長岡亮介のよもやま話282「「贅沢は(素)敵だ」という言葉について!」

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 先の戦争の間じゅうにあった実話と聞いていますが、落書きに「贅沢は敵だ。」これは落書きではなくて、国民の士気高揚を狙う行政機関あるいは軍部からの宣伝ビラですね。「贅沢は敵だ。敵に打ち勝つまでは欲しがりません。」こういうことが国民の日常的なフレーズであった時代がありますが、そのときに「贅沢は敵だ」というその張り紙にちょっとしたいたずらをして、敵の前に素数の「素」という言葉を入れて、「贅沢は素敵だ」と書いたという話があります。本当にどのように実現していたのかわかりませんけれども、軍部あるいは行政の張る一大キャンペーンに対して、それをちょっとひっくり返すことで笑い飛ばす。いわば根底的な批判を笑いの中に包み込む。こういう心の余裕でもって反撃する素晴らしいアイディアだと思いますが、贅沢というものは素敵だとその人が本当に思ったかどうかはわかりません。

 そもそも贅沢とは何か、素敵だとは何か、という根本問題について何も問われていないからですね。本当の意味で、私達は、贅沢とは何か、素敵であるとはどういうことか。そういうことを考えることがとても大切だと思うんです。平凡に考えていると、贅沢というのは自分の収入以上に多く支出すること。あるいは、自分が必要なもの以上に物を私有すること。これを「贅沢」と言うのではないかと普通思いますけれども、私達が必要以上に物を所有し、あるいは必要以上に物を食べているということは、少しストリクトに考えると、現代人はある意味でみんな食生活に関しては贅沢しすぎている。実際、痩せ細っている人よりは肥満で命は縮めている人の方が遥かに多い。要するに必要以上に栄養を取っているわけですね。それは贅沢と言えるのでしょうか。ある意味で、必要以上なカロリーを取る日々を送っている人々は、社会的には貧困層であることが、先進国では一般的な常識になっており、特にアメリカ西海岸でヒスパニック系の人々が多い地域は、収入も低いわけでありますが肥満の人も非常に多い。こういうことが一般的に指摘されています。統計的なデータとして、私はきちんとしたものを持っているわけではありませんが、見聞した情報で見る限り、それほど間違っていないと思うんですね。逆にお金持ちになると、その取った栄養を消費するために、ジムに通ったり、トレーナーについたりしている。全く馬鹿げた話ですね。栄養を取りすぎて、取りすぎた栄養を消費するために、時間を消費している。何が贅沢なのか。むしろ本当に貧しい生活、栄養を無理やり取らされ、無理やり栄養を消費している。ずいぶん厳しい毎日を送っているんじゃないか、そんなふうに思います。

 同様に、消費しきれないだけの財産を持っている人、これは贅沢をしているというふうに普通は思いますね。大きな家に住み、非常に快適な暮らしをしている。贅沢な暮らしだというふうにいいますけれども、自分が踏み込むことのないような部屋を維持している。その部屋を綺麗に保つだけでも大変な労力を要するということを考えると、それも言ってみれば、経済的な支出を大きく伴う生活をしているというだけであって、本当に贅沢をしているかどうか。そう考えると、少し怪しい面が見えてくるのではないでしょうか。

 「贅沢は敵だ」というふうに言った軍国主義的な政府あるいは行政機関の人たちも贅沢の定義はしていない。「贅沢は素敵だ」といった人たち、これはとても素敵な切り返しだと思いますけども、そのときに素敵な贅沢っていうのは何なのかということについては規定していない。私達はある意味で人生を豊かにおくりたいと、みんなが思っているんだと思いますが、その豊かさというのは決して経済的な豊かさと言うんではない。ある意味で、ゆったりとした贅沢な暮らしというふうに言ってもいいくらいではないかと思うんですが、そういう「心の贅沢」を考慮に入れると、贅沢という言葉自身が非常に奥行きを持った言葉であるということがわかります。「無駄な消費」ということと「贅沢」というのは、しばしば同値に見られていますが、必ずしもそうではない。消費自身はどんなに消費してもそれは豊かさには結びつかない、と私は考えているんですね。この問題については、また別の機会にお話したいと思いますが、今日は「贅沢は敵だ」そういう金切声で叫ぶような世の中の風潮に対して、それを「素敵だ」と、素数の「素」という字を一言入れたことによって、ひっくり返す。その国民の知恵を題材として、ちょっと考えていることについてお話いたしました。

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