長岡亮介のよもやま話276「自己責任を語る無責任」

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 論理を尊重しない、あるいは論理を無視した、ひょっとすると、論理を全く使いこなせない、そういう政治家を選んでしまった私達の責任という話をしたついでに、「責任」という言葉が、とんでもなく間違って使われているこんにちの現状を考えてみたいと思います。私がこのような問題に最初に気づいたのは、自己責任という言葉を聞いたときです。例えば、危険地域、外務省が渡航制限を勧告する。それをわかっていながら、危険な地域に行ってテロリストに襲われたというような事件が起きたときに、それはその人の勝手でしょと言わんばかりに、自己責任という言葉がしきりと語られるようになった時代があったと思います。それまではそんな言葉さえ存在しなかったと思うんですね。私はそのときに、この人は一体何を言っているんだろうというふうに思いました。要するに、責任の中に自己責任という本人だけが負う責任があって、自分たちは関係ない。それは「その人の自己責任、その人が自分自身で責任を負うべき問題だ。他人が責任を感じる必要はない」という趣旨の発言だったのですが、果たして私達の社会の中で、「責任」というのを語るときに、自己責任とみんなの責任。その二つに分けることができるのかという問題です。

 私が最初に感じた疑問というのは、例えば、政治家が自分の部下の不祥事に対してその部下のやったことに責任を取るという日本の風習、これはずいぶん昔から続いているようですが、一番不幸なのは官僚とかサラリーマンで、自分の部下がたまたまとんでもない不祥事を犯した。そういうことがあっただけで、その人の立身出世、キャリアアップの道が途絶えてしまう。責任を取ってその道から外れるということがあるという話を聞いたときに、なんて馬鹿げているんだろうと思いました。自分が知りようもないことについて、そのようなことが起きたことにトップが責任を取る。全く私はあり得ないことだと思いましたし、そのトップがキャリアアップの道が閉ざされるということが気の毒だということ以前に、そんなことで重要な人材を失ったら、組織的な大敗北ではないかと、そういうふうに思ったからです。私の知人が日本銀行のような立派なところに勤めていたときに、そういう目に遭いそうになった場面があって、初めて自分の問題としてそのような事柄を受け止めたことがあるのですが、本来全くおかしい話ですよね。部下が犯した過ちに対して、上司が責任を持つ。これは愚かなことです。

 他方、本当にどうしようもない問題がありますね。組織内で起こった問題について、それが不祥事のように世間で騒がれてしまう。そういう場合、そういう場合に、さてどうしたものかということを、担当者もはっきりしない中で、どこに責任があるかもわからない中で、世間から追及されるという不条理な場面があると思うんです。そういう不条理な場面があったときに、それを誰の責任とするかというふうに、断罪すべき人を特定して、その人に罪をかぶせるというようなことができないような場面。そういう場合に、上司が責任を取って、それは全て私の責任ですと部下は何も悪くない。というふうにして決着をつけるのは、非常に良い方法の一つでと思います。

 例えば、生々しい話を一つ、これは具体例としてではなくて、説明のための架空の例として提出するわけでありますが、例えば入学試験において、入試のデータを扱う際に、人間だったらば決して犯さないようなミスがコンピュータによって起きてしまったために、皆さんにはそれはわかりづらいと思いますが、コンピューターによる数値の処理というのは、コンピュータの原理がわかってない人がパーソナルコンピュータを使うという時代になると、これは頻繁に起こることで、表計算ソフトなどを使って統計処理をすると非常に危ないことがあるんですね。例えば整数と実数というのは、3という数、整数としての3と実数値と3というのは、コンピュータ上は違うわけです。コンピュータの実数としての3というのは、実数はコンピューターでは取り扱うことができないので浮動小数点というのを使うんですが、浮動小数点として整数値の3を扱うと、実はコンピュータ上は整数としては表現されていないんですね。あくまでも浮動小数点として格納されている。記憶されている。そういうデータを基にして、足し算と掛け算と割り算と引き算と、そういう複雑な計算をすると、浮動小数点の誤差が累積することによってとんでもない間違いが起こる。例えば2+3=5というのは、整数としてはコンピュータも決して間違いません。しかし、浮動小数点として、例えば2を10回足す。20になるに決まっているじゃないかというふうに思う。2を10回足すくらいだったらどうってことない。2を100回足すとか、2を1000回足す、そういうふうに累積させたときに、誤差がやっぱり累積してたまる。そしてその結果、表示したときに2を1000回足したら2000になるはずなんですが、たまたま2001になってしまう。たまたま1999になってしまう。そういうことがあるんですね。コンピューターは浮動小数点を扱うときと整数を使うとき、これを区別して使えることができるように、今の普通のユーザーが使うためのソフトウェアは上手に設計されているんですが、ユーザーは見た目でしか判断できていないので、その表示が2と3、あるいは3とか表示されたら、それは整数だと思うのは無理もないことであるわけです。そういうような、例えばコンピューターのソフトウェアの使い方を知らない人が使ってしまったために、入試の判定で非常に重要な役割を果たす合計点の集計に、誤りがあったということが後でわかるということは、ありうる話であると思いませんか。

