長岡亮介のよもやま話275「論理を尊重しない世界」

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 「論理的である」ということは、どんな場面に最も求められるかというと、意見が違う者同士が自分の意見を主張するときに、相手の主張の中に論理的な欠点があるということを指摘する。論理は、論理的に正しいということを証明するために使うというよりは、むしろ「相手の論理が間違っているということを指摘する」ときに、強力な武器となるという側面を、多くの人が忘れていると思うんです。というのは、論理を教えるのは数学であると多くの人が思っていますが、必ずしも数学において論理を教えているとは私は思えないんですね。なぜかというと、まず数学の先生と言われる人たちが、皆論理的に物事を考えているかというと、私は非常に否定的です。ほとんどの検定教科書も含めて、学校で使われているものには、書かれている内容は数学的に飛躍があったり間違いがあったりして、論理的に考えると誤謬だらけなんですけれども、そのことに気づいて教えている先生がまずいないということ。つまり、「教科書に頼って数学を教えているということを、何も問題として感じてない」という状況からして、数学を教える人たちが論理的でないならば、数学で論理は教えられるはずがない。そういうふうに思うんです。

 だとすれば、どこで論理が鍛えられるかというと、まさに数学において、日本で言うところの背理法、国際的には間接証明法とか、あるいは帰謬法、間違いに帰着させる方法そういうふうに訳されるところの証明方法で、これが数学に取り入れられたのが、日本ではsophistというふうに呼ばれる、本来はsophistっていうのはsofia、知恵を持っている人っていうことですから知者という尊称でありますけれども、「懐疑論者」っていうふうに訳されることが多いですね。実際sophistの展開した論理の中には、「それは論理としてはその通りだが、常識的には違うでしょう」というような論理も入っていて、一般の人々はsophistたちの展開する論理に辟易としていた。つまり、反論することはできないが、その論理の誤謬を指摘することはできない。そのくらいsophistの論理というのは、sophisticateされていたんですね。洗練されていた。その「洗練されていた論理を数学に活用するということで、古代ギリシャの数学の洗練されたロジックが形成された」という話が、非常に高い信頼性をもって証明されているのが現代でありますが、論争をすることを通じて論理が鍛えられる。「数学は、その論争をする人から論理を学んだという歴史もある」というエピソードは、とても示唆的だと思うんです。

 「論争」、これが論理の能力を磨くということですね。論争が最も戦われる場で、どうもこの人たちは論理についての基礎教養を持ってないと思わせるのは、いわゆる国会答弁でありまして、主に野党の議員の長々とした質問に対して、非常に短く答えているような政府側答弁というのは、官僚の作文を本当に前の晩官僚が徹夜して書いたような作文、想定問答集に沿ってのらりくらりと責任を負わなくても良い、何も意味しない文章、空疎の文章を繰り返しているわけですね。その繰り返しの点、つまり反論になっていない、あるいは答えになっていない、答弁になっていないということを指摘できない野党もちょっと情けないんですが、最も最近は野党も与党化していて、そのような政府の責任を論理的に追及するのははしたないことであると。政党人としてまだ十分経験を積んでいない証しであるというふうに思われるんじゃないかと思っているくらい、野党の追及も論理的でありません。要するにそこでは論理が、良く言えばすれ違っている。悪く言えばあえて論理を避けて、別のことを喋ることによって答弁したことにしている。そういうインチキを見破ることができない。あるいは見破っているのにそれを見過ごすこと。これが政治家の仕事だと思っているのかどうか私は知りませんが、まるで論争になっていない。公共放送などでは「論戦」などというふうに言っていますが、論理の戦いでも何でもない。論理のすれ違い、こんなことがなぜ許されるのか、理解できませんけれど、全く論理的でない。私達はこういう論争的な場面でこれを通じて、論理を学ぶはずであるが、その論争において、論理的に物事を考えるということ意図的に避けている。これが日本の官僚文化の本当に残念なところだと思います。

 国民をなめた話だと思うんですね。「国民にはこのような議論が論理的にかみ合っていない。ということがどうせわかるはずがない」と、官僚の人、霞が関の役人たちは考えているんでしょう。しかし、国民はそれほど馬鹿ではない。本当はわかっている。本当はわかっているということを、国民は政治に対して無関心であるということで表現しているんだと、私は思います。国会の論戦が、せめてアメリカの上院・下院での議論のように、個人の責任においてきちっと議論を組み立てる。そういうものになることを期待しますが、今の国会議員の水準では、そのことを望むことの方が難しいということかもしれません。そもそも与党が答弁するのに、官僚の作文に頼らなければならないというような答弁では、本当は答弁になっていないということですね。官僚の書いた作文を読まずに、自分の責任で堂々と答える。政治家のリーダーという立場の人たちは、せめてそのくらいの能力は持ってほしいと心から願いますが、このような愚かな人を私達の政治のリーダーにしてしまっているのは私達国民でありますから、国民自身がその責任を結局問われるということになるのでしょう。私達は愚かな政治家を選んだということの責任によって、このような馬鹿げた政治の中に生きることを余儀なくされているという、悲しい悲しい現実を受け止めなければならないのだと、とても残念に悲しく、情けなく、思います。

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