長岡亮介のよもやま話281「他人(ひと)の振り見て我が振り直せという古人の言葉を思い出した話」

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 前回「自分の姿を自分で見つめることができるか」というわかりやすい主題で、少し哲学的に面白い問題を提起したつもりなんですが、そのことに関連して、私が子供の頃をしばしば親たちの世代の人に教えられた言葉があります。それは、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉でした。それを聞いたときに、その言葉の深い意味が自分自身理解できていたとは思いません。「人の振り見て我が振り直せ」とは、結局のところ、「自分のことは見えないから、人の姿を見て、その中に自分の姿の醜いものを発見しろ」という意味だったんだということが、今頃になってわかる有様で、大変お恥ずかしい次第でありますけれども、私は、他人の振りを見ると、その振りがあまりにもみっともなくて、人間はこんなに情けない存在なのかと思うことが、昔から少なくありません。とりわけ私にとって、ひどいなっていうふうに強く感じるのは、自分がちょっと偉そうな立場に立っているそういう人間が、自分より弱い立場の人に対して尊大に振舞う有り様です。自分の方が地位が高い。あるいは学歴が高い。あるいは経済的な地位が高い。政治的な地位が高い。あるいは世襲制の社会の中にいて、自分の方が身分が高い。そういうような理屈にならない理屈。それでもって、自分を尊大に振舞う。

 私はごく最近非常に悲しい場面でありますけれども、ある地域では大きな病院で、そこのある診療科の部長と言われる人が、大した実力はないのですが、自分の実力を誇大に宣伝して、それによって病院の診療部長という役職を手に入れる。そういう人なんですが、そういうことは世の中でよくあることなので、私は驚かなかったのですが、彼が全くひどい診療の見落としをした。本来ならば、丁寧に見ていれば、見落とすはずがない見落とし。非常に深刻な病いに急速に発展していくだろう、そういう兆候を診察でつかみながら、その情報がありながら、所見なしということで患者さんを返してしまったということでした。私がその話を聞いたのは、驚くなかれその科に属する名医の先生を通してではなく、なんとその診療科で働いている技師の方です。技師は医療免許を持っていませんから、診断をすることはできませんが、技師と言われる人は一般に非常に多くの経験を積んでいますから、経験を積んだ腕のいい看護師さんと同じように下手な資格だけの医者よりはよっぽど目がしっかりしているわけです。その技師から「この見落としは患者の命に関わることなので、とりあえず、何とかしなければいけない。患者さんに家に帰ってもらったけれども、もう1回入院してもらわなければならない」という真摯な訴えを、なんと主任のドクターが「自分が見て何もないのだから、それはないんだ」と言いはったという事件。それを耳にして、本当に心が痛んだんですね。そのろくでもない医者、たいして学歴もない、たいして学術論文もない、立派な業績もない。しかしながら、「人より読影する力はあるんだ」というふうに言い張り、それは簡単に1枚1枚の画像を、何について語っているかだんだんばれてきてしまいましたが、それを素早くこなしている。要するにスルーしているということなんですが、それによって実力があるというふうに病院経営陣に自分を売り込み、そしてそのミスを指摘した自分の部下に相当する人、そのミスを指摘してもらったということは自分の医師としても生命を救ってもらったような、本当にありがたい経験であるのですが、それがばれると自分の実力のなさがみんなの前に明らかになってしまうということで、その情報を握り潰した。自分が助かるところの本当にラッキーな情報を、自分の権力で握り潰す。そういうことが、実際にあったということを聞いて、本当に情けないと思いました。