 実際にコンピュータ処理しているのは、コンピューターについて深く理解している人ではない。本当のパーソナルコンピュータのユーザー、何も知らない、浮動小数点のことも何も知らないユーザー。そういう人たちがコンピューターの処理という下請け業務を請け負って、自分で引き受けて、やってくれて、結果が出ているわけです。結果が出たときに、その中でどのようなプロセスが行われたかということについては、結果を受け取った人は誰も知らない。それではこの結果の通りであろうというふうに考える。そして合格発表してしまったとしますね。この合格発表の結果は、実はコンピューターの間違いによって起きた。そのときにそのコンピュータソフトウェアについて知らなかった人が責任を負うのかというと、その人は知らなかったわけですから責任負わせるべきでありませんね。誰が負うのかと言ったときに、私はそのときに便利なのは、学長とか学部長という人で、学長・学部長というのはその人じゃなくては務まらないっていう仕事じゃなく誰かがその仕事をしてくれればいいわけですから、学長なり学部長なりが、「それは私の責任でした」というふうに、社会的に公表して首がすげ替わるということで、責任を果たすということがあっても、それは構わないと思うんです。

 要するに、そういう充て職というふうによく言われるんですが、誰かがやらなければいけない仕事として、長のつく仕事に就く。そういうのになりたい人も世の中にはいるので、少し私の結論は乱暴かもしれませんが、少なくとも世界の先端を競うような研究者が集まっている研究機関においては、学長になりたい、学部長になりたいという人は少ないわけで、仕方がないから学長をやるか、仕方がないから学部長をやるか、という人が少なくないのだと思います。そういうときに、責任を取る仕事というのは、そういう人に割り当てられるのはやむを得ないことであり、かつ合理的なことではないかと私は思います。残念ながら今の日本の組織では、社長にしても、会長にしても、理事長にしても、総長にしても、何かそのような長のつく立場の人は、長がつく立場を利用して私腹を肥やすという体質があるせいか、長のつく立場に、立ちたがる傾向がありますね。それが利益に結びついている場合にはそうなるのは人間の悲しい性(サガ)だと私は思いますけれど。そうでなく言ってみれば、誰かが就かなければならない。それに就くことによって多少年俸が増える、あるいは年金が増えるという程度の小さな利得であるならば、その首をすげ替えることによって責任を果たすということは、これは組織の英知であると私は思います。

 そもそも責任というのを果たすというのはそのようなものでしかなくて、結局のところ誰の責任であるかということをきちっと明らかにするということ。これは本当は容易なことでないことだと思います。刑事裁判でさえ実際に判決をきちっと書く。裁判官はきちっと書くわけでありますが、その刑事裁判の結論がより上の裁判所、高等裁判所あるいは最高裁といったところで、差し替えを命じられるということはよくあるわけでありますね。それくらい裁判というのは難しい。刑事裁判でさえ難しいわけですから、民事裁判にいたっては、ほとんどの民事裁判は結局最終的な裁判官の判決を得ることなく、弁護士同士の話し合いで、話し合いというか妥協のしあいというか、要するに妥協の産物という形で話が収まるのが一般的であるわけです。それはお互いの言い分がお互いにあって、そのお互いの言い分に対して白黒はっきりさせるということが非常に難しいということを、多くの事例が示しているということではないかと思います。

 昔々、ハムラビ法典では、「目に目を」という、犯罪に対してそれに対応する処罰をする。これが法律の決まりごとでありました。しかし、当然のことながら、犯罪はどんどん複雑化し巧妙化する。そして責任も非常に巧妙に隠される。そういう時代になってきますと、ハムラビ法典ほど単純には人の責任を追及することができない。これは、今や社会の常識ではないかと思うんです。そして、そういう中にあって、いろいろなことに挑戦している。自分自身の限界に挑戦している人もいれば、自分の人生を他人の人生をより豊かにするために、あるいは他人の人生を不正義から守るために捧げている人たちもいる。戦争ジャーナリストって言われる人たちは、その人たちの中に功名心が全くないかどうか、そんなことは私は問題にすることがナンセンスだと思います。そんなことは功名心があったとしても、その功名心がその人を駆り立てて、世界の戦争の現実を人々の目にさらすことに役に立っているならば、その功名心は本当に「巧妙に値する」偉業なんだと思うんですね。そういうときに、それを功名心を持っていたからといって、それを「自己責任だ」というふうに切り捨てる。そういういわば第三者的な無責任、これが流行る時代というのは、私は末世ではないかと思うんですね。全ての人が責任を分担するという考え方。どんな人の責任も、その人の問題が起きたことの背景には、多くの人が絡んでいるんだ。そして多くの人の中には自分もいるんだ。だから、それに対して私自身も責任をほんのわずかではあるかもしれないけど、持っているし、その責任は果たしたいと思うというほうが、人間的ではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか。

