのはあるはずですよね。その価値を自らの判断で決めることができるというのは、私達の思っている、いわば侵し難い基本的な権利だと思うんですけれども、その基本的人権がだんだん守られなくなってきている。人々がその人権意識に対して、希薄になっている。理解が希薄、認識が希薄、意識が希薄、どれでもいいと思いますが、そうなっている傾向がないだろうかということ。それを私はちょっと心配するんですね。そして、高いものだったならばすごく高価なもの。高価というのは単に価格が高いというのですから高価、でも高価であるということは価値があるっていうことを意味しているわけではない、という当たり前の事実に気が付かなくなっているということですね。挙句の果てはポイント還元とかという言葉につられて、人によっては必ずしも必要でないものまで買ってしまう。全く馬鹿げたことですね。

 今の日本では、物が溢れていて人々の購買意欲がなくなってきている。いかにして消費を刺激するか。これを政治家が重要政策課題として語るような馬鹿な時代になっています。人々がもし商品を購入しなくても満足する生活を送ることができるならば、その社会は本来は素晴らしい社会と言うべきではないか。そのために無駄遣いするお金を、戦争で悲惨な目に遭っている子供たちのために寄付することができる。その方がよっぽどこころ豊かな生活になるんではないかと思うんですけど。最も寄付の問題に関しては、難しい問題がいっぱいあって、私達が一生懸命寄付してもそれが寄付する団体に対して寄付しているだけで、私達がそのお金を届けたいと思うところに届くとは限らない。いわば寄付を装った詐欺。それがいわば決して詐欺会社であると人々が疑うことがないような、そういう組織にまで今広がってきています。「子供たちのためにあなたの毎日の500円で何人分の食事が買えます」。こういうような宣伝をしている団体を見かけることが多いと思いますが、その広告のためにどれほどのお金が使われているか、考えたことがありますか。もし皆さんが寄付をするなら、私と同じようにぜひ絶対に不正をされることないところに寄付するのがいいと思います。私自身はいくつかの団体に寄付をしていますが、国境なき医師団(Médecins Sans Frontières=MSF)そういうフランス語が正式名称ですが、日本の活動団体もあります。ものすごくみんな頑張っています。そしてそこに出した寄付は決して無駄に使われる心配がない、と私は確信しています。今本当に寄付することも難しくなっていますから。あんまり、「寄付するならばお金の良い使い方だ」というふうに、私の発言を軽はずみな発言として誤解しないでください。

 ただ高価なものを買う生活、消費を活発にする生活、それが豊かな生活なのでは全くないということですね。自分自身を豊かにする生活で自分自身を豊かにするというのは、一言で言えば、自分が昨日の自分よりも新しい自分に今日はなっている。昨日知らなかったことを今日は知っている。昨日わからなかったことが今日は理解できる。そういうふうに私達の理解の幅が広がる。私達の心の幅、精神の奥行き、それが広がる、ということですね。これは心の豊かさ、あるいは人間の豊かさのほんの入口かもしれませんけれども、それが豊かであるということであって、巷で言われるように、燃え尽き症候群のように懸命に働く。そのことだけで豊かになるのではない。まして「働き方改革」とかと言って、自分の余暇の時間が増える。それが豊かな生活あると思っていたら、それは大間違いですね。余暇何かが無いくらい忙しい。それが実は本当に豊かな生活です。忙しいというのも、お金を稼ぐために忙しいだったら悲しいですね。自分自身のために使う時間、それを捻出するために忙しい。そういう生活が豊かな生活ということだと思うんです。

 というわけで、私達は、物が高いとか安いとかいろいろなことを言っていますけども、「本当の意味で、何が安くて何が高いのか。本当の意味で、何が贅沢なのか。本当の意味で、何が重要なことなのか」ということを考えることから、私達がずっと遠ざけられているという現実。それに、私達はもう気づいていい頃ではないか、と私自身は考えています。いかがでしょうか。

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