 人間の社会というのは、所詮そんなものだということを言ってしまえば、それっきりなんですけれども、そのようなみっともない人間、私の目から見ると特に男性にそういう人が多いように思うのですが、本当に子供の頃からきちっと正しく成長させられていない。何か人より少しでも得するような生き方をしろ。そういうふうに指導されて、大人になってしまった。もう中年になってしまった。老年も近づいている。もうその人に未来はないと言ってもいい。その人は、どんなにうまく世の中を渡って1人も大きな収入を得て、蓄財に励んだところで、その人を尊敬している人は誰もいない。おそらくその人が最も信頼しているであろう家族ですら、その人のお金のことを信頼しているだけで、その人格については全く信用していない。あるいは、その人が手塩にかけて育てたであろうその子供たち自身がその人を見習って生きてってしまうという、人生にとって最も巨大な負債を自ら大きくしながら生きている。そのことに気がついていない。

 本当に残念なことなんですが、人間の生きている社会の中では、そのようなみっともない人生を生きる人が少なくない。できるだけ私達はそういう生き方をせざるを得ないような、みっともない運命を背負っているということを常に自覚して、少しでもそのようなものにはまることのないように、人生の落とし穴、陥穽に陥ることはないように生きていきたいと思うのですが、なかなかその落とし穴が見えない。自分がやっていることがみっともないことであり、恥ずかしいことであるということにさえ気づいていないということです。だいぶ前のことでありますが、電車の中に駆け込むように乗ってきて人を押し退けて、そして空いている席をきちっと座り、そこで自分の携帯電話を開いて嬉しそうに得意そうにニタリと笑っている中年女性の姿を見て、本当に背筋が冷たくなるほど嫌な思いをいたしましたけれども、正反対に、昨日私は、私は特にそんなにヨボヨボしていると思っていないのですけれども、私が電車に乗って行ったら、外国人の団体観光客でしょうか、その中の1人がすくっと私の前に立って、私を手で英語ではなく手で、自分の席に座ってくださいって、そういうふうに言ってくれました。私は本当に簡単な礼儀でThank you very muchと言いましたけれども、考えてみれば当たり前の話ですね。そしてそのことによって立ったことによって、その人と数駅後にさよならをしたんですが、それは清々しい別れで2人にとってお互いに気持ちの良い時間だったんだと思います。それに対して、ひとを押し退けて乗ってきて、空いている席に駆け込んだ人の薄笑い、これは思い出しても気持ちの悪いものです。その人にとっては、それが気持ち悪いというふうに思われているということにさえ、想像も及ばないことなんでしょう。こんなにわかんなくなってしまったら人生おしまいだ、というふうに私は思います。

 私達は、ともすると本当にみっともない生き方を平気でしてしまう。そういう情けない人間であるっていうこと。それを、私の親たちの世代は、「人の振り見て我が振り直せ」と言ったんだと思います。ごく平凡な周りの人々の生き方を見る。そして自分の人生を反省せよ、ということだと思うんです。最近は学校教育において文科省が道徳というのを教科に入れるということをやりましたけども、そんなもの学校の先生は教えられるんでしょうか。道徳を教えるためには、道徳を教える力がないといけない。それは数学を教えるのに数学の力がないといけない、国語を教えるのに国語の力がないといけないというのと同じような意味で、道徳を教えるには、徳の優れた人でなければならない。徳の優れた人であるためには、徳の優れたような生き方をできる人でなければならない。しかし今学校の先生が置かれている状況は、果たして人徳を磨くような環境にあると言えるでしょうか。ともすれば上職、いわゆる校長とか教頭とかにゴマをする。あるいは教育委員会の言うことをそのままリフレインするというようなことで、覚えめでたい自分を演出する。そして父兄の前では自分がいかにも指導的な教員であるかのような顔をする。そんな本当に、はしたないみっともない人間に、道徳なんか教えられるはずがありませんよね。ましてそのような競争に打ち勝って、校長や教頭や教育委員会の要職に就いたような先生に、道徳なんか教えられるはずがないと思いませんか。私は、「人の振り見て我が振り直せ」と教えた昔の人々の叡智、「自分の姿を見ることはいかに難しいか。だから人のみっともない姿、これから学べ」といった叡智に、今更ながら深く感動している次第です。

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