 私は、何かことが起きるたびに、それを誰かの責任に押し付けてそれで済ますということに、日本人の非常に、最近の日本人のと言うべきかもしれませんが、潔くない体質、他人を平気で切って捨てる残酷な性質を見る思いがいたします。例えば、東京電力が福島で犯した過ち。大きな津波が来ることを想定内としていながら、しかし「津波のための大きな工事をしたならば、それによって原子力発電所の安全性というに対して、東京電力が不安を持っているんではないか」と、思われるかもしれないという恐怖から、その防波堤の工事をさぼった責任。これが一番重大な責任だと思いますが、それを東京電力にやらせてしまった。「それ見たことか。東京電力がそれほど原発の事故に対して、あるいは大津波に対して心配しているということは、原発が完全に安全ではないということの証明ではないか。」と、100%の安全、0%の事故、それを東京電力に要求してきた私達の責任、それはないのか。そういうことも時には考える。私達の1人1人の責任だと言っているんではありませんよ。東京電力の責任は非常に重大だし、東京電力を率いていた経産省の責任もすごく大きい。でもそのような、人に責任を押し付けるだけで話を済ますことはできない。安い電気料の潤いを享受していたのは私達である。一般人であるということを忘れてはならない。そして、東京電力のエンジニアや操作していた下請けの人々、その人たちを責めて済ます。こういうことはあってはならない。

 責任追及っていうのと並んで、事故が再び起こることを防止する再発防止。責任追及・再発防止、この言葉が持っている無責任さについて、私はいつも情けなく感じている次第です。私達は人間ですから、決して再発を防止することなんかはできない。私達は必ず過つ。必ず過つから、その過ちに対して万全の体制をもって用意しなければいけないというだけであって、決して再発は防止できないんだと。再発が防止できるのは、同じことが全く同じようにして起こることがないというだけ。それはできる。しかし、常に想定外の事態はあるんだと私は考えるんですが、皆さんはいかがでしょうか。私達は人間であって、必ず過ちを犯す存在であるということ。宗教者でなく、人間として生きてきた経験、それを持っている人であるならば、誰でも納得することではないかと、納得しなければならないことではないかと、私自身は考えております。

コメント

  1. 中筋 智之 より:

     原発は,地方の半島先端に造られ,専門家の高木仁三郎は「プルトニウムの恐怖,岩波新書」で「energy依存型でない文化をどう創るか.」と記した.原子力はCO_2を排出しない理由で政府・電力会社が推し,2011年東北地方太平洋沖地震に伴う津波に因り福島第一原発がmelt downしたのは,869年の貞観地震からの津波堆積物から理学では想定内で,老朽化は専門家から警鐘されていたが想定外とした東京電力担当者の裁判中で,各分野の専門家に拠る問題を定量的に一般国民に示し判断を仰ぎ先ず廃炉に取り組み,^3H処理水を海洋放出せずに済む方法として私はcement水和水とし半減期を待つ事を提案しました.私が総合建設会社で横浜・東扇島発電所間shield tunnelの試験・詳細設計をさせて頂いた東電担当者は高耐久性構造物を造ろうとし,非線形解析を用いた「性能照査型設計の手引き」を出しました.工学部出の技術者が設計する供用期間は東電施設で50年,土木構造物で100年,大隈重信に拠る人の天寿である125年と比し,理学部の範疇である仙台湾での海溝型地震の周期は900年程で,西欧に倣った設計・施工分離原則の中,理工学に独りで通じる又は協力しないと地殻変動を考慮出来ず,津波到達位置及び記録を残し語り継ぎ活かされなければ成りません.
     一方,同地震で東北電力は女川原発で過去の津波到達高さを基に設置し津波被害を防いだ事は技術者倫理の点で賞賛されています.
     「コンクリート標準示方書」に拠る許容応力度設計法で仕様を決め照査する限界状態設計法では構造解析の不確実性を考慮する係数で長岡氏に拠るcomputerの浮動小数点誤差を考慮できますが一般に1.0です. 短時間の記述式入試数学では考え方が正しければ部分点が与えられますが,実務では安全係数で考慮されない誤りは事故に繋がり,私は線形理論値とcomputerを用いた結果が整合する事を確めて非線形解析し,技術及び倫理が優れた人材を育て,適性・能力に応じて分業すべきと考えます.
     古来,西欧では,倒壊して死者を出す建物を造った者は死刑が相応とされ,日本でも死亡事故が起こると工事関係者は殺人容疑者とされ,耐震偽装は倫理欠如と判断され個人を罰すると共に,実務で出来るのは当前ですが担当者を明示し賞賛されないと優れた技術者が残れません.

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