長岡亮介のよもやま話283「幸福と笑顔の深い関係」

*** 音声がTECUMのオフィシャルサイトにあります ***

 よく人は、「幸せなんて本人がその気になればいいじゃない」ということがありますね。確かに、「これが幸せだ。これこそが幸福だ。」ということを、単純に語ることができないことは明らかです。しかしながら一方で、「その人が幸せならそれでいいじゃない」という言い方の中に、一種の無責任あるいは自分の幸せを妨害して欲しくないと思う利己心が、入り混じっているような気がすることが少なくありません。今日はそのことについてちょっとお話しましょう。

 確かに、「これが幸せである」ということを、人に押し付けることはなかなか難しい。でも、これだけはきちっと合意できると思うのは、全ての人は幸せになる権利がある。あるいは、幸せになりたいと思って生きているということです。幸せというのはとても大切で、全ての人がお金持ちになりたいと思っているとか、全ての人は大きな家に住みたいと思っているとか、というふうに幸せを具体像にすると、それは途端にインチキになるんだと思うんですね。我々はともすると、その幸せという非常に重要な概念を奇妙に具体化したり、あるいは企業に個人的な体験に基づかせたりすることが多いんではないかと思うんですけども、。幸せというのは、必ずしもそういう一人一人が言葉に出して表現したときに、それで表現しきれる単純なものではないと、まず確認したいと思うんです。

 幸せを測る尺度として、私は一番わかりやすいのは「笑顔。あるいは満足感にじみ出る笑顔」を上げたいと思うんですね。特に若いあるいは幼い少年少女の笑顔、時にはハニカミを含みながらの笑顔、その笑顔の中にその幼い子供の幸せを見て、それを見る私達も幸せになる。そのくらい、それは幸せの明確な象徴であると思うんです。要するに、「幸せは顔に出る」ということですね。反対に言うと、どんなに自分が幸せだと強弁しようが、その人の笑顔が美しくなければそんなものは幸せでも何でもない、と私は思うんです。前に触れた話題ですが、本当にまだそんなにおばあさんというわけでもない女性が電車の中に駆け込むように乗って、座る席を確保して、ニンマリとする。その笑いはむしろ不気味な笑いという印象で、とても幸せそうな笑顔と祝福したくなるようなものではない。むしろグロテスクなものですね。そして、自分が得をしたということに自分自身が満足をするのか、あるいはそれを周囲の人に示したいのか、ニタリと笑って携帯電話など取り出す。そういう姿を見ると、私はかわいらしいとか美しいとかではなく、はっきり言ってものすごく醜いと思うんです。人間は悲しいことに、とって高貴な存在であると同時に、ものすごく低俗な存在であるわけですが、その人間存在の持つ究極的な低俗性を、自ら明らかにしているようでいて、私自身は悲しく思うことが少なくありません。

 最近、若い少年少女たちの、本当に心の内からは湧いてくる幸せそうな笑顔を見る機会があり、そしてたまたま昨日ですが、バスの中でものすごく不機嫌な、作りは美しい、着ているものを美しい、そういうご婦人でありますが、ものすごく不機嫌な表情をしている。不機嫌な表情しながら携帯電話を操作している。そういう姿を見て、この人の周囲の人は、この人を幸せにすることができないでいるんだなと。あるいはこの人のせいで、周囲の人も幸せになれないでいるのかもしれないな、などと余計なお世話のような想像をしておりました。どんなに美しく着飾っても、どんなに高級な化粧をしようとも、不機嫌だったら美しいはずがないですよね。本当に、特に若い女性の屈託のない笑顔は、全ての人間にとって、魅力的な美しさなんだと思います。

 有名な昔の映画で『男はつらいよ』、車寅次郎っていうのが主人公の映画がありますが、その第一作が今無料配信で見ることができる。Amazon Prime Videoというやつですね。そこに出てくる倍賞千恵子が演ずる「さくら」という女性は、本当に魅力的です。その笑顔が、その泣き顔が、全てかわいらしい。そして、その笑顔や泣き顔の中に、彼女の生き方の幸せさが溢れている。そういうふうに思うんです。倍賞千恵子の話をしたついでに、私は彼女をこの頃から敬愛してやまない女優さんなんですが、『プラン75』という非常にセンセーショナルな映画に主演しました。これもAmazon Prime Videoで無料で見ることができます。これはもっともっと話題になっていい映画だと思いますけれど、非常に先鋭な問題意識の定義であると思うんですが、そういう鋭い問題提起以上に、私にとってすごく印象的だったのは、本当に老いを隠さず、あるいはむしろ老いを演ずる倍賞千恵子の演技の中に、昔と全く変わらない倍賞千恵子のかわいらしさ、美しさが出ていたことでした。やはり、幸せだったら、魅力的に見えるはずだ。これは、疑い得ない自明な命題で、いちいち証明するまでもないことではないか、というくらい私は強く確信しています。反対に、幸せそうに見えない表情を持っている人は、どんなに自分が幸せだと言い張っても、私はその幸せには重要なものが欠落しているんではないか、と思います。

 私が日本の教育、あるいは日本の学校制度がおかしいんじゃないかと思うようになったのは、今から40年くらい前からなんですが、明らかに少年少女あるいは青年の表情が、日本の青年の場合ですね、暗くなってしまった。そして、明るい場合であっても、悪ふざけしているだけで、いかにも馬鹿馬鹿しい。ちょっと日常的なその子の生活を疑ってみたくなるような愚かさに満ちている。そういうふうになったことでした。やはり、若い人が生き生きと美しく、楽しそうな笑顔で毎日を送ることができる。そういうものでなければ、学校じゃないですよね。学校というものが、それと正反対のものだったら、無くなった方がよほど良い。最近の私は、そのような教育の名に値しない学校は、廃止する義務がある、「反義務教育論」というのを掲げています。といっても、もちろん半分は冗談ですが、半分が本当であるということが、我が国の深刻な学校事情を物語っている、と私は思います。